利休脱走
関白豊臣秀吉は諸侯に唐入りの打診をしたが、その返事はあまり芳しいものではなかった。史実のように秀吉が絶対的な権威を持っていれば逆らうものは滅ぼされたであろうが、武家の代表としては鎮守府大将軍の伊達政宗がおり、また突出した所領を持ち、右大臣で源氏長者、と武家でも公家の立場でも二人に次ぐ立場が保証された徳川家康も、秀吉に 絶対的な服従どころか三人で合議を開いているような状況で、なにがなんでも秀吉に従う義理はなかったのである。
一応奥州から関東は政宗、東海・中部は家康、畿内以西は秀吉、と大まかな担当地域は別れており、唐入りに直結する西国の武将は秀吉の管轄ではあったものの、少なくとも毛利、黒田、島津の三者は寄騎抜きならば秀吉に匹敵する戦力を有しているのもあってなにがなんでも言うことを聞く状態ではなかった。
そのため、三巨頭の合議では唐入りの拠点は福岡、とされたものの、当の黒田家の返事は『唐入りには参加するが福岡城は当家の統治に必要なため、唐入りの部隊の受け入れは難しい』と体よく拒否されてしまったのである。
そのため、政宗や家康は止めておくように言っていたもの、結局は秀吉の最初の案の通り肥前名護屋に新城を築城し、そこを本拠としたのであった。
しかし史実でおこったような水場争いはおこらなかった。というのは史実では全国の大名が集結したのに対して、東国の諸将は内政を理由にほぼ参加しなかったのであり、西国でも先に上げたような大国は付き合いに数千騎程度出しただけだったのである。もちろん加藤清正など秀吉子飼いの武将は争って兵を率いて参加していたのであるが。
そのような有様に肥前名護屋城の天守で豊臣秀吉は周りに当たり散らしていた。
「なぜどいつもこいつも率先して兵を出さないのだ!」
「まぁ徳川様が東海地方の地震からの復興を理由に手勢のみ率いていらっしゃっているのが大きいかと。伊達様は1万ほど率いてきてますからまだやる気を見せてますが。」
と石田三成が答える。
「ええい、これは国家の事業なのだぞ!力を合わせずしてうまくいくものか。」
と怒る秀吉に、茶道頭の千利休がつい呟いた。
「ですから唐入りなどせずに国内の足固めをしたほうがよろしかったのに。」
「なんだと!」
と怒る秀吉。
「まぁまぁ兄者、ここは落ち着いて。」
と兄が天下人にならなかったがゆえにストレスが減ったのか、体調を崩さずまだ健在な豊臣秀長がなだめる。
「殿下、ここは逆に親しいものが手柄を上げれば総取りできるということで。」
と進言したのは蒲生氏郷である。江戸に赴任しそこねて伊勢松坂を治め続けていたが、逆にそれがもっともストレス源であり、また毒をもられた伊達政宗との関わりが避けられる結果となり、むしろ働き盛りで絶好調であったのである。
「うむ。伊達は朝鮮全土を落とすのは難しいと言うが、ここは聞かずに攻め入るのもありやもしれん。」
「しかし伊達が建造したイスパニアの船の写しは羨ましいですな。」
と福島正則。伊達政宗はちゃっかりイスパニアと交渉してガレオン船の写しを建造していたのだ。金蔵が空になったと片倉重綱は枕を濡らしていたそうだが。
「しかし伊達はあの一隻しか渡海しないと言うぞ。何の役に立つのやら。」
と加藤清正は憤る。
「まぁまぁ皆さん、ここは仲良くいたしましょう。」
とその場に入ってきたのは後藤又兵衛である。黒田家は当主孝高、嫡男長政ともに出陣せず、又兵衛を将として送ってきたのだ。島津も当主の義久は参加せず、後継と目されていた次男義弘の長男である久保も来ず、その父義弘と弟の家久が参加していた。
その晩、秀吉は石田三成を呼びつけると、利休について相談した。
「千利休は増長していると思わんか。天下の茶頭と持ち上げられ、わしに対して何の遠慮もない。」
「しかし利休殿が殿下の所に仕えていることで殿下が日の本の文化の頂点に立っていることを明示できているのでは?」
「それがむしろ『仕えてやっているのだ』と言わんばかりの態度だ。なまじ慕うものが多いだけにむしろ厄介に思う。」
「処しますか?」
と三成。
「うむ。ここは利休に罰を与えて処分するのもやむを得ないと思う。」
その相談内容はその晩、利休に早速もたらされた。当の石田三成の手によって。
「……僕が一番茶道をうまくできるのに……」
利休は呟いた。
「むざむざ死なれることもありますまい。ここはいかがいたしますか?細川忠興などは受け入れてくれると思いますが……」
「いや忠興殿では関白殿下の所領に近すぎてかえって迷惑がかかるであろう。いや、三成殿お知らせいただきありがたく。」
と伝えたその晩、利休は茶色のボロ布をかぶって肥前名護屋城から逐電した。
「なに!利休がいないだと!」
翌朝、関白秀吉は予想外の事態にキレた。
「草の根を分けてでも探し出せ!」
と命じたそばから石田三成が報告する。
「玄界灘に利休の服が浮いておりました。身を恥じて海に飛び込んだようです。」
「……であるか。」
しばらくしてさっさと付き合いを切り上げて帰国した徳川家康が尾張名古屋城の城下をお忍びで出歩いていた時、飯屋で異常な威厳を放って黙々と美しい所作で食事をしている壮年の男に出くわした。
「わしは徳川家康である。そなたは何者だ。」
と(わかっていたけど)訊ねる家康。
「名乗るほどのものではありませぬ。」
とその男は答える。
「わしが家康とわかっていてもその答え。……いい目をしておる。度胸もある。どうだ、わしの所に仕えぬか。」
「家康様に迷惑がかかりましょう。」
「いや、うちにはな、ほれ、天海というものがおってな。奴の預かりにすれば素性はどのようにでもなる。なにせ天海自身がな。うはは。」
と家康は言い、その漢は密かに家康に仕えるようになったのであった。




