真田一族の陰謀
それからしばらくして、京の二条城と名古屋城の間を忙しく往復していた徳川家康の元に鬱陶しい報告が入ってきた。
「なに?北信で深志を任せている石川数正(注:秀吉に引き抜かれていません)と真田の間で境界争いだと?」
「はい。小諸の依田信蕃(注:天正壬午の乱がなかったので戦死せず仕えている)との間の荷駄が真田の配下に襲われたと。」
「そんなことをして真田は許されると思っているのか。」
「やつらが言うには南信濃は徳川家の約束であったが、北信濃は真田のものであったはず、と。」
「だから真田とは関わりとうなかったのだ……」
と家康は頭を抱えた。
「真田といえば上杉の寄騎であろう。上杉成実殿に真田を引かせる様に使者を出すのだ。」
と家康は指示し、早速使者が送られた。しかし上杉からの返事は
「なんと。真田は上杉の組下ではないので言うことを聞かない、申し訳ない、だと。」
なんとも無責任な……と家康はまた頭を抱えた。そこで家康は
「伏見の伊達政宗殿のところへ使者を送れ。流石に真田も政宗殿のいうことなら聞くであろう。」
と再び使者を出したが、その返事はますます頭が痛くなるものであった。
「……なんと。上杉家中に潜り込んでいた佐々成政が上杉家を脱し、真田領内で山賊と化しているだと。であるので我家の荷駄隊を襲撃している真田は偽物では?だと。先の報告では真田自身がやっていたのではないのか。」
家康は人をやって調べさせたがその報告はますます混乱を招くものであった。
「一体どちらなのだ。我らの荷駄隊を襲っているのは、真田自身なのか、真田領に潜り込んだ佐々成政なのか、それとも他の誰かなのか!」
家康はイライラして爪をかみ始めた。それを本多正信はなだめて
「いずれにせよ真田領に原因があるのは確かです。ここは関白と政宗に断りを入れて掃討しましょう。」
それに同意した徳川家康は真田攻めの許可をもらいに豊臣秀吉の所に使者を送った。
秀吉は
「山賊退治とは大儀なことで。しかしこれはあくまでも徳川殿の問題としてわれらは手出しをしない、ということでよろしいか?」
と使者に訪ねる。
「……ということですがいかに?」
と確認に来た使番に家康は
「我らが真田に手を出すのはいいということだな!ならば関白殿の力は借りぬ、とお伝えせよ。」
と返事を送った。政宗の方には
「真田は貴殿の組下の筈だが、手を出しても差し支えないか?」
と使者を送った。すると政宗は
「真田一族が徳川様に攻撃したという話は信じがたい。山賊の成敗は致し方ないが真田を直接攻撃するのは当家が確認するのでお控えいただきたい。」
と歯切れの悪い返事であった。
「真田を信じるというのか……うーむ。」
と家康はいまいち腑に落ちなかったものの、ひとまず待つことにした。すると伊達家からの返事は
「やはり襲っているのは真田家ではなく、佐々成政の郎党の様。真田家への攻撃は控えられたし。真田を不当に攻撃するなら当家も相応の対応をさせていただく。」
であった。
「だったら真田家にとっとと佐々成政を捕えてこい!と使者を送れ!」
と家康は命じた。そしてなおも被害に悩まされること半年、ついに『捕えた』と報告があった。
「随分待たされたが……それでこれがその首か。」
「はっ。」
と首桶を開けさせると、出てきたのは佐々成政とは似ても似つかない男の首であった。
「成政ならわしは顔を知っておる。こいつは違う!どこのどいつだ!」
と怒りの使者を送ると
「……真田殿は成政殿の顔を知らないので間違えもうした。と謝罪してきました。佐々成政はあらためて捜索中、と。」
さらに半年ほど待たされて、届けられた首はまた別人のものであった。
「ちがうと言っておるに!」
「しかしこれが山賊の首領だと。」
その後数ヶ月は確かに襲撃はなく、平穏であった。しかししばらくするとまた襲撃が始まり、北信濃の徳川領は安全な交通がほとんど不可能となった。重要なやり取りは多大な護衛をつけて送るので勢い、財政的な負担や手間が莫大なものとなった。
「もう我慢がならぬ。真田を直接攻めて問い詰めてやる!鳥居元忠!兵を率いて真田を攻めよ!」
「伊達殿には許しを得ないで良いので?」
「こうなったら事後承諾で構わん!真田一族の命さえ取らねばよかろう!」
とついに徳川勢は兵を招集して上田城を攻めることにしたのであった。
「政宗のところにはわしが行ってくる!お前らはさっさと上田に向かえ!」
そうして徳川家康は伏見城に伊達政宗を訪ねた……がいなかった。
留守居の鬼庭左月斎は
「政宗様なら利根川の工事の差配をすると仰って江戸に行かれましたが。」
「なんと。」
と家康はならば東海道を下って自分の領内を通るだろう、と急ぎ伝令を送り探らせたがどうにも通った気配がなかった。
「うーむ。では何処に?」
と考えた家康であったが、その実、政宗は北陸の前田領から越後の上杉領を通り、そこから江戸ではなく庄内の最上領に入って北楯利長による北楯大堰の見事な灌漑効果を見届けた後山形に入って最上義光と親交を温めてから一旦仙台に戻っていたのである。
そこで忠宗と戯れて親子の交流を持った後、北上川の改良や寿庵堰など自領の開墾状況の工事の進捗を視察し、それから会津に下ると父と慕う(この話では実兄)の蘆名盛輝の所に訪ねて歓待を受けていた。
その中途も行く方々の温泉に立ち寄りゆるりと養生し、さらに会津を辞して土産についに完成した白磁をもって出立した後、妻の愛姫と落ち合ったかと思うと実家の三春田村家を訪れ、こちらに白磁を進呈したりこれまた温泉に入ったり……と
要はゆるゆるとあちらこちらを漫遊しながら仙台から江戸に向かったため、いつまで立っても徳川家康の使者は伊達政宗に会うことができなかったのであった。




