豊臣秀吉、逃げの一手でとにかくなんとかする
「この度はこの者の独断専行で皆様にはご迷惑をおかけもうした。」
と仮落成も間もない聚楽第で豊臣秀吉が諸侯の前に差し出したのは薄濃にされた豊臣秀次の首であった。
「では関白様は此度の東征は預かり知らぬ、と。」
と先手を取ってすっとぼけるのは徳川家康である。
「まったくもって恥ずかしながら、秀次が勝手にいきり立って兵を出したまでのこと。おそらく小牧の陣で囚われた個人的な恨みによるものでしょうな。であるがゆえに毛利殿も中途で帰陣してしまったのかと。」
とこれまたとぼける秀吉。
「その毛利殿が足利義昭様を征夷大将軍として担ぎ出そうとしていましたが。」
と今度は伊達政宗が問うと、
「私がその義昭にございます。」
と秀吉のそばで控えていた坊主頭の男が平伏する。
「魑魅魍魎の争いに巻き込まれるのはまっぴらごめん、と。」
「で、どういたしましょうなぁ。」
「わしは武家の棟梁として武士の頂点に立つのではなく、武家と朝廷をつなぐものになろうかと。」
と秀吉が言い出した。
「摂津、播磨、山城などの本領以外は返上し、諸侯に委ねようかと。」
「うーむ。まだ大きい気がしますが。」
と本多正信。
「主上に使える上で京と大坂は手放しがたく……」
「では京は直接治める必要はありますまい。この聚楽第など諸城は保たれてよいが、公家らしく領国は摂津、和泉65万石ほどにされよ。」
と言い放ったのは家康の謀臣本多正信である。
「致し方ないが、旧領の諸城にはゆかりのものをせめておいても差し支えなかろうか。」
「関白様の下知というわけではなく、独立した大名として認めましょう。」
と家康が連れてきた天海僧正がいう。
『天海……どこかで見た顔のような気もするが……』と思いつつこれも臥薪嘗胆、と豊臣秀吉は受け入れた。
こうして秀吉の直轄領は解体され、北陸は加賀・能登80万石の前田利家がそのまま独立して所領し、越中は上杉成実の所領となった。越前、近江、大和、美濃などの大国は諸将に細かく分けられた。播磨には亡き池田恒興の遺児池田輝政が入り、備前の宇喜多は後ろ盾を失い、岡山を与えられたのは関ヶ原で決定的な場面を作った小早川隆景であった。毛利は因幡を吉川広家が加増され、一気に往年の元就が支配していた全盛期の領国を取り返したのである。そして四国は豊臣秀次が処分されたことで土佐西半分も長宗我部信親が取り返し、一国を支配することになった。長宗我部父子は泣いて感謝したという。
もっともきな臭い状況となったのは九州であった。島津義弘は無事に生還したが、九州北部での大友家の動乱を鎮圧したのは立花宗茂の協力を得た黒田孝高であった。黒田孝高は戦後も上手く動き回り、中央が揉めている間に自らが制圧した筑前、筑後、豊前、豊後に対する領有権を、筑後はそのまま立花宗茂に渡して確立し、どさくさに紛れて三カ国100万石の太守に成り上がっていたのである。島津はその一方で戦線縮小を図って撤退したため、薩摩・大隅・日向の三カ国をの支配を固めていた。そのため、肥前の鍋島や有馬、肥後の諸将と言った所は独立を取り戻したのであった。
豊臣が武家に対する優越性を低下させたため、武家の棟梁として誰が付くか、という点が争点となった。徳川家康は内大臣に位を進めていたが、秀吉を除くと最も位が高いのは准二位の伊達政宗となっていたのである。
ここに至り、徳川家康は伊達政宗に幕府を開くことを進め、自らはその補佐に回りたい、と表明した。その一方で家康は源氏長者を手に入れていたため、政宗は家康を完全には信用せず警戒を続けていた。
「しかし仙台で幕府を開いても西国が遠すぎて統制が効きそうにありません。ここは中央に近いどなたがなさるべきでは?」
と伊達政宗は徳川家康に聞いた。
「いえいえ皇孫の伊達様こそが将軍にふさわしかろうと思います。」
と家康は持ち上げる。
「となれば京に近い地に城を築かれて移られては?」
と家康が勧めると政宗は
「京では我が本領から遠すぎて落ち着きませぬ……そうだ京は代官を置きますゆえ、家康様、江戸をいただけませんか?」
と家康に迫る。
「なんと。江戸は我らが苦労して攻め取った地にて……」
と苦しそうな家康に
「尾張清州城は先年の地震で大きな被害を受けましたので、那古野を広げて名古屋城と名付け、東海から畿内を睨んではいかがでしょう。尾張に加え伊勢、美濃も差配されては?」
と西側への国替えを勧められる。普通ならば都に近い大国であり、断る要因はない。三河遠江、駿河の本領も保たれている。しかし江戸は今後の東国支配を考えると抑えておきたい家康であったが、結局政宗の勧めに従い、名古屋に巨大な城を築いて本拠とすることにした。
一つには伊達政宗と督姫の間に長男が生まれ、家宗と名付けられたその男児に仙台を任す、と政宗が明言したこともあった。
こうしてついに伊達政宗は江戸城に入城し、江戸を首府、仙台を副府として幕府を開いたのである。その先行きは東海に縁戚ではあるが、300万石近い巨大な所領を持つ徳川家康、中国の毛利、九州の黒田と島津等など巨大な勢力がここかしこに存在し、豊臣秀吉も武家からは退いた、と言いつつ関白として朝廷に重きをなしつつ、難攻不落の大坂城を保っている、と不安定な要素に満ちていた。巨大な所領を持つ諸侯は政宗の意向に簡単に従う状況ではなく、政宗が夢想していたような江戸幕府に対する成り代わり、という状況ではなく、むしろ足利将軍家の再来、とでも言うべき状況に自らが置かれているのを伊達政宗はひしひしと感じていたのであった。




