伊達藤次郎政宗、大崎を攻める
大崎家に対して事実上の宣戦布告を行った伊達藤次郎政宗であったが、当初の動きは鈍く、なかなか大崎攻めを行おうとはしなかった。伊達家臣、泉田重光はしびれを切らして早期の出陣を訴えたが、政宗とその兄、留守政景は自重を促した。
「まだ雪が深く軍勢を動かそうにも身動きが取れぬ。春になってからの出陣でよかろう。」
留守政景の言葉に泉田重光は激しく反発した。『春まで優雅に待っていては一門の留守殿はともかく、わしはどうなるかわからんのだ。』
そこで泉田重光は浜田景隆を誘うと、早々に5000の兵を率いて出陣した。
「御屋形様、よろしいので?」
片倉景綱は正宗に聞いた。
「我慢はどうせできぬと読んでいたからな。こうなっては仕方ない。留守の兄上と合流して我らも出るぞ。鮭延秀綱!後藤信康!出陣だ。」
粟田宗国の移封以来、大崎に近い所領を任していた二人に声をかける。白石宗実や亘理元宗を南方の備えに残し、留守政景と合流した伊達政宗の率いる軍勢12000は黒川晴氏の治める黒川城に入った。
黒川月舟斎晴氏は智勇兼備の将として名高かった。娘を伊達晴宗の三男・留守政景に嫁がせ、また男子がいなかったため、義兄大崎義直の子・義康を養嗣子とし、義康の正室には晴宗の弟・亘理元宗の娘を迎え、伊達傘下で活躍していたが伊達・大崎の両属ともいうべき存在であった。
「これは御屋形様。」
晴氏は伊達の軍勢を出迎えた。
「しかしこれはえらく大軍勢で。さっそく大崎を攻められるのですか?」
「おお、月舟斎殿、大崎攻めは泉田たちに任せてここで後詰に努めようかとな。」
「……ここで、ですか?」
「なにか不都合でも?」
「……い、いえ。」
伊達の大軍が居座る事態となり、黒川晴氏は面食らった。そもそも両属である晴氏は大崎攻めに反対なのである。隙あらばむしろ大崎に寝返るつもりであった。
再度の勧告にも関わらず、泉田・浜田は大崎義隆が籠る中新発田城の攻撃に出陣した。伊達政宗・留守政景の率いる本隊はそれに参加せず、大崎家から内応した氏家吉継の岩出山城に向かった。黒川城から政宗の軍勢が出撃し、黒川晴氏は安堵した。
「これで心おきなく動けるというものよ。」
皆が反対したとおり、泉田重光による中新発田城攻撃は……深雪のためもあって、まったく成果を挙げられなかった。一度態勢の立て直しを、と退却を始めた泉田勢を中新発田の城兵が追撃に転じて散々に打ち破られた上で、泉田重光は前方に新手を認めた。
「あの旗印は黒川晴氏殿か!援軍痛み……?」
黒川勢はまるで最初から大崎方であったかのように平然と泉田勢を攻撃し始めた。
「これはいかん!挟み撃ちだ!」
と混乱する泉田勢であったが、さらに側面から現れた部隊があった。
「ははは。先に渡りをつけておいた。最上殿の軍勢が来たか……いやあれは?」
黒川晴氏は前もって連絡を取り合っていた最上義光が援軍に来たもの、と思っていた。しかしそこに現れたのは紺地金日の丸の旗、伊達政宗が率いる本軍であった。
「最上の叔父貴なら来んよ!庄内に本庄繁長の軍勢が来てな!」
と伊達政宗。そう、上杉家の本庄繁長が先年討ち取られた庄内尾浦城主、大宝寺義氏の弟、義興を旗印に侵入してきたのだ。
最上義光は事前に伊達政宗から情報を得ていたため、大崎家救援の準備をせず、庄内に素早く兵を展開していた。そのため、勇猛で鳴る本庄繁長であったが、最上義光の本隊が素早く現れたこともあって現地の国人の取り込みも上手く行かず、情勢は最上勢に有利に傾いていた。
『伊達政宗殿の情報で庄内を失わずにすんだな。しかし大宝寺といい、ちょっかいを出してくる由利十二頭といい、こちらの手数が足りず骨が折れる。』
最上義光は本庄繁長を撤退に追い込みながら考えていた。
