伊達藤次郎政宗、一気呵成に江戸を目指……
仙台に攻め込んできた織田信忠を討ち果たした伊達政宗は調子に乗っていた。
「うーむ。感無量である。我の仙台防衛作戦はやはり正しかったのだ。かくなる上は諸侯を率いて江戸に攻め込み、武蔵までを我が領土として……」
「なりませぬ。」
と前に立ちふさがったのは老臣、鬼庭左月斎であった。
「御屋形様。確かに織田を討ち果たすことはできましたが、仙台の城下は殿の作戦による名取川の決壊で水浸しでございます。今(夏)の時期を考えますと今年の収穫は絶望的かと。」
「う。」
「更に織田が進軍途中荒らしていきましたので杉目から仙台に至る途中も壊滅的です。我が領で無事だったのは某が守っていた仙台と登米、亘理の辺りだけでして、江戸に向かおうにもすっからかんになりますぞ!」
「うう。」
「ひとまず今年の収穫がない分を補いませんと。」
仙台平野の収穫が壊滅的になった補填を政宗は算段しなければならなくなった。幸い東北地方の生育は比較的良好であり、米沢領から補填する他に出羽の最上が誇る庄内と、これまた所領が荒らされずにすんだ南部、そして被害が少なかった会津の蘆名などから売ってもらえることになった。
「ただというわけには……」
とごねる政宗であったが、家老片倉景綱はピシャリと言った。
「なりませぬ。皆様兵まで出していただいたのですぞ。ここできちんと対価を払わないと我らが信用されなくなります。」
「ううう。」
「あと真田様に出向いていただいた報償はきっちり支払わせていただきます。」
「あぅあぅ。仙台城の金倉は空っぽだぁ!」
政宗の虚しい叫びが響きわたった。こうして最上などの奥州諸侯は援軍の礼と、伊達の収穫減の分の糧食の代金をたんまりと受け取り、ホクホク顔で帰っていった。
「こうなれば我らだけでも江戸に侵攻し、江戸を我らが第三の首府として……」
「御屋形様は徳川家康殿と決戦をされるつもりですか?」
「なにをいう?江戸は織田が北条から預かっているのだろう?」
「織田を追い払うのに熱中していて黒脛巾組の報告を上の空で聞いてましたな。江戸はとっくに徳川家康殿が落としておりますぞ。」
「え?」
政宗は焦った。確かに甲斐をとって武蔵へ、と家康を唆したのは自分なのだが。
「北条の支城網って頑健だから取れても八王子や川越ぐらいまででなかったの?」
と黒脛巾組の長、安倍安定に聞くと
「徳川様は電光石火で江戸まで落とされ、戻ってきた信長の軍勢も返す刀で打ち破りました。敗れ去った信長は江戸の本応寺に入りましたが、そこで明智光秀に討たれ、さらに明智も徳川様に討たれたと。」
早い。早すぎる。と伊達政宗は今になって徳川家康を侮っていた、と後悔した。そりゃ武蔵に侵入して荒らしてくれれば後で北条を攻める時に楽できそう、ぐらいで思っていたのだが、現状甲斐・武蔵はほぼすでに徳川の手に落ちていた。
「というわけで!」
と片倉景綱がまとめだす。
「御屋形様!それでも江戸を攻めますか?」
「……いや、『海道一の弓取り』相手に戦って勝つことができてもこちらは無傷とは行かないだろう……」
「そのとおりでございます!織田もあえなく遠征軍が消滅しましたしな!」
と鬼庭左月斎がさらに念押ししてくる。
「だいたいせっかく徳川様は今は味方なのですから、その関係を大事にしたほうがよろしいのでは?」
と鮭延秀綱も言ってくる。
「うぅぅ。一気に天下を取る野望が……」
となおもうじうじする政宗であったが、パンッ!と手のひらで両頬を叩くと言った。
「まぁ織田を無事に追い払えたことでよし、としよう。徳川殿が江戸にいるとなると関東にはうかつに手は出せぬ。ひとまず仙台城下の復興と開発を優先しよう。もはや仙台にやすやすと攻め入られることは……たぶん大丈夫であろうからな。」
そして配下を集めて仙台平野の開発の指示をはじめた。まずは仙台の南方に貞山運河を建設するように命じた。ついで白石宗直に命じて北上川と迫川の分流工事に着手させた。完成した暁には栗原郡・登米郡一帯の新田開発が促されるようになるのである。同時に葛西家の旧臣から藤沢城主・岩淵秀信の次男を召し出した。
「岩渕のせがれでございます……」
その少年は突然鎮守府大将軍、伊達政宗の御前に呼ばれてひどく緊張していた。そしてなんらかの難癖をつけて誅殺されるのではないか、とひどく震えてすらいた。
「おお、気を楽にせよ。なにも取ってくおうとはしておらん。」
と政宗は優しく声をかけた。
「これが京から来た菓子じゃ、食べてみよ。」
と京の菓子を渡す。しかし少年は毒殺でもされるのではないか、と緊張して手を付けようとしない。
「大丈夫と言っておるがな。」
と言って政宗は一つぱくりと食べた。それを見て少年はやっと追いついたようで菓子を食べ始めた。
菓子を食べて一息ついたのか、少年は落ち着いて話を聞くようになった。
「うーむ。時代の動きを早めたのもあるが、寿庵、お前まだ5歳だったか……」
と後に『後藤寿庵』と呼ばれる少年を前に声をかけた。今はまだ『寿庵』ではないので少年はキョトンとしていたが、
「すまぬ。今のは置いておいてくれ。我はお主に才能があると見込んでいる。よって西国で治水や鉄砲について学んできてほしいのだ。岩渕の名前では動きにくいと思うので……後藤信康、ここに。」
と後藤信康を呼んだ。
「信康よ、この少年が学びやすくなるようにお主の養子としてくれ。」
「は。」
そして少年に向き直ると
「そういう訳でお主は我が側近、後藤信康の養子となった。後藤寿庵と名乗るがよい。」
「ご、ごとうじゅあんですか。」
「うむ。バテレンの教えに興味は持ってよいが、デウスにのみ忠誠を誓わず、日の本の民のため働くように成ってくれよ。バテレンはデウスのためだけ、と言い出すが、それはイスパニアの王が搾り取るための方便なのだ。」
「なんと。」
「とはいえ、南蛮の技術は優れている点も多い。どうかそれを学び取ってきて欲しい。もどって期待通りの活躍をした暁には悪いようにはしない。」
「はっ!」
こうして後藤寿庵は西国に治水を学びに旅立ったのである。寿庵には密かに黒脛巾組の者が数人付けられ、キリスト教に過剰にのめりこむように引っ張り込むものが現れると密かに暗殺をして手をうったのであった。そうして寿庵はキリスト教に敬意を払って帰依はしたものの、過度にのめり込むようなことはなく10年ほどして仙台に帰参した。
仙台に帰参後、後藤寿庵は大規模な用水路を建設し、広大な水田が得られるようになった。彼の建設した用水路は『寿庵堰』と呼ばれ、その後現代までも重要な働きをするように成ったのである(寿庵堰の下りは史実)
せませんでした。(タイトル)




