序章
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寛永13年(1636年)5月24日卯の刻(午前6時)、奥州の梟雄、伊達政宗は江戸の伊達藩上屋敷で死去した。享年(数え)70の生涯であった。遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めたうえで駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列により6月3日に仙台へ戻った。将軍徳川家光は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発した。これは御三家以外で異例のことであった。
辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」。
仙台城で葬儀は恙無く進み、本人の遺言通り郊外の経ヶ峰に瑞鳳殿を営み、遺体は納められた。
諸々の事が落ち着いた後、家老片倉重長は政宗の後を継いだ二代藩主、伊達忠宗と語り合った。
「……政宗様は天下の副将軍、とさえ言われ、上様の信任も厚かったですな。」
「そうそう、家光公が将軍宣下を受けた際に『余は生まれながらの将軍である』とおっしゃった後、『大名は今後余に臣下の礼を取るべきだ。異論がある者はすぐさま領国に返り、戦の準備を始めよ。』と続けられた時に、政宗様は『政宗をはじめ、誰も異論は持ちますまい。』と言っていち早く平伏した、と。」
「その後さらに『将軍家にて向かうものがあらばまずこの政宗が相手をいたす。』とも言ったとか。」
「しかしな。」
と忠宗は続けた。
「その一方でなぁ。」
「そうそう。」
と重長が相槌を打つ。
「『仙台御陣の御触に付御内試』ですな。」
「うむ。幕府軍との決戦に備えた作戦立案を随分熱心にしていたからなぁ。」
「名取川を決壊させて仙台平野を水浸しにし、水を避ける幕府軍を、仙台城の建つ青葉山、近隣の大念寺山、八木山におびき寄せて山岳戦を仕掛けて籠城。奥州米流通で蓄えた豊富な資金で牢人衆を雇い入れて戦力増強、黒脛巾組が後方を撹乱して疲弊した幕府軍を江戸へと追撃し、勝利し、江戸に君臨する、でしたでな。」
「黒脛巾組の撹乱、は父上の得意であったからうまくいったやもしれんが。」
「まぁ摺上原の再来よりはうまく行って関ヶ原の際のグダグダ。」
「それよりは相手が急に帰ってくれない人取橋になってそのまま当方滅亡の方が妥当だな。くわばらくわばら。」
「それがしも同感でござる。ところで。」
と片倉重長が続ける。
「政宗様は時折『10年早く生まれていれば。』とおっしゃっておりましたが。」
「うーむ。どうであろうな?『20年早くより中央に近いところに。』ともおっしゃっていたが。」
「それだと佐竹義重殿ですな。」
「おう。鬼義重殿と父上では……あまり結果に違いがなさそうだな。南陸奥は取れそうだが天下は取れまい。」
「『いっそのこと30年!』と寝言をおっしゃっていたことも。」
「30年で畿内に近い所か……おお、尾張中村に生まれれば。」
「豊臣秀吉公ですか。」
「まるっきりそのままだな。」
と二人は顔を見合わせて呵呵呵と大きく笑った。
「まぁご希望どおり十年早く生まれたらどうなっていたか、息子としても見てみたかった気はするがな。」
と忠宗は続けた。
「殿は二代将軍か、はたまた。」
「そのへんでのたれ死んでいるかもしれんぞ。」
「ではそうならなかったことに感謝して。」
「うむ、仙台六十二万石を共に守っていこうぞ。」