カメよ恋せよ屈せよ乙女
もしもしカメよ カメさんよ
世界の内で お前ほど 歩みののろい者はない――――
「カメ」
「………」
「カメ、どきなさい。図体でかいんだからあんた。邪魔!」
「……御主人様」
「何」
「……カメ呼ばわりはちょっと……」
「カメはカメじゃないの」
「………」
思い起こせば私が四歳の時だ。
おじいちゃんが、
『道に転がってたからよ!』
とか言って立派な亀を連れ帰ってきたのは。
十三年が経った今、私もだいぶ成長したが、大人と変わらない体格になってもカメを抱えるのは無理だ。拾ってきた当時から、カメは体長が子供の身長くらいにあったから。
四歳の私が十七歳に至るまでカメは、のんびりだんまりのそのそと家中を徘徊し、縁側でひなたぼっこをしてはたまに近所に散歩に行ったりと、ごくごく普通の(?)爬虫類のペットらしく生活を送っていたのである。
そのカメに、数ヶ月前に革命が起こった。
学校から帰ってきてみると、居間に見知らぬ青年がどっかりと座っていた。あんまり自然な様子でいるので、さては私が家を間違えただろうかと馬鹿なことを考えてしまった。
しかし部屋の内装は私の、というかこの部屋に至るまでの階段の数も玄関口のプランターの配置も家の外観も、私の家のものに違いない。不審人物はこの、まるで慣れ親しんだ生家に居るような様子でいる青年だ。
「……あんた誰?」
至極当然な質問を投げかけると、青年は表情も変えずにこちらを向いて、淡々と言った。
「カメです」
夢見てるのか私。
しかしいつまで経っても目が覚める気配がないので、母の前に青年を引きずり出してみると、
「あら、カメちゃんよ。その人」
「……マジで? これ人じゃん。カメじゃないじゃん」
「カメちゃんよお。ほら、どことなく面影が」
「ないよ」
なるほど見ればそこそこの容姿だったが、元のカメの容姿など欠片もない。母はマイウェイの模範のような人なので、全く頓着していない様子で頭が痛い。
当然そう簡単に信じられるものでもなく、むぅーと眉を顰めて青年改めカメ(仮)を見つめていると。
――視線を受けて何か思ったらしいカメ(仮)は、背を向けておもむろに服を脱ぎだした。
「………ふご!?」
そして程なく現れた背中に、私は奇怪な叫びを漏らして硬直した。側で母が、あらあらまあまあ、と平和な感嘆の息を漏らしている。うあぁちょっと待って私家族以外に成人男子の生背中とか見たことないんだけどっ……と狼狽する間もなかった。
浅黒い肌、広い背中には、見慣れた規則的な模様があった。
「……甲羅の模様だ……」
思わず口に出すと、カメ(らしい)は満足したらしく服装を正してこちらに向き直った。でも今のイレズミみたいだった。
「……御主人様は、」
視線がまっすぐこっちに来ているということは私のことか。
「幼少の頃はピンクの水玉柄の下着をお気に入りにしていて」
「ぎゃああぁちょっシャラップ!! 何だよあんた何で知ってんの!!」
「以前の私の視界は著しく低かったもので。そして御主人様のベッドの下には」
「分かったストップよく分かった!」
「あらぁ、あなたベッドの下に何隠してるの?」
「聞かないで忘れて母さん!!」
……と。
人様の下着の色からベッドの下の秘密まで知り得た不届きなこの青年のことを、私はカメだと認識するしかないまま今日まで過ごしている。初対面(人間Ver.)の時あんだけ堂々とした態度だったのは、生家じゃないにしろそれに近かったからか。盗人猛々しいとかじゃなかったのか。
「カ~メ~。あんたでかい~邪魔~、もっと俊敏に動け~」
「……そう言われても」
まあ、加えて口数は少ないし行動はのろいし、ふとした仕草一つとっても、何処かあの床をゆっくり這うカメに重なるような気がしてならない。きっとこの青年のなりをした輩は、十三年の付き合いに及ぶカメであることに間違いなかったりするのだろう。多分。あまりにもヒカガクテキだけど。ごめん理系じゃないからよくわかんない。
しかし……。
―――亀が人間になった。
