相馬義胤、ふたたび丸森へ出陣する
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天正元年(1574年)、伊達輝宗が蘆名盛氏の養子となり、蘆名家を継いで蘆名盛輝となったことは奥州の諸侯に衝撃をもたらした。陸奥会津の蘆名盛輝、米沢の伊達政宗、そして出羽山形の最上義光が実質的に三国同盟を結んだのである。その領国は合わせると百万石を優に超え、周辺の諸侯に対する影響力が巨大なものとなるのは自明の理であった。
伊達の領国の北方の大崎、葛西の両公は伊達に対するゆるい従属的な態度を取り続け、その実独立勢力としての立場を守ろう、という従来の方針に変わりはなかった。その一方、南方の諸侯はその動静が慌ただしくなってきたのである。伊達の南方では蘆名家同様に今年家督を引き継いだ田村清顕の率いる田村家が、塩松の大内定綱と二本松の、父が隠居して家督を継いでいた畠山義継の二家に対して支配的な立場をとってきたのだが、大内定綱は田村家からの独立を目論んだ。そして家督相続直後の田村家の動きが鈍い時期を狙い、蘆名と伊達にも使者を送り、実質的に独立したのである。畠山(二本松)義継は当初大内定綱を止めようとしたのだが、説得に失敗し、むしろ開き直り、これまた蘆名に誼を通じて独立した。
蘆名盛輝と伊達政宗は概ね大内と二本松の独立を受け入れ、それまで南陸奥で強大な力を誇っており、相馬と同盟を結んでいた田村家は一挙にその領国を相馬以下に縮めてしまったのであった。
そして二本松の更に南方はよりきな臭い動きが出ていた。蘆名盛興の後継者候補に擬せられた二階堂盛隆は人質から開放されて父の治める二階堂に帰還した。しかし蘆名の家督を伊達輝宗(蘆名盛輝)に攫われた形となった盛隆は不満を抱き、伊達の影響力増大を嫌う元々の蘆名家家老、金上盛備と密議を凝らし、巻き返しを狙っていたのである。
二階堂と蘆名との間に挟まる形となった石川昭光と岩城親隆は、金上盛備の取り計らいで妻を蘆名盛輝に取り上げられた形となった小峰義親と共に急激に佐竹義重に接近した。岩城親隆は周囲が敵国となっていった様子に心が折れて一説によると発狂し、実質的に差配を振るうことになった嫡男の常隆はすでに佐竹義重の傀儡となっていた。
この時点で佐竹義重は岩城、小峰(白河結城)を実質的に属国に組み込み、石川をほぼ従属状態とし、臥薪嘗胆を期する二階堂盛隆と実質的な同盟を結んだ状態になり、南奥に深く食い込みつつあった。佐竹義重は常陸南方でも水戸の江戸氏、府中の大掾氏など諸氏を従属させ、北条氏に与して抵抗を続けた小田氏治も本城の小田城に引き続いて抵抗の本拠となっていた土浦城も落城させ、常陸の大部分を制していた。下野においても那須氏と同盟状態にあったが、その一方で那須の筆頭家臣で本家よりも実質的に所領も権勢も大きな大関高増兄弟は佐竹家に対して距離を置いていた。
「北条氏政殿とのやり取りは上手くいったか。」
米沢城で伊達藤次郎政宗は重臣、片倉小十郎景綱と密議を行っていた。
「はい。大関殿が伝手を付けてくれまして、北条と伊達の同盟、受け入れるとのこと。」
「うむ。これで佐竹義重が陸奥攻略に専念できることはなくなるだろうからな。助かる。」
「今回も多くの砂金を届けましたからなぁ。」
「まあそれは必要なものなのだからしかたあるまい。」
「はっ。」
北条氏政との同盟成立に胸をなでおろしていた二人であったが、そこに鬼庭左月斎が慌てた様子で入ってきた。
「じい(政宗は左月斎に敬意を込めてこう呼んだ)いかがした。」
「御屋形様!急報にございます。相馬盛胤、義胤父子、此度の動静に兵を挙げ、駒ケ嶺城から伊具郡に侵入しましてでございます!」
「なんと相馬が。景綱、陣触れを。割けるだけのありったけの軍を出すぞ。」
「はっ!御屋形様『あれ』は間に合いませんでしたな。」
「うむ。『あれ』は間に合わなかったな……」
伊達政宗は急いで軍を編成し、伊具郡に急行した。出陣したのは本陣伊達政宗、後藤信康、片倉景綱、そして小梁川盛宗、白石宗直など主力の重臣に加えて、名取の領主、粟野宗国も加わりその総数は12000程となっていた。兄で大きな所領を持つ亘理元宗と留守政景は亘理郡から相馬家を『抑える』使命を与えられ丸森には出陣しなかった。
相馬義胤は政宗の出陣を聞くと、金山城を攻略中ではあったものの、増築され石垣を用いた城の攻略に難儀していたこともあって僅かな押さえを置くと、ほぼ全軍を率いて丸森に向かい進軍した。いわゆる『後詰め決戦』の形となったのである。
「ふむ、今回は伊達の小僧も出し惜しみをせずに兵を出してきたか。少しは奢りも減ったと見える。」
とお互い対陣した上で、伊達の陣形を見て取った相馬義胤は側近、木幡継清に話しかけた。
「しかし兄上!伊達の弱兵など踏み潰してしまえばよいでしょう!」
と血気に逸るは義胤の弟の隆胤である。
「いえ、隆胤様、伊達は出羽でも大宝寺を滅ぼすなど戦果を上げており、侮るのはいかがなものかと。」
と諫言したのは水谷胤重である。
「少なくとも鉄砲はやたらにあるのは間違いないからな。今回は見て取る限りこの場に投入していて以前のようにどこかに持ち出したり伏兵で使ってなさそうだしな!諸将、ゆめ油断なされるな。勝利を我が手に。」
「『勝利を我が手に』」
惣領相馬義胤の言葉に諸将が反復し、陣太鼓が打ち鳴らされ、伊達と相馬の決戦が始まったのであった。




