そして諸軍は決戦の地に集まる
いよいよ東国を攻めよう、と大軍を集結させたまさにその時、豊臣秀吉の軍勢を天正大地震が襲った。
「者共!静まれ!静まれ!」
と諸将が号令をかけ、どうにか落ち着くも凄まじい揺れにそこここで被害が出ている。
「ここは国元の様子を見るためにも一旦撤退されては?」
と石田三成が進言し、長束正家も
「これでは輜重隊の運営にも支障が出ます。一旦兵を引き、国内の立て直しを。」
と付け加えた。
「やむをえんか!家康、政宗は運が良い男よ……」
とため息をついた秀吉であったが、ここはムキにならず兵を一旦引く決断をした。
秀吉は指示を出すためもあって早々に大阪に帰り、部隊の退却は『引き取るぐらいはできるだろう。』という理由で三好秀次改め豊臣秀次に任された。秀次にとっては汚名返上の機会である。そして大垣の辺りに本隊が辿り着いたころ、豊臣家の諸隊に耳を疑う一報が届いた。
「徳川家康が兵を挙げ、岐阜城を攻めております!攻め手には上杉、真田、北条、最上、津軽、そして伊達などの諸隊が!」
「馬鹿な。清州城もこの地震では被害を受けたはず。」
殿軍を率いる豊臣秀次は判断を大阪に仰ぐべく、使いを送りつつ諸将を集めて合議を開くことにした。
「……しかし政宗殿はこの地震を見越していたのですか……」
と馬を並べつつ徳川家康が伊達政宗に尋ねる。
「いや、地震というのは定期的に起こるもの、と言われているがゆえちょうど今ぐらいではないかと。」
と『知ってた』とは言えずごまかす政宗。『この男には天の運もあるのか。侮ってはならぬな。』と心のうちでも思う家康だが
「おかげで兵を安全な場所に集めておいたため迅速に攻めることができますな!」
と政宗に声をかける。
「岐阜城の織田秀信は若すぎるがゆえ、挑発すればすぐ出てくるでしょう……お、早速出陣した。」
と政宗が軍配を差し出す先で岐阜城から打って出る部隊があった。しかし多勢に無勢、容易に包囲されて降伏し、政宗の言葉通り岐阜城は落城した。
「さてここから大阪を目指して関白殿に話を付けますか。」
と気楽にいう政宗であったが、徳川家康は
「といっても政宗殿には次の場が見えておるのでしょう。」
と言い出す。それを聞いて政宗は一寸考えた後、
「おそらく関白殿の軍勢はこのあたりに出てくるかと。」
と地図を扇で指した。そこは『関ヶ原』であった。
豊臣軍本隊の退却を指揮していた豊臣秀次は大垣で秀吉の指示を仰いだ。秀吉は家康や政宗の侵攻を聞いて自ら大坂城から向かいたかったところではあるが、地震の被害があまりにも大きく、出発にはいくらか時が掛かりそうであった。そうなると秀次よりも実績のある実弟秀長に指揮を任せたいところであったが、秀長が元々担当していた大和の被害も大きいこともあってむしろ秀吉よりもあちこち駆け回らなければならない状況となっていた。
そのため、秀吉は大垣の秀次に
「自分が到着するまで徳川・伊達との決戦は避けて待て。」
と指示をした。大垣にいる諸隊よりは先行していた毛利勢は南宮山に吉川元春が、そして松尾山に小早川隆景が布陣していた。毛利輝元は秀吉とともに早々に大坂城に引き上げていた。秀次は吉川や小早川にも大阪に戻らずひとまずそこで滞陣を続けるように要請した。
秀次の考えでは大垣には十分な兵力があり、ここに立てこもっていれば秀吉の出陣まで十分に耐えられるはずであった。しかし逆に大垣には秀次麾下の部隊の数は多すぎ、また『伊達が水攻めをしてくる。』との噂が流れた。
豊臣家の兵卒の中には織田信長の仙台攻めに参加したものも多くおり、それらのものには仙台城下の名取川の氾濫を思い出すものも多く、騒ぎになりだした。その上東国勢はある程度の兵を置いて先に進む構えを見せたのである。
ここにおいて秀次は浮足立って狂ったように大阪に救援を求めた。
「こんなことなら黒田官兵衛を大友が暴れているからと言って九州平定に回すのではなかった。」
と悔やんだ秀吉であったが秀次に対しては『やむを得ないので関ヶ原に下がって防御陣地を構築せよ。決戦は決してせず防戦に務めよ。もう少しで自分も向かう。』と使いを送った。
使者の到着に狂喜乱舞した秀次は早速大垣城からほとんどの部隊を率いて出陣すると、取り巻いていた東国勢にはあまり邪魔もされず伊勢街道を突き進み、東国勢に先んじて関ヶ原に入ることに成功した。そして関ヶ原で柵などを作らせると東国勢を待ち受ける態勢を作ったのである。
「政宗殿のいう通り西国勢は関ヶ原に布陣しましたな。」
と家康が感心したようにいう。
「以前関ヶ原で戦ったことがお有りで?」
「いやその時は。」
『福島城を攻めていました。』と言いそうになって政宗は胸にしまう。
「決戦は関ヶ原ですな!」
と家康麾下の本多忠勝が元気に言ってくる。
「先陣は某に。」
と井伊直政が申し出てきたのを、政宗は
「井伊殿が先陣は良い兆しとなりましょう!」
と後押しをしたので井伊直政が先陣となった。桃配山には徳川家康が入り、笹尾山の正面に上杉、真田勢が陣取った。伊達政宗は井伊直政に続いて松尾山麓から正面の秀次に相対する形である。北条・最上などの諸隊は南宮山の吉川に備える形となった。
「西国は大将が秀次のようですが、数は多いですな。勝てますかな?」
と本多正信が聞いてきたが、
「それは貴殿にも手伝っていただいた『あれ』が上手く行けば。」
と政宗の家臣、鮭延秀綱がニヤリとして返す。
「そうそう『あれ』がありましたなぁ。」
と正信もニヤニヤし始めた。




