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加藤清正、朝鮮へ再び渡る

 南朝鮮王朝の成立で上手く行ったはずの唐入りに綻びが見られ始めた。ケチのつきはじめは病弱だった豊臣秀吉の嫡男鶴松(棄丸から改名)がやはり3歳で病死してしまったことであった。秀吉が悲嘆に暮れて政務に手がつかなくなったことが配下に対する統制の緩みを生んだのであろうか、秀吉配下の諸将にも亀裂が入り始めたのである。


 事の発端は南朝鮮王が元々日本侵攻の際に捕縛した加藤清正の武勇と人柄に惚れ込み、小西行長に朝鮮を任せて九州に帰国していたのを嘆願して朝鮮に連れ戻したことであった。政務・貿易の中心は相変わらず小西行長が勤めていたが、南朝鮮王は王の近臣のような形となった加藤清正になにかにつけ相談し、頼るようになったのである。


 清正は当初遠慮をしていたが、王があまりにも清正を慕うこともあって徐々に王宮取次のような立場となり、『朝鮮王と相談するには加藤清正の許しを得なければならない。』と言われるまでになった。軍監の小早川隆景は小西行長に近い立場を取り、清正を退けようとしたが、清正自身は退く意思を見せたものの南朝鮮王が強固に清正を手元に置くことを主張し、なにかにつけ清正を頼るようになったのである。


 この小西行長対加藤清正の構図に、調停を期待されたのは朝鮮総督の豊臣秀康であった。しかし武人として知られ、剛毅な秀康は一方的に加藤清正に肩入れしてしまったのである。


 そのため、南朝鮮の宮廷は加藤清正と豊臣秀康が属する王党派と小西行長と小早川隆景が属する日本派(王の意思に反している、とされそう呼ばれた)に分裂してしまったのである。


 豊臣秀吉が万全な状態であれば、状況を調査し、適切な人員の交代などを行って早々に収拾できたであろうが、鶴松を失った秀吉は身動きが取れず、石田三成を派遣するに留まった。石田三成は小西行長に肩入れして加藤清正を責めたため、南朝鮮王と豊臣秀康はかえって清正を庇って対立が深まる事態になったのであった。


 鶴松が死んでしばらく経ち、淀の方が第二子を懐妊した、という知らせを受けた豊臣秀吉はいくらか立ち直り、事態に徳川家康の息子秀康が関わっていることもあって聚楽第に三巨頭の招集を要請した。


 そして徳川家康と伊達政宗が聚楽第に来訪したのであったが、そこにもう二人の客人が現れたのである。


 それは毛利輝元と、毛利輝元に引き連れられた征夷大将軍足利義昭であった。


「お二方はお呼びしていないのですが。」


 と訝しむ豊臣秀吉に毛利輝元は


「伊達政宗殿が鎮守府大将軍として参加されているのですからこの征夷大将軍足利義昭様も参加するのは当然かと。」

「とは言われましても。で、貴殿は。」

「それがしは義昭公の後援として付き添いであります。それ自体に元々それがしの配下である叔父小早川隆景も関わっておりますれば。」


 秀吉としては足利義昭を推戴して参加しよう、という毛利輝元の態度は極めて不快であった。それは輝元が西国を差配していた秀吉の軛から離れて別の神輿を担ぐと宣言したも同然だったからである。しかし小早川隆景が南朝鮮の事態に深く関わっている、という点は否定できず、参加を認めることとなったのであった。


「さて南朝鮮の事態ですが……」


 秀吉が話し始めた。


「南朝鮮王が加藤清正を慕って、とされておりますが、これ、南朝鮮王は清正を使って小西行長の統制を薄めようと算段しているのではありますまいか。」


 と伊達政宗が意見をいう。


「うむ。わしも同意見じゃ。しかし清正がいなければ南朝鮮王が言うことを聞かないのも確かでな。」

「本来中立で調整をしてくれればありがたかった小早川隆景は小西殿よりとされておりますが、毛利殿、いかに?」


 とせっかくいるのだから意見を言え、と徳川家康が水を向ける。


「い、いえ。隆景叔父は公正を重んじる性格でありますから、そのようなことは。」

「しかし秀康殿と隆景殿が対立しているのは上手くありませんなぁ。」


 と秀吉。


「こうなっては秀康を戻させていただいたほうがよいのでは?」


 と家康が言い出す。


「うーむ。となると後継には誰を送ろうか。」


 と悩む秀吉であったが、ふと思いついたようで。


「よし。秀俊を送ろう。総督はむしろ重すぎない方が良かろう。」

「淀の方様にもまたお子ができたこともあり、秀俊殿に立場を与えるのも良いかと。」


 と皆も賛成し、豊臣秀康の帰国と総督として金吾秀俊が送られることになった。


 豊臣秀俊はその後無事に南朝鮮に赴任した。幼かった秀俊は小早川隆景を父と慕い、小早川隆景が主に採決をなし、また加藤にもかなり気を使ったことで加藤・小西両名も落ち着き、南朝鮮は一旦平穏を見た。そして秀俊は隆景を慕うあまり、後に隆景が病死した際には、秀吉の反対を押し切って隆景の跡を継ぎ、小早川秀秋と名乗るようになったのである。

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