伊達藤次郎政宗、仙台城に使者を迎える
伊達政宗は織田信長に使者を送った。その内容は北畠信雄を鎮守府大将軍の後継として仙台に受け入れ、自らは仙台から米沢に移ること。奥州諸将は北畠信雄が正式に鎮守府大将軍に着いた後、信雄に属すること、上杉景勝と和睦し、春日山城は流石にすぐは引き渡せないので糸魚川流域の根知城二万石をひとまず景勝に引き渡すこと、越後は上杉景勝と上杉実元が並び立つようにすること、などであった。
「御屋形様(上様や御所様と呼ばせると織田信長を刺激するので御屋形様呼びを続けさせていた。)、織田信長の返答は?」
片倉景綱が聞いてきた。
「うむ。将来はまたなにか言ってくると思うが現時点では我らの対応に満足しているようだ。」
「して信雄の仙台入りは?」
愚将と名高い北畠信雄相手のせいなのか、呼び捨てである。
「『準備もあるし短い間ではありますが、大将軍というものを味わってみたいので。』と言って再来年にしてもらったわ。」
「再来年ですか……となりますと……」
「そういうことだ。」
と政宗主従は意味ありげに目を合わせて笑った。
上杉景勝は越中から越後根知城に入ると、統治が不便なため清崎に城を築き始めた。少なくとも当座の侵攻は回避できそうな状態であった。そうなると今の所伊達政宗にとっての当座の相手は常陸の佐竹義重ぐらいとなっていた。蘆名の中興の英主である蘆名盛氏がこの年なくなり、後を継いだ元伊達輝宗である蘆名盛輝はすでにその権力基盤を安定させていた。会津を治める蘆名から見て北方は養子(弟)の伊達政宗が収めており、西方の上杉は叔父の実元、東方塩松の大内定綱と三春の田村清顕も実質伊達に吸収されていた。その南側を領する実弟、石川昭光はすでに蘆名の臣下と言える状態になっていた。
勢い蘆名に敵対的なのは南方の白河結城のみとなり、盛輝の侵攻に小峰義親は屈して後嗣に入っていた(佐竹)義広は常陸太田に脱出し、蘆名は今の福島県の会津・中通りの大半を制することとなった。国境を接することとなった那須家はそれまでの佐竹との同盟から蘆名よりの立場になって旗幟を鮮明にせず、家老(扱いだが実質独立勢力)の大関高増は盛んに蘆名盛輝や伊達政宗と書状をやりとりしていた。
下総の多賀谷重経も多賀谷二十万石と称して独立色を強くし、佐竹義重は一時の南奥の盟主と称された状態から急激に影響力を減退させていた。
その一方でこれまで伊達と同盟状態にあった小田原北条氏政もこれまでとは違った動きを見せていた。上杉家の後継に弟の元北条三郎、上杉景虎を押していたのだが、景虎は討ち取られて援軍に現れた伊達の一門、伊達実元が上杉を継いで越後国主に収まってしまったのである。交渉の結果上野で上杉家が支配していた領地は北条に引き渡されたものの、武田家臣真田昌幸の沼田領は手が出せず、上野支配を夢見る氏政にとって喉に刺さった魚の骨のような状態になった。下野も佐野、宇都宮などを従属に近い状態としたものの、その北方の那須一族は伊達に誼を通じている関係でこちらも手を出し難くなってしまったのである。
唯一常陸方面の佐竹は攻められるものの今度は鬼義重と呼ばれる佐竹家の精強な兵と岩槻でも度々苦しめられた知将、太田資正の智謀に遅々として攻略が進まない状態になったのである。
また小田原北条家は織田信長とも度々使者をやり取りしてその歓心を買うことに心がけていた。その結果伊豆、相模、武蔵、下総、上総、上野、下野、常陸の各国を領有することを認めさせた。織田という大きな後ろ盾を得た北条は北方へ目を向けるようになってきたのである。
そんなある日、仙台城に一人の使者が訪れた。
「御所様とお呼びすればよろしいでしょうか。常陸太田佐竹家嫡男、佐竹義宣でございます。」
「政宗で大丈夫ですのでどうかお気を楽に。ようこそいらっしゃいました。」
そうして姿勢を崩すと二人は会談を始めた。
「……では政宗様は佐竹が白河結城と下野を諦めればその代わりに岩城家の完全な吸収を認め、常陸一国と下総の領有も我らに認める、と。」
「岩城家はすでに親隆兄上が当主として活動できず、義重殿とその家臣の助けで常隆殿が差配しているとのこと。親隆兄上が心安らかに暮らせればそれでよろしいかと。」
「下総は現在北条の支配・影響下にありますが。」
「攻め取って言い、とは我は言いませぬ。ただ佐竹殿がそちらに向かわれても邪魔だてはしない、というだけで。書面はもちろん出せませぬ。」
と言ってニヤリと笑う。
「書面はなくともそこは信義ということで。」
「信義、ですか。」
「まぁそこはそういうことで。」
と言って二人は顔を合わせて大声で笑った。どうやら謀略・謀殺好きなこの二人、意気投合したようである。
これ以降、佐竹家は全力で南方攻略に注力し、江戸氏を滅ぼし本拠を水戸に移すと小田・土浦など常陸南方の拠点を制圧・確保した。下総の多賀谷・結城などは北条に属しながらも両属的な動きを示したため、佐竹の攻略はいったんそこで立ち止まった。
この事態に小田原の北条氏直は父、氏政に疑念を表した。
「佐竹の南下が早すぎます。いくら北方の蘆名が安定して手を出しづらくなったとはいえ、抑えもおかず全力で南下しているようです。」
「うーむ。」
北条氏政は顎をなでながら言った。
「佐竹の南下に対して伊達政宗殿に蘆名・相馬などを使って牽制のために兵を出してくれるようにお願いしたのだが……まるで動いてくれた形跡がないな。」
「ですから言ったでしょう。伊達は怪しい、と。」
「とはいえ、我らも織田とやりとりして伊達攻めの事態になっても我らは関わらない、と言質をとったからな。政宗の使う黒脛巾組、我らが風魔に匹敵するという。どこかでその情報が漏れたのやもしれぬ。」
「しかし今では我らには織田信長公がおります。武田攻めが行われれば直接その助力を仰ぐことも可能。」
「うむ。そして上野から越後の上杉を共に滅ぼし、越後の一部と将来的には陸奥にまで広がる領地を得る予定だ。」
明らかに気前の良すぎる条件で、後でひっくり返されるのは自明の理、と思われたが、北条氏政は一旦書状で確認できればそれを使って全てではないが多くを得ようとしていた。
こうして関東地方は南下する佐竹と北上する北条が相対する状況となり、双方が奥州の伊達に伝手を付けつつ睨み合った。こうして関東・東北は大きな動きもなく天正10年を迎えたのである。