何というかこう、注目を集められそうな気もしつつ、ヒンシュクとかその他色々ありがたくないものもまとめ買いしそうな話題である。気心の知れた友達に話したくてたまらない反面、真人間としての面子を保ちたいプライドが抗議の声を高くしているものだから、私の学校生活はしばらく落ち着かない。
(というか、いらぬ誤解を受けそう……。母さんは相変わらずペット扱いでも、見た目おもいきり居候だもんよ……)
そんな私の小さくない葛藤をよそに、私が家にいない間、何やらカメは母から『お話』を聞かされているらしかった。
何を聞かせているのかと問えば、「もしもしカメよ、カメさんよ」のあのメロディが返ってくる。そのまま、四番の「あんまりおそいうさぎさん、さっきの自慢はどうしたの~」まで歌いきられてから、
「『うさぎとかめ』のお話よぉ。いまなら確実に私達の言葉が分かるんだから、いいお話は聞かせてやりたいじゃなぁい」
だそうなのである。
「どうしてあんた人間になったの?」
当然の疑問のはずである。
『カメちゃん元から可愛かったけど、今はもっと素敵よー』と常時マイウェイに生きる母にも、『海千山千だな!』と妙に楽しそうなおじいちゃんにも、そんな疑問を抱いてもらうことは全く期待できなかったものの。というか、おじいちゃんの言葉はどういう意味なのだろうか。
ちょうど勉強にも飽きたところだったので、上半身だけ後ろを振り返っていた体勢を椅子ごと完全に反転した。床に直に座り込んでいるカメの頭は、私の視界より少し下の方にある。
「それでもって、何で私が『御主人様』なの?」
カメは私を『御主人様』と呼ぶ。ちょっと前の流行りのアレを思い出すんであんまりいい気分しないんだけど、言っても頑なに変えない。
ちなみにお母さんは『奥様』。お父さんは『旦那様』。おじいちゃんは、『大旦那様』である。
拾ってきた当時からの年齢を考えても、カメへの世話には私が一番無頓着だったはずだ。わけなくつっついたりいじったり一方的に話しかけたりしたのについては例外として。
一度に二つの質問を投げかけると、カメは端整な顔に難しげな表情を浮かべて考え込み始めた。こうなると長い。思慮深いというより、考えるにしても動くにしてものろいのだ。
「………」
不安定な姿勢で椅子の背に寄りかかるのに疲れた私は、床に降りて壁を背に座り込んだ。それに反応したのか、言葉がまとまったのか、カメは顔を上げた。
「……私は、」
私とか言ったよこのカメ。
「私は、これで結構……長生きをしています」
「……うん?」
「亀の姿の時のような大きさになるまでは、ずいぶん時間が掛かっているんです」
「ふんふん」
「けれど、それだけ長生きしたという証ですから……。長寿を祝っての、神様からの贈り物だと」
「へ?」
「……大旦那様は言いました。長生きはめでたいことだし、そこに強い願いがあるなら神様も聞いて下さると。それで、人間の姿に」
「……だから、海千山千?」
おじいちゃんが豪語していた。海に千年、山に千年住んだ蛇は龍になるのだそうだ。
……でもおじいちゃん、肝心の意味が違う。
「……で、願い事って? 何を願ってその姿になったの?」
「御主人様のためです」
何気なく、けれど率直に言われた言葉に私は軽く目を丸くした。そこでようやく、カメはまっすぐ私の目を見ていたことに気付く。
「私……?」
カメはすぐさま頷いた。その瞬間、落ち着かない気分になった。
「祖父君に拾って頂きながら、祖父君を『御主人様』とお呼びしないのはそのため。専らお世話をして下さる奥様も同様です。失礼は承知の上ですが、私が主人と呼びたいのはあなただけです」
視線は一ミリも揺らぎはしない。私は今更狼狽した。
「――長い間、あなたをお慕いしていました」
背筋に何かが走り抜けて、少しの間時間が止まったような気がした。ゆったりとした穏やかな低い声と、その言葉を噛み砕くように反芻すると……止まっていた間の思考が、凝縮されていたように吹き出した。
ぼけっとしてるってゆーか覇気がないってゆーかそんな感じの喋り方だから分からなかったけど。
何だ、この声。
(エロすぎる……!)
