そうだ、伏見、行こう
伊達政宗は江戸で幕府を開き、天下を差配せん、と志したが前段の通り全国には伊達と同等どころか上回る勢力もゴロゴロしており、正親町天皇の力添えも得られなくなった政宗が諸侯を自由に従える、というのには程遠い状態となっていた。そもそも史実で徳川家康が江戸で幕府を開けたのも徳川家の力が他より卓越しており、当時最大の大名が前田家120万石に対して徳川家の支配領域は700万石ほどに達しており、たとえ諸侯が徒党を組んでも徳川家と譜代大名のみでも対処にはそれほど困らない状況だったことが大きい。
現在の伊達家の状況はむしろその真逆であり、下手をすると室町の将軍家や鎌倉の将軍家のごとく配下に首をすげ替えられる立場になってもおかしくないほどであった。
思案の挙げ句伊達政宗は江戸・仙台からの全国支配を諦めることにした。そこで政宗は畿内の支配拠点として京……そのものには関白の執務書として豊臣秀吉が聚楽第を築いているため、伏見に城を築くことにしたのである。水運による利便性を重視して史実では大地震で崩れた指月の地をあえて選んで築城を開始した。築城は大将軍の命をもって諸大名の協力を得てなされたが、その際、伊達政宗は棟梁として岡部又右衛門と徳川家の若き大工頭にして名古屋城築城を成し遂げた新鋭、中井正清の双方を呼び寄せて二人に依頼した。
「とにかくご両名には地震に強い城を築いていただきたいのだ。」
「先年の大地震もあり上様の心配はわからないではありませんが、この天守が上に望楼を乗せるのではなく中井正清が名古屋で試みた上の階の柱が下に抜けて支える入れ込み型で作れ、というのは。」
「うむ。望楼型は優雅であるが、どうしても地震の時に転げ落ちる嫌いがある。よって柱が全て通った塔のような形にしてもらいたいのだ。」
「他も腰巻きなどを用いて石垣を高石垣にするのは一部にするなどとにかく地震対策第一という感じですなぁ」
と中井。
「その通りだ。とにかくなにかがあっては遅いのだ。天守には二本の心柱も通して万全をきたしていただけるとありがたい。」
と秀吉が築いた瀟洒な屋敷風の風情も合った指月伏見城に対して、政宗が築いた伏見城は船着き場の整備などは共通していたが、幅が広く層塔式のちょっと低めなどちらかというと丹波亀山城や津山城を地味にしたように伊予松山城の風情を加えたような代物になった。全体的に土塁も多用し、石垣を使うにしても上部にだけ置く鉢巻石垣が多用されており、すっかり石垣が普及していた西国においては『さすが東国者だけあって無粋よの。』と噂をされる有様であった。『徳川様の名古屋城に比べるとどうにも地味。』とまで言われ、『関白様の大坂城とは格が違う。』などと天下を差配する一員の城としては悪評を言うものも多かった。ともあれ、背が低いとは言ってもそれなりの規模となった伏見城は天下普請の協力もありひとまず使用できる状態となり、伊達政宗は伏見城に入城したのである。
豊臣秀吉が築いた聚楽第のすぐ南に、徳川家康もまた二条城を築城していた。そのため、京近辺には聚楽第、二条城、そして伏見城の順番で天下に覇をなす諸侯の大きな城が列をなす状態となり、京の住民にはその異様な姿が不安を抱かせた。
「伊達はんが大将軍とはいえ、関白はんや徳川も随分勢力があるようで。」
と京雀から見ると伊達の天下というよりはむしろ三巨頭体制、と見られていた。
実質的な三巨頭体制はお互いへの緊張を生み、よって史実の秀吉(や織田信長が計画していたとされる)外征を行う余裕はなかった。三巨頭のうち豊臣秀吉は年齢が最も高い上に明確な後継者に恵まれず、自らの家の成り行きに不安を覚えていた。
徳川家康は庶子の秀康に加え、格の高い西郷氏に嫡男の長丸が生まれ、後継者問題では先んじていた。その上伊達政宗と督姫の間に後に家宗と名乗る嫡男も生まれ、伊達家にたいする立場という点でも優位であった。
そのような成り行きを見て諸侯はもっとも年若く、また大将軍である政宗に近づく一方で、徳川家康に積極的に近づく者も多くなっていったのである。
加賀の前田や筑前の黒田は本来秀吉の家臣とでもいうべき存在(元は信長の直臣と播磨の地侍だが)だが、秀吉に気を使いつつも家康に接近した。両家とも100万石に近い巨大な所領の持ち主であり、先の関ヶ原で豊臣家を裏切った毛利も家康に接近していたことを考えると、箱根の関以西での徳川家康の権威は絶大なものとなっていたのである。
豊臣秀吉の家臣で近江佐和山城主、石田三成はその状況に頭を痛めていた。このまま家康に諸侯の求心力が高まっていくと、豊臣家は先に方便で弁明した通りただの公卿になりかねない様子であった。そこで三成は伊達政宗に接触を試みたのである。
「上様、ご機嫌麗しゅう。」
と伏見城で石田三成は伊達政宗とあった。
「ここでは上様はやめてくださっても結構。で、お話とは?」
と伊達政宗は茶を点てながら聞く。
「上様は徳川様が権勢を振るっているのをどう考えます?」
と政宗の申し出にも関わらず上様と呼ぶ三成。
「どうもこうも内府(家康=やはり就任していた)様は天下の安寧のためを考えて動いていらっしゃるゆえ、我らもともに助けていこうと。」
「しかし内府の所領は上様に三倍しますな。それで上様の意のままになるとお考えか?」
「そりゃ我が手前勝手なことをすれば内府殿も逆らいましょうが、今はそのようなこともなく。」
「内府を追い落とす手段があるなら、ご興味はお有りか?」
「……治部殿、その話は聞かなかったことにいたしましょう。豊臣家が徳川家に対して快く思っていない件、我は徳川には伝えないことにします。」
「しかし、上様、このままでは伊達家は徳川家に飲み込まれますぞ。」
「ここはお引取り願いたく……」
と丁重に石田三成を帰らせた伊達政宗であった。パンパンと手を叩くと黒脛巾組の太宰金七がおりてくる。
「間者はいなかったか?」
「伊賀者もここまでは入れませぬ。」
「よし。……しかし豊臣家は徳川の下に立つのはよし、としないようだな。しかし徳川家をそのままとしていても我らもじり貧か……いかがいたすのが良いのだろうな。」
「いやそこは三成の深謀かもしれませぬぞ。」
「おお、片倉小十郎か。聞いていたか。」
「我等と家康殿を争わせ、弱ったところを豊臣がいただく気かと。」
「うーむ。それはありそうではあるな……秀吉殿は大身の者の中でもっとも歳上で子にも恵まれていないので焦りがあるのやもしれんな。」
「でしょうな……しかしこう考えると徳川様の威光が盤石過ぎてどうにも手を下し難いですなぁ。」
「うーむ。我としても家康殿にちょっかいを出すつもりは今はないのだが……秀吉殿もまだまだご活躍いただけるであろうし、ここは一旦は待ちだな。」
と片倉小十郎に告げた。
そうして武家の頂点は伊達政宗であるものの、朝廷との取次は豊臣家が、そして武家との取次の大半は徳川家に集まり、政宗の存在はお飾りに近い状況となった。しかしそこで政宗はすぐさま動くことなく、まず自らの領土の開墾などを進めて地力を高めつつ、諸大名との親睦を深めることに努めていたのである。




