織田家三巨頭体制の崩壊
北条家の上野への転封も無事に行われ、奥州、関東、東海はひとまずある程度の落ち着きを得た。
そのゆとりを持って伊達や最上など奥州諸侯は治水に励み、生産力を飛躍的に向上させていくことになる。
その一方で伊達政宗はなぜか徳川家康に利根川の東遷や神田上水についての前世の知識を伝えなかった。
徳川家康はその必要性は感じ取ったが、西方の織田家との関係がまだ油断できず、城の拡張には取り掛かったものの江戸の本格的な開発に注力することはまだできなかったのである。
(流石に城を広げるために日比谷の埋め立てははじめたが)
その頃、織田信雄の元で柴田勝家、羽柴秀吉、そして丹羽長秀の三巨頭の共同統治体制で安定を見た、と思われていた織田家の体制にゆらぎが生じていた。
三巨頭の中でも年長であった柴田勝家が天正11年冬、北ノ庄城で倒れて亡くなってしまったのである。厳しい越前の冬に脳卒中を起こしたのであった。史実のような賤ヶ岳で敗れての死、とはならなかったが、享年数えで62歳は当時としては短命でもない年齢であり、激務をこなしてきた勝家の体はついに悲鳴を上げたのである。
柴田勝家は跡目をはっきりとは決めてはいなかったが、佐久間盛政・安政の弟の柴田勝政と、柴田勝豊が養子となっており、勝豊は上杉攻略の際に討ち死にしているため勝政が事実上唯一の後継者となっていた。そのためすんなり跡目、と考えられたのだが、
「俺が勝家様の後継になれない、とはどういうことですか!」
天正12年(1584年)正月、年が明けて羽柴秀吉が築いている巨城、大坂城に来た佐久間勝政は怒気を発していた。
「わざわざ大坂くんだりまでやってきて納得できませぬ!」
安土城が失火で焼けて後、織田政権の中心は本来は当主、織田信雄の巨城である清州城となるべきであったが、西の大半を支配している羽柴秀吉の権勢は三巨頭の中でも高く、秀吉が大坂城の建築をはじめてからはむしろ大阪こそが中心と目されるようになっていた。信雄もあえてケチを付けずに大坂城下に広大な邸宅を構えて『御成』などと言って来ている始末である。
「……ですから勝政殿はまだ年が若く、勝家様のこなしてきた重責を担えるほどではない、と。なので所領を分けて越前を勝政殿に、加賀を佐久間盛政殿、能登を前田利家殿、越中を佐々成政殿で我らが三巨頭で織田家の差配に関わっているが同様、対等に合議を開き……」
と説明するのは丹羽長秀であったが、
「対等とは納得いきませぬ!柴田勝家の跡目であるこの勝政が北陸の差配をするのではないのですか!」
と食い下がる。
「こんなことなら兄上(佐久間盛政)も連れてくるのであった。兄上なら押しも強かろうに。」
とボヤいていたが
「となると勝政殿は信雄様の差配に不満なのですな。」
と羽柴家臣の尾藤知宣が意地悪そうな顔でニヤニヤと言い出す。
「何を言うかこの猿の腰巾着め!」
と勝政は激昂して尾藤に斬りかかり、袈裟懸けに斬り捨ててしまった。すると
「柴田勝政乱心!」
と近くに控えていた堀秀政が触れまわり、柴田勝政は討手に取り囲まれてあえなく討ち取られてしまったのである。
柴田勝政乱心、の報は素早く北陸にも伝わった。
「兄上、いかがいたす。」
加賀尾山城(現在の金沢)で佐久間安政は兄、佐久間盛政に尋ねた。
「うーむ。到底納得は行かぬ。佐々殿は我らに同情的だが前田はこの隙に攻めてくる気が満々だ。羽柴や丹羽などの数万の征討軍がすでにこちらに向かっているという……」
「ではここで一戦して武士の面目を果たしますか?」
「それも一興だが、むざむざ討たれるのもどうも納得がいかぬ。よし、決めた。逃げるぞ。」
「逃げるのですか。」
「うむ。生きていれば秀吉を見返す日もこよう。安政、お主は徳川家康殿を頼れ。」
「兄上は?」
「俺は上杉家に転がり込んでみようと思うのだ。」
「上杉ですか。受け入れてくれましょうか?」
「上杉は武辺の家と聞く。先年の戦でも堂々と渡り合った良き戦いであった。良き戦いを経たものは強敵となるのだ。」
「兄上のご武運を。」
「お前もな。」
と別れた佐久間盛政兄弟は征討軍が到達するより早く電光石火の勢いで逐電した。佐々成政が密かに見逃したこともあり、佐久間安政は徳川家康の所に辿り着いて家康に仕えた。
そして佐久間盛政は上杉成実の所に出向いたのである。佐久間盛政が先に推察したとおり、
「佐久間盛政殿ほどの勇将ならばこの上杉成実歓迎いたす。」
と成実は盛政を歓迎し、客将として仕えることになったのであった。
柴田・佐久間の一族が去った北陸は越前が丹羽長秀に与えられ、加賀は前田利家の物となった。前田利家は能登から加賀に本拠を移すと尾山城を拡大し金沢城と名付けたのであった。
三巨頭の一角が崩れるとその崩壊は早かった。羽柴秀吉は増長して信雄に対して高圧的な態度を取るようになった。信雄も流石に秀吉の好き勝手にはさせまい、と伊勢、尾張の城塞の整備など軍備を進め、目に見えて敵対的な行動を隠せなくなってきた。
丹羽長秀はその二人に挟まれ、必死に調整役を勤めていたが、そのストレスから胃癌に倒れ、あっけなく死んでしまったのである。
丹羽長秀亡き後、秀吉は長秀の旧領である若狭、越前、近江を接収し、信雄に相談することなく堀秀政や大谷吉継、石田三成など麾下の諸将に与えた。また大和の筒井順慶なども信雄に直に仕えるのではなく、自らの陪臣のように扱うようになった。
ここに至り織田信雄も秀吉と妥協していくことを断念し、雌雄を決する事を決意したのである。
織田信雄がその同盟者として選んだのはやはり、徳川家康であった。信雄の呼びかけに応え徳川家康は3万と号令する軍を集結させ、小牧山城を修復して布陣したのである。(史実よりも関東諸国を手に入れている分兵数が遥かに多い。)
それに対して羽柴秀吉は10万と号令する軍を集結させて徳川家と睨み合う事態となった。世にいう小牧長久手の戦の始まりであった。