美声を通り越している。低くて、少し掠れ気味なそれは艶やかさを帯びて、私は無意識に竦んだ肩を抱きしめた。
「お、お慕いしておりました……って、カメが! 人間に!?」
あああ、どもっちゃって笑い飛ばすこともできない。しかも、ああ何なのやめて勘弁して、どうして接近してくるのちょっと。
相変わらず視線は外れない。釘付けにされてこちらも目を逸らせず、否応もなくよく見れば、そこらの男より顔が整っていることに気づいてしまう。異性といえば学校の同年代の男しか知らない私には、二十代半ばあたりに見えるカメの端正な顔には否が応にも胸が高鳴った。顔に血がのぼってくるのが分かる。
身を縮めて小さくなっても、カメは近づいて近づいて、大きな手をあたしの顔のすぐ右側の壁について、反対の手をあたしの腰の側で床につけた。今、限界まで体を小さくしている私に半ば覆い被さるようにして、カメは両腕の間に私を閉じこめている。
「あんた、人間になりたいって願ったのは……」
声が掠れて、すぐ上にある綺麗な顔を見上げることが出来ない。
「このためなの?」
「そうです」
ぞわ、とまた背中に。しかもその吐息を含んで尚のこと犯罪度の高くなった声は身体に直接響いてくる。共鳴するみたいに心臓が跳ね上がった。
こんな、カメ相手にこんな、てゆーかこんな至近距離に異性の顔を近づけたことなんて決してないのに……!
絶叫してお母さんに助けを求めたい。でもこんな場面見られたくない。というかあのマイウェイ母にかかっては「カメちゃん相手に何怯えてるのぉ」オア「昔は乗ったり転がしたり仲良く遊んでたじゃない」程度で終わらせられてしまうに違いない。
ああ、突き飛ばしてでも逃げたい。でも、掠れるほど低めた、意外に優しい声に力が抜けて、動けない。
「あんたカメなんでしょーが! 有り得ないってば、いくら人間の姿とっても真人間相手に告ったところでうまくいくとでも思ってんのー!」
狼狽、動揺、羞恥と頭の中胸の中を揺さぶるすべてに翻弄されて、私はほとんどヤケクソ気味に叫んでいた。そんな私の目の前で、カメは少し顔をしかめた。
「……奥様のお話では、亀は地道な努力あったからこそ兎を出し抜いたと聞きます。相手を侮らず、近道を選ばず、時間をかけて努力したから勝ち得たと。……それなら」
カメは既に個人的トラウマベスト3に入りそうな声で、ずっとお慕いしていました、と再び言った。ダメ、もう、限界まで縮こまってるから、身体が痛くてつかれてきた。力抜けそう。
「長い間、お待ちしておりました。御主人様は相応に歳を取られ、私はこの姿を得ました。ようやくあなたに追いついたのです。物語で、“カメ”は地道な努力で勝ちました。……ならば、私も得られるはず」
私はといえば既に脱力してしまって、肘まで床についている。……ほとんど、覆い被さられている体勢だ。そしてこれ以上近づけようもないのに、更に距離を縮めてくる。
ダメだもう心臓爆発するから。助けて神様。っていうかカメをこの姿にしたのって神様? あああ恨むから神様。
カメはまた同じ言葉を繰り返した。三度目だ。
ああもうこの声、ホントにトラウマになりそう。
この青年とは、私が四歳の頃から十三年の付き合いになります。だからこいつは私のことをよーく知っているようです。ベッドの下にある乙女の秘密さえ既に暴いているけしからんやつです。
――だがしかし十三年の付き合いを侮るなかれ。そんだけ一緒に長く過ごしてりゃ、私だってこいつのことをよく知っているはずなのである。
……そのつもりだったんだけど。
そもそもこいつは、数ヶ月前まで喋ったりするやつじゃなかった。二足歩行でもなかった。こんなにひょろっと細長い身体してなかった。もっと平べったくて丸っこかった。
何より、ほんの数ヶ月前までこいつは人間じゃなくて亀だった。
亀だった。見まごうことなく亀だった。当然だんまり決め込んだ、四足歩行でのそのそ動く、愛嬌ある顔立ちした、幼き日の私がのっかれるくらい大きかった亀だった。絶対、間違いなく、真実、そうだったのだ。
「――突拍子もない話だってのはわかってんの、非現実的だもん非科学的だもん。でも当人が一番平然としてんのは何なのホントに」
「……独り言ですか」
「当てつけ! イヤミ! もおお返事しないでよバカ!!」
「…………」
トンデモといわばいえ。飼い主の私にだって青天の霹靂なんである。でも実際数ヶ月前カメが消えた代わりにこの青年が私の前に突如現れて…………何と迫られてしまったんである。びっくりだよ。大概だよ。
