武田勝頼、馬防柵を見て長篠を思い出す
甲斐武田家当主武田勝頼の率いる軍勢は越後に入り、矢代川の辺りで伊達政宗の軍と対峙した。伊達側の布陣を見た勝頼は突如して叫び始めた。
「見よ、あれは、あれは!」
「御屋形様、どうなされた!」
慌てふためく勝頼の様子に、真田昌幸が声をかける。
「昌幸!お主あれを見てわからんのか!」
と勝頼が指差した伊達の陣立てを見ると、そこにズラッと並んでいたのは簡素ではあるが、木組みの馬防柵であった。その向こう側には長槍が見えており、脇に鉄砲隊が控えている。どこかで……と思った昌幸はふと思い出した。
「あれは長篠……」
「そうじゃ!あれは長篠の織田・徳川勢の布陣そのものじゃ!」
「我らを愚弄しておりますな。押しつぶしてしまいましょう。」
「何をいうか!長篠だぞ!長篠の二の舞は二度とごめんじゃ!上杉のために死ぬことなどない!昌幸、撤退じゃ!甲斐に帰るぞ!」
「景勝殿との約定は?」
「そんなもの知るか!見れば長篠の織田よりも並んでいる鉄砲の数も多そうではないか。そんな死地に付き合いきれぬわ!」
と言い、周囲の重臣が止めるのも聞かずさっさと陣を取りまとめて武田勢は甲斐に撤退してしまったのである。
真田昌幸はその殿を務め、本隊が退却したのを見届けた後手勢を率いて伊達政宗の所に向かった。交戦の意思がないことを鐙を外して示し、昌幸は政宗の所に通された。
「伊達陸奥守政宗殿でございますでしょうか。武田家臣真田昌幸でございます。」
「おお、あの『表裏比興』真田昌幸殿か。いつもその鬼謀のお噂はかねがね。」
表裏比興、が良い意味なのか悪い意味なのか測りかね鼻白んだ昌幸であったが
「政宗殿、お会いいただきありがとうございました。」
「なんのなんの、昌幸殿とは今後とも仲良くしていきたい所存。」
「『武田』ではなく私ですか?」
「そこを見抜かれるとはさすが。」
ふぅ、と息をついて真田昌幸は思った。伊達政宗にはすべてを見透かされているようだと。
「この真田昌幸も、伊達殿とは末永く良い関係でいたいものです。これからもよろしくお願いします。」
「もしお困りのことがあればこの伊達政宗を頼っていただけましたら。勝利の暁には越後には上杉実元・成実もいると思いますし。」
「それは力強いですな。」
「それは我らが勝利する、と昌幸殿に考えていただいているということで?」
「阿っている積りはなく、そこまでは申しません。しかし上杉実元殿にはお世話になることがこの先ある、とこの昌幸も感じておるのです。」
「ではよろしくお願いします。ここに昌幸殿が来たのは『勝頼らへの追撃を思いとどまるように説得に来た』ということでよろしいか?」
「さすが政宗殿、ご高配痛みいる。」
真田昌幸は一礼すると、居城、砥石城へ帰還していったのであった。
武田の援軍が一戦もせず帰国した事で、春日山城の中は暗惨たる空気に包まれていた。
「武田は伊達の陣立てを見ただけで逃げ帰ったそうです。」
「勝頼はなにしに来たのだ。」
「もはや春日山城の城下は景虎に与するものと伊達の軍勢で埋め尽くされております。」
こうなったらむざむざ殺されるよりは腹を切るか、と一同相談を始めた所に物見の者が知らしてきた。
「包囲している軍勢の中から上杉景虎が進み出て我らに降伏勧告を、と申し出てます。」
「何をふざけたことを……」
と静かに怒りを漏らし、却下しようとする上杉景勝を、樋口兼続が止めた。
「殿、ここは話を聞いてみましょう。どうせ減るものでもないし。」
これに斎藤朝信や直江信綱も同意し、景勝と兼続は城門の上の望楼に登った。
もちろん丸腰ではなく、兼続らは鉄砲を持っている。
「上杉景勝である。北条景虎、話とはなんだ。」
景勝は相手を北条、と呼び自らが正統な上杉謙信の誇り高い後継であることを誇示した。これには景虎方の諸将にも心を動かされるものがあったという。
「長尾景勝殿、この次期関東管領、上杉景虎が申し上げる。此度の反逆、自害を申し渡すところであるが、この景虎、同じ不識庵(謙信)様の恩寵をうけたものとして、景勝殿に対して慈悲の心で接し、改易の上で越後からの追放を申し渡すものである!」
命は取らぬこの度量、素晴らしいものであろう、と上杉景虎は胸を張った。景勝をしっかり長尾と呼ぶなど意趣返しをしているのが器の小ささがでているが。政宗は下がったところからそれを見つつ苦笑いをしていた。『景虎殿も甘いものよ……』そして景勝の脇で樋口兼続が動いているのに気づきながら、同じく気付いて動こうとする黒脛巾組を小さく手を動かし制した。
直江兼続はすっと景勝の脇に出てくると、上杉景虎に向かって鉄砲を向け、そして放った。
その動きがあまりにもスムースで速かったため、景勝方も景虎方も見逃してしまったほどである。銃声に気付いて景虎の方を見ると、胸を撃たれて倒れている。そこに上杉憲政は
「景虎殿!」
と思わず走り寄った。そこを二丁目の火縄銃を近習から受け取った樋口兼続が二発目の銃弾を放ち、上杉憲政は腹の辺りを撃たれて倒れた。
「いかん!景虎殿が撃たれたぞ!者共、お救いしろ!」
今気づいた、という顔をして伊達政宗は声を上げた。伊達から晴嵐徒士隊が白甲冑を並べて現れ、景虎と憲政を包み込むように取り囲んで陣の内側に引き下がった。
「景虎殿は助けたな!良し!息がある!急いで後方に下がりお救いするぞ!」
と片倉景綱は叫んだ。そして伊達勢は景勝達の前から素早く撤退してしまったのである。




