徳川家康、小諸で失領する
小諸城で伊達政宗と豊臣秀吉を待ち受ける徳川家康の心は暗かった。秀吉は到着するやいなや
「家康殿、此度は信濃や甲斐でこのような事態、統制が取れているとは言いかねますな。」
と早速嫌味を言ってきた。
「心苦しくはありますが、我が家で収拾します故……」
と家康は続けたが、秀吉はピシャリと
「いや、こうなっては貴殿の内政問題とは言えぬな。諏訪以北の信濃、甲斐一国、そして上野の所領はわしが預かろう。」
と言い始めた。甲斐は伊達がそのまま治めるか、と思っていた家康にしてみると若干意外であったが、伊達政宗は
「甲斐にはあくまでも治安維持の目的で進駐しているのみ。秀吉様の代官にお任せいたしましょう。」
と秀吉の提案にのる素振りである。甲斐を取られるのに伊達が抵抗してそこで協調できるのでは、と期待していた家康は落胆するばかりであった。
とはいえ、小笠原貞慶らの行動は家康が預かり知らぬところ故、との主張は貞慶の嫡男、秀政が必死に徳川家への忠誠を語り続けたこともあってなんとか認められ、名胡桃城の佐々成政と小笠原貞慶らは独断で謀反を起こした、ということで三巨頭は一致した。
今後の算段をつけた一同は名胡桃城に出陣した。名胡桃城は多勢に無勢、佐々成政の奮闘もあったが、あえなく落城した。しかしその佐々は討ち取れずに行方不明となり、また落城の際に小笠原貞慶と石川康長が
「家康様万歳!」
と叫んだことで家康の立場はますます苦しくなった。両名は討ち取ったものの、人々には『口封じでは』と囁かれる始末で、家康としては頭を低くして嵐が通り過ぎるのを待つほかなくなったのである。
結果、石川康長の父の数正は改易、放逐となった。小笠原秀政は忠義を示し続け、名胡桃城の攻撃でも先陣に立って自らの陣に多大な損害を出しつつ手柄を上げたので許された。
そして徳川家康は甲斐・信濃・上野の所領を失い、甲斐には浅野長吉が、信濃には福島正則や山内一豊など秀吉子飼の諸将が入る、とされ、彼らと親しい家康はほっとしたが、実際に信濃高遠に信濃半国を与えられ赴任してきたのは大谷吉継であった。吉継とも親しいことは親しかったが、是々非々で当たってきて馴れ合いはしない上に家康に対して警戒している石田三成とも親しい、と油断できない人選であった。
結果徳川家の所領は尾張・三河・遠江・駿河の四カ国100万石余りまで減少した。その上長く伸びた腹を差し出しているような細く伸びたその所領は豊かではあったものの、全域に渡って警戒が必要となり軍備に費用が割かれることになったのである。
また家康の石高が半分以下となったため、諸侯における序列も、毛利や伊達、黒田に抜かれ、前田に並ばれ、数多くある大国の一つ程度、まで低下してしまった。そのため、近年老いてきた秀吉の『次の天下人』として確立しつつあったその権威はすっかり低下してしまったのである。
伊達政宗は駐屯していた甲斐を秀吉方の浅野長吉に引き渡したことで一件、なんの成果も得られていないような素振りをしていたが、その実、武蔵全域の支配を確立し、下総の結城や安房・上総の里見などを完全に従属させてその所領の大半を吸収するか属国化した。また北条との関係を強化したこともあり、上野を一門である上杉成実がほぼ全土を掌握したことで(真田領もあるがこれも伊達の従属同盟)伊豆以東の全土の支配をほぼ確立することができたのであった。
名古屋城の徳川家康は天守で爪を噛みながら臥薪嘗胆を誓った。
「このままではすまさぬ。秀吉め。信濃・甲斐を取り上げるとは。」
と恨み言をいう。本多正信は諌めて
「今は雌伏の時でありましょう。ここはご自制を。」
と家康を宥めた。
こうして徳川家康の勢力を大きく減じることに成功した豊臣秀吉であったが、老いが目立ち始めたその様子に、諸侯は『次』を狙い始めたのである。これまでは家康がその最右翼であったが、『ひょっとすると自分にも』と思い始めたのだ。影響力の大きさでいうと伊達政宗も巨大なものがあったが、伏見よりも江戸や仙台にいることの多い政宗は中央政治から距離をおいて東国に専念している、と見做されることも多かった。
そんなバランスが続いていたある日、慶長三年(1598年)、豊臣秀吉が病に倒れた。
今後の天海じゃなくて展開ちょっと詰めたいので更新お休みします。すみません。
1-2週間で戻ります。