あぁ思い出しただけで顔に血がのぼる。
前回はあわやという距離でとんでもない体勢に持ち込まれたけど、後のおじいちゃん曰く『エイリアンが着陸した』ような声を上げてどうにか阻止した。実の孫娘を宇宙生物扱いて。
そして感情の高ぶるあまりぽろぽろと流れていた涙も、このカメらしき青年の勢いを削ぐことができたらしい。
壁に押しつけた二本の腕の間に私を閉じ込めていた(ぎゃーぎゃーぎゃー!!)カメは、その瞬間電気でも流されたみたいにびくりと静止した。まさかその隙を見逃すはずもなく逃げ出した私は、その直後きつくこう言い渡したんである。
『今度あーいう真似したら承知しないからね部屋であんなのあり得ないから! も、マジで考えられないっつうかバーカバーカバーカバーカ!!!』
まさに一つ覚えだけど、大人げないというなかれ。十七の清らかなる乙女にあんだけ無遠慮に迫るなんてことは、何もなしで済ませられるほど軽い罪状じゃないのである。
しかしその後、叱責されても分かっているのか分かっていないのかよく判断のつかない顔をしていたカメが、突如元の四足歩行の爬虫類の姿に戻った時はさすがに驚いた。
ウソこんなに早く戻っちゃうの、と狼狽していると、三時間後にはあっさりまた青年の姿を取った。亀の姿をしていたのは一応反省の態度を見せていたつもりらしい。……たった三時間の反省かよ押入に閉じこめればよかったよ。
『……人間になるのも亀に戻るのも、自分で好きにできるの?』
『ある程度は』
じゃあ一生亀のまんまでいろー! と勢い余って言いつけると、その夜にはまた言われたとおり四足歩行のカメがいた。味はあるけど喜怒哀楽は分かりにくいはずのその顔に、何となくめちゃめちゃふてくされたような感じを受けたりしたけども。
それはゆうべのことで、現在はその次の日の昼下がり。まあ私の言い方もかなり大人げなかったし……と反省し、ふてくされた(?)顔して私の部屋をのそのそ歩いていたカメに「私も悪かったからあんた好きなカッコしてなよ」と呼びかけると、一瞬後にはあっさりまた青年の姿を取った。そんなに気に入ってるのかなあ。気に入ってるんだろうなあ。
で。初めの会話となる。
「あんたさ、どっちのカッコしてたってそれはあんたの自由だけど、あんな風にさくさくバージョン変えてたら人目につくよ」
「……御主人様がおっしゃるなら自粛しますが」
返ってきた言葉の一部に思わず閉口する。
「ねえ。あんたさ、御主人様っていうのやめない?」
「……御主人様は御主人様です」
「私飼い主らしいことしてないよ」
「飼い主らしさが問題ではなく、ただあなたをお慕」
「分かったいいからそれはいいから! みなまで言うなっ!」
思わず耳を塞いで続きの言葉を拒むと、カメは露骨に端正な顔をしかめた。不満たらったらな顔だけど、いい男はいい男だなぁと思う。いや思ってどうするのか。あああほっぺた熱くなって困る。
「……私にはよくありません」
と、普段はのろのろとした声に珍しく芯があるのを感じて、私は怖じ気づいてしまう。
……分かっている。カメが人間になりたいと願ったわけはよく分かっている。昨日同じ言葉を三回聞かされ、身をもって散々思い知ったし。
とどのつまり、この元爬虫類の青年は私を、………………お慕いしているんだそうです。意味は問い詰めてくれるな。意味知ってるし。知ってるし!
駄目だ駄目だ一昨日のことを今日持ち出されたら生々しすぎる。危険すぎる!
「御主人様―――」
「ストップ! その話は後日いいから後日何が何でも後日! 私今月の末からテストがあって今追い込みなの勉強しなくちゃいけないの、だからあんたはこの部屋立ち入り禁止、分かった!? 母さんがご飯っていったら呼びに来て、それ以外来ちゃダメだかんね!!」
まくしたてながら私は立ち上がり、つったっていたカメの身体を後ろからぐいぐい押して部屋から追い出した。押されながら私を振り返るカメが何か言いかけた気がしたけど、視界と部屋からカメを追い出すのに必死だった私はあんまり気に留めなかった。
もうね。もうね。傍から見たら大爆笑だと思うの。私が完全に外野だったら笑ってるよ。笑うしかないよ。
(だってあいつ亀だよ!? 爬虫類だから! 神様に気まぐれ起こさすぐらいだからどんだけ長生きか知らないけど亀は亀だから!!)
