エピローグ その後の伊達幕府
こうして仙台伊達幕府は成立した。伊達政宗はその安定と反映を見届け、1636年6月27日に仙台城の奥屋敷で死去した。その顔は満足げな笑顔であったと言う。
政宗の死後、全国に政宗を祀る瑞鳳殿が勧請され、諸大名はその豪華さを競った。瑞鳳殿程ではないが、豊臣秀吉を祀った豊国大明神や徳川家康を祀った東照宮も人気であり、その三社を揃って持つことが諸大名のステータスとなったのであった。
政宗の統治の後期、諸子の他に親族筆頭として約100万石を誇っていたのは兄蘆名輝盛(伊達輝宗)の嫡男、正盛(史実では小次郎正道)の治める蘆名家であったが、内紛で減俸され、その領国は結局30万石前後となった。血統も正盛の系はすぐに絶えてしまい、政宗の孫の中から選ばれて後を継いだのであった。
東北のもう一つの雄、最上家の行く末もまた微妙なものとなった。最上義光はその生涯を全うしたが、死去したときには嫡男の義康が史実のように誅殺されずに残り、その弟家親と清水義氏も健在であった。陰謀好きの家親は中央で策動し、結局最上家は義康の代に3つに分割されてしまったのである。しかも家親と義氏の2つの家は早々に跡継ぎが早死して絶えてしまい、最上家は結局出羽山形10万石程度で存続したのであった。その一方で南部氏や佐竹氏(寄騎が切り離されて50万石弱となったが)などは家を存続できたし、秋田家や由利十二頭は不穏な動きがあったとのことで転封となり、出羽には政宗の妻、愛姫の実家である田村氏が20万石の準国持大名として続くことになった。
最上が減封された際、まだ存命であった鮭延秀綱に11万石が与えられた。秀綱は仙台の屋敷に主に在住し、政宗のよき相談役として過ごしたが、故郷の鮭延の城も修築し錦を飾ったのであった。もっとも山城は行政に不便で後の代では麓に新城も建築されたのであったが。
越後上杉を継いだ上杉成実(伊達成実)は長く家を保ち、後に幕府が倒れた際に上杉家と越後の領民の一体感は恐るべき戦力となったのであった。
片倉景綱は木下氏や浅野氏が安芸などに移されたのに伴い、播磨一国を拝領し、京都所司代として息子景長と共に上方の統率に活躍した。片倉家はその後も畿内で幕府を支える重要な立場を果たし続けたのであった。その際、片倉氏を良く補佐したのは関ヶ原での功績が認められ、近江佐和山30万石に加増された石田三成の一族であった。佐和山が手狭になったとして三成は彦根城を築いて移ったが、その際佐和山城の天守が移築されたという。
徳川家康の死後、旧徳川家臣団はますます全国に散らばって転封され、各々が独立した大名となっていった。しかし『丞相』徳川秀忠は天下にその存在を示し、全国の大名の中でも伊達家に継ぐ存在としての徳川家を確立したのである。
そしてその息子の家光も老中筆頭から大老に就任し、幕府の運営に重きをなした。家光の息子たちも代々老中として幕閣の中心にあったが、その血統が惜しくも絶えた時、幕府における徳川氏の地位は確立していた。そのため直接政宗の血を引くものでなくとも徳川氏から老中が選ばれる事になり、そうして選ばれたのが徳川吉宗であった。
吉宗は積極的に市中を視察し民衆の意見を熱心に聞いて回った。時には狼藉に及ぶ不逞の輩を自ら討つこともあり、『暴れん坊老中』として市中の人気を強く博した。
この頃になると伊達家の将軍たちが若干ひ弱な印象な事もあって、江戸市民の人気は徳川吉宗に集中したのである。その結果、ついに徳川吉宗は『執権』の座に就いたのであった。『暴れん坊執権』徳川吉宗が幕閣改革を行う一方、時の将軍は…伊達綱宗であった。放蕩三昧で吉原の高尾太夫の身請け伝説など放蕩三昧であったこの将軍は、史実では流石に押し込めにあって引退したのだが、将軍であるばっかりにのうのうとのさばっていて、なぜかまだ生きていた。綱宗との比較もあって吉宗の声望はますます高まり、さすがの綱宗も慌てて嫡子綱村に将軍を譲ったのである。
しかしすでに時遅く、綱村は将軍自ら改革に勤しもうとしたが、それは吉宗の一歩後ろを行くような状態であった。結果、『伊達八氏の乱』と呼ばれる伊達家一族の諸大名が集結して吉宗に天下の政務を委ねるように請願する、という事態に至った。ここにいたり綱村は隠居して将軍位を養子の吉村に譲るとともに、これまで続いていた伊達嫡男による江戸支配が終わり、徳川吉宗が自ら江戸を城代として支配するようになったのである。吉宗は『副将軍』と称せられ、若き日から続いていた市中の見回りを全国累々まで広げるようになった。その際、印籠をもたせた二人の従者を付け、『越後のちりめん問屋』を名乗ったこともあったと言うが、
その越後に行った際に『越後の民なら不識庵様の家臣と軍役数を上から10人言ってみろ。』と迫られ危うく捕縛されそうになってからは取りやめたと言う。
ともあれ、徳川吉宗以来仙台伊達家はその首都仙台を中心とした地域のみが直轄となり、関東などの遠国の直接支配を失い、将軍の求心力は低下したのであった。そしてそれから緩やかに幕府の命運は尽きていくことになったのである。
その一方で政宗が支倉常長に命じていたことがあった。それはオランダやイギリスに常に最新の兵器を売却させるように強要していたことであった。もちろん最新のものについては彼らも隠そうとしていたが、窓口を単独に絞らず、奥州の奥深くに続いていたカソリックの勢力も使うことで、可能な限りはイギリスとオランダのどちらかからは入手していた。(定期的に視察団を奥州に送るようにもしていた。)
そのため産業革命や蒸気機関の情報も伝わり、新しい物好きの精神が引き継がれた将軍家は仙台周辺を積極的に工業化し、最終的には蒸気鉄船の国産化にも成功したのである。
そのため、ペリーが艦隊を率いて浦賀に現われた際、江戸の副将軍が仙台に泣きついた結果、『交渉で待たされている』と信じていたペリー艦隊の出口を塞ぐ形で幕府の将軍親衛艦隊が出現する形となった。
それにより交渉は米国側が脅す…というわけには行かず、結局本国に泣きついて不平等条約の締結を諦める形となったのであった。
米国の恫喝に応じなかった点で伊達幕府の声望はまさに劇的な形で復活した。しかし幕藩体制という形の限界を感じていた親族筆頭の伊予松山藩主伊達宗城は将軍、伊達慶邦に大政奉還の意見書を提出し、ついに伊達幕府はその命を閉じたのであった。
これにて私の伊達政宗公の物語は一件落着です。お付き合いいただきありがとうございました。
またちょうど100話となりました。どっとはらい。