『ここにもうひとり有能な武将がおればな……そういえば政宗殿が連れて行ったあの男、鮭延秀綱とか言ったか……よもや最上の翼を削ぐつもりで……本庄の攻め入る頃合いも政宗殿の大崎攻めにあまりにも合致している……まさか本庄を唆したのは!?』
と思ったが、義光は頭の中で打ち消した。
『とはいえやったとしても出羽三山の者か黒脛巾組で証拠はなにもないだろう。政宗殿のおかげで庄内は守られた……それに大崎義隆殿の命は取らぬ、と政宗殿の約定もある。』
政宗は密かに最上義光に大崎と合戦になったとしても大崎義隆を害することはない、と誓紙を出していたのである。
『ここは見守る他ないな。わしは庄内の防衛に努めよう。』
こうして大崎勢が当てにしていた最上家の軍勢は現れることはなかった。伊達政宗は黒川晴氏の部隊を撤退に追い込むと、のこのこと追撃に出てきていた大崎家の本隊に向かった。大崎義隆は大慌てで中新発田城に戻ろうとし、開門させて軍勢を入れたが、政宗の追撃はすでに追いついていた。
「この南条隆信!殿を努めます!殿はお逃げくだされ!」
南条隆信は名将であった。僅かな手勢で伊達の猛攻をしのぎ、大崎義隆を無事城内に入れることに成功したのである。そして乱戦模様の中脱出して行方知れずになった。
大崎義隆は入城に成功したものの、多数の兵を失いもはや息も絶え絶えであった。そこに伊達の使者として留守政景が現れた。
「大崎殿、留守でございます。」
「おお、政景殿か。」
「悪いことは言いませぬ。降伏を。」
「武家の誇りをかけて断る。」
「流石に先の5万石の条件は出せませぬが、政宗は米沢に移れば蔵米として2万石を出すと言っております。」
「……二万石、ならば現在の直轄領とそう代わりはないではないか。」
「それほどの条件でしたらお受けしましたら?」
と諸将は言ったが大崎義隆は断った。
「いや、本来の奥州探題を継ぐ家として、伊達の下風に立って捨扶持を喰むのは我が誇りにあわぬ。」
「ならば……」
と言って留守政景は次の条件を出した。
「最上義光様が義隆様を迎える用意があります。」
「なんと。」
「義光様の正妻殿は大崎家の出。義兄上を山形城で丁重にもてなすと。」
「……聞こえは良いが、義光殿と政宗殿の間ですでに話はついていた、ということか……」
と大崎義隆は力なく肩を落とした。
「よかろう。その条件、飲もう。」
こうして大崎義隆は伊達政宗に降伏し、最上義光の所で保護されることになったのであった。山形では屋敷を与えられ、義光に饗された。伊達からも援助が毎年送られ、伊達への復讐心よりは気楽な生活を楽しむようになったという。
大崎義隆の降伏後、黒川晴氏は葛西晴信の所に逃げ込んだ。政宗は黒川晴氏捜索の名目で葛西領に立ち入り、家中が浜田広綱、熊谷直義などの内乱で混乱しているところをつけこまれ、寺池の本領こそ安堵されたものの領内諸氏に対する支配権を失い、一豪族の立場に落とされたのであった。本領安堵に安心した葛西晴信であったが、その直後、城代として伊達政宗の重臣、白石宗実が入ってきた。
「これからは万事伊達の下知に従いますよう。」
自らの立場を思い知らされた葛西晴信は絶望し、寺池城を出て近くの月輪舘へ移り隠居した。こうして伊達政宗は大崎・葛西の旧領を自らの直轄地とすることに成功したのである。それは前の人生の後半、江戸幕府の時代になって政宗が治めていた所領をすべて手にしたということであった。現代でいう仙台平野は肥沃な大地であり、戦乱が落ち着いた後には北上川などから灌漑して潤せば天下に誇る大米作地帯となるはずであった。
米沢に戻る途中、政宗は懐かしい青葉山に登り、今でいう仙台平野を眺めながら呟いた。
「仙台よ、私は帰ってきた。」




