蘆名盛隆、黒川城に死す
摺上原の敗戦で兵を失った蘆名盛隆は、それでも黒川城に無事にたどり着き、入城するとすぐに城内のものを集めた。
「蘆名盛輝、盛氏の人質になりそうなものはいないか!」
「盛隆様、それはおりません。」
「なぜじゃ!」
「盛氏様が出陣の際に皆同道させてしまったのです。」
ぐぬぬ、と悔しがる蘆名盛隆であった。そして飛び込んできた情報はさらに絶望的であった。
「伊達政宗に加えて大殿が赦した蘆名家臣、そして殿が兵を引き連れ、その総数は3万を遥かに超えたとか。」
使番に盛隆は詰め寄る。
「殿、殿とは誰のことだ!」
「あ、盛輝様を……」
「盛輝『様』だぁ?」
と使番を一刀に斬り捨ててしまったのである。
「敵は3万、こちらはもう2千も残っていないか……」
「盛氏様はこれからでも許してくださるだろうか……」
諸将の言い草に盛隆はそれ以上は切り捨てる気にもならず、ふと立ち上がって去ってしまったのである。
自室に閉じこもると蘆名盛隆は寵愛している小姓の大庭三左衛門を呼びつけた。苛立ちを欲望にし、三左衛門にぶつけると、布団に仰向けに寝転がった。
「なんでこうなった。もうおしまいだ。しかし俺はここでは終わらんぞ。そうだ。上杉に逃げよう。上杉謙信殿は『義』の人と聞く。きっと俺とともに会津を奪い返してくださるだろう。」
「私も会津にお供します。」
大庭三左衛門は盛隆にすがりついた。盛隆はそれを振り払うと
「何を言っておるのじゃ。お前のようなやつは足手まといじゃ。どけ。俺はさっさと脱出する。」
と押しのけて出ていこうとした。押しのけられて崩れ落ちた三左衛門は唇を噛んでいたかと思うと、やにわに立ち上がって後ろから蘆名盛隆の胸を深々と刺した。
「貴方にとっては私は玩具のようなものでしたか!しかし私にはそんな軽いものではありませんでした!もはやこれまで!共に死にましょう!」
肺に穴が空いてヒューヒュー言いながら、盛隆は何かを言おうとしたが、すぐに血液が胸の中にあふれて声も出せなくなった。それを三左衛門は
「これが私の愛情の分!これが私の将来の愛情の分!これが私の未来の愛情の分!」
と盛隆を滅多刺しにしたかと思うと、血まみれの刀を持って大広間の方へフラフラと歩いていった。
「三左衛門、殿は……うゎ!何だお前その血まみれの姿は!」
城兵が集まって盛隆を見たが、すでに事切れていた。三左衛門は「ははは」とちからなく幽鬼のようにフラフラと歩き、そこら中の篝火を引き倒していた。火が燃え広がり、三左衛門を捕まえるのにも難儀したが、兵に取り囲まれてついには斬られた。しかし火は消えなかった。
「三左衛門は殿の部屋から近くないところから出てきたよな?」
「あそこは……硝煙蔵だ!」
と慌てて気づくも時遅く、硝煙蔵は大爆発を起こした。城兵はもはや消火するよりも逃げ出すことに集中し、黒川城は見る間に炎に包まれたのである。
伊達・蘆名盛輝・盛氏連合軍は日橋川の渡河で無理せず、船橋を構築してゆとりを持って全軍で黒川城へ向かった。黒川城にたどり着くと、城の手前で盛隆に付き従っていた将兵が土下座して待ち受けていた。黒川城はすでに焼け落ちている。
「これは一体どうしたことだ?」
蘆名盛輝が聞いた。
「盛隆の痴情のもつれで……盛隆は死にました。」
こうして『正統蘆名軍』は雲霧消散した。
二階堂、二本松は蘆名に接収され、ひとまず蘆名盛氏の隠居領とされた。
「父上」
伊達政宗は蘆名盛輝に呼びかけた。
「こうなっては黒川城を大幅に改築し、新城を作りましょう。仙台のように天守をあげて、名を若松城と改めるのはいかがでしょうか?」
「若松城か、うむ、心機一転するのに良い名だな。」
こうして黒川城は廃され、五層の大天守を持つ会津若松城が築かれたのである。土塁で構成された黒川城と異なり、西国風の総石垣の城となり、その新しい姿は領民に蘆名家の新しい姿を感じさせたのであった。流石に築城主が名手、蒲生氏郷ではなかったので天守は見送りとなったのであったが……。
正統蘆名軍の消滅により、南陸奥諸侯は雪崩を打って伊達・最上・蘆名・南部のラインに乗ろうとした。大内定綱がいち早く参加したことにより、もはや静観すれば討伐される、と考えられたのだ。二本松・二階堂の消滅で蘆名本家の力が増大したこともあり、諸氏の立場はこれまでよりも弱められたのである。その結果、大内とそして相馬の仲介をうけた田村が伊達の傘下に、石川は蘆名の傘下となった。小峰(白河結城)はそれこそ蘆名家のように伊達=蘆名派と佐竹派が分裂して内乱状態になり、岩城はすでに佐竹の統治が進んでいたため、むしろ佐竹領の一部のような状態となった。
佐竹義重は陸奥への影響力の大半を失ったが、人取橋から取って返した刀で水戸の江戸氏を滅ぼし、そのまま進軍して府中大掾氏、そして大掾氏傘下の行方三十三郷をこれまでよりも強固な支配下に置いた。那須(実際に差配している大関高増兄弟は面従腹背しているが)宇都宮も依然として同盟関係であり、その影響力を及ぼしている範囲は常陸のみで50万石、周辺諸氏を合わせると70万石強と依然として強大な勢力を持っていた。そして直接伊達の影響圏と北条の支配権に挟まれる形となったのである。
翌天正5年、伊達政宗は仙台に戻り、片倉景綱と一息ついていた。
「奥州も一息つきましたな。」
と片倉景綱は政宗に言った。
「うむ。伊達、蘆名、最上、南部、そして相馬も我らが盟に加わった。依然佐竹傘下の岩城や南部や最上と睨み合っている安東などもいるが、陸奥・出羽はほぼまとまったと言えよう。南も佐竹義重は南方の平定に忙しくこちらに手を出してきていないし、我らも北条氏政殿とも上手くやっていけると思う。」
「次はどうなさるおつもりで?」
「我としてはもう一働きだけして、置きたいのだ、それはう……」
と政宗が言いかけた時に黒脛巾組の大町宮内が入ってきた。
「殿、上杉謙信が倒れました。」