…………そういうことにして、笑い飛ばせたらよかったのに、なあ。
その日以来、私は勉強を名目に徹底的にカメを避けた。一体いつからの兆候か(いや、わかってるけど)カメが側に寄ってくると、条件反射のように心臓が騒ぎ出して困るのだ。
顔を見なくても声を聞かなくても、側に来ると分かる。家の中で一番背の高いカメの気配を肌が感じ分けている。うああああ困るぅぅ。
元もとインドアな私なので、食事や入浴時を除いてはほとんど机の前にいるしかない。受験生もかくやっつー勢いで復習する。おかげでテスト範囲はバッチリだ。
カメが呼んできてもとにかく無視。言いつけを破って部屋に入ってきてもとにかく無視。まさか面と向かって文句言うのすら怖いのなんてそんなことは。寝ようとしても出ていかない時はさすがに焦りまくったけども。
昨日なんか、部屋の隅に座り込んで飽きもせずこちらを見ているカメの存在をも忘れて数学のプリントに熱中していた時、ふと後ろを振り返ったら爬虫類Ver.に戻ったカメがめちゃくちゃ恨めしげにこっちを見ていたっけ。……こいつ、人間Ver.の時よりもこっちの方が表情分かりやすいな。
そして今日も。あああ感じる。すごく感じる。不満たらたらで、めっさ恨めしげな視線を背中にびしばしと。
今日は改めて英語の例文を赤ペンのメモと一緒に写していた私なのだが、単語も意味も文法も何も頭に入ってこない。テストもホントに間近なんだけどさっぱり集中できない。……視線や空気にも圧力ってあるのかなあ。
「……カーメー」
こいつは無言で圧力かけてくるくせ、暗黙の了解とかそういうものにはとことん疎い。時計見てみろっつうのもう日付変わるよ!? あんたのおかげで集中力はいまいちでも復習はばっちりなんだからテスト前でもあまり根詰めずに寝るのよ私は!
「着替えるし、もう寝るから! 出てくの。出てって。出てって下さいお願い頼みますから」
敬語まで使っちゃったよ。
……私さ、カメがまだ爬虫類でしかなかった頃、カメが部屋でごろごろしてる時に堂々と着替えしたりしたかなあ。考えないけど。考えたくないから。
一瞬遠い目をした私の前で、カメは言われるまますっくと立ち上がった。何となく身構える私の前で、カメはしばらく黙ってその場に留まったあと。
こちらを怖いくらいまっすぐに見つめて、
「……いつお手透きに?」
「……は?」
「いつになれば、お構い下さいますか」
ふは、と弱弱しく吐息が漏れた。
構うって。ペットかあんた。いや、ペットだったけど。姿を変えて言葉も会得して様変わりしたにも程がある元ペットにそんなこと言われても。――ああ、駄目だやっぱり笑い飛ばすことなんかできない。
あんたの、真剣すぎる目ときたら。二の腕あたりをぴりぴりしたものが這い上がる。……その目。他のどこより感情豊かで、うるさいくらい訴えてくるその目。
これほど静かなのに雄弁で、冷たそうで熱いもの見たことない。居たたまれない。
どきどきする。
「…………、週末、に」
気圧されているのに自然と言葉が引き出される。何あんた。声も大概威力抜群なのに、視線にも何か特殊能力があるの。勘弁してよ。
「週末に、テストの日程、全部終わるの」
だからその時。と私は、後になって振り返るたびにのたうちまわる程後悔する言葉を吐く。
「その時、構ってあげるわよ」
…………。
…………。
…………。
ねえあんた。
そんな嬉しそうな顔することないでしょー……。
「しまった、顔熱い……」
ぎゅうっと両手で押さえつけたほっぺたがじわり熱をもっている。
カメはいつの間にやら部屋を去っていた。
取り残された私は悲惨なものだ。心臓が耳元にあるみたいだ。今、ものすごい速さで全身に血が巡っているのが分かる。涙がにじんでくるくらいドキドキする。何なんだろうこれは。ああ、もう、これは―――
「―――やばい、ほだされそう……」
その夜は夢を見た。
過去の夢。でもそれほど昔じゃない。カメがまだ、這いつくばって歩く爬虫類でしかなかった頃。ほんの数か月前なのに、もうずいぶん昔のことみたい。
居間で、母さんとおじいちゃんとテレビ見ながらカメにおせんべ食べさせたり。
割と頻繁にお外へ散歩に行くカメのために、甲羅に「今散歩中です。構わないで下さい」と連絡先付きの張り紙つけて車に気を付けなよーとか言いながら送り出したり。帰ってきたらお帰りーって。そうだ、当たり前に話しかけてた。
私の部屋では、適当にマンガとか見ながら、カメの甲羅によっかかったりしてたな。暑い季節は、ひんやりした甲羅が気持よくて、頬ずりしてたりもしたっけ。
友達に写メ見せたりすると、うえって顎を引かれたりするけど。まーそうかもねーとか表面上では取り繕いながら、幼い頃から一緒に過ごしてる私にはこいつだって可愛いのよ、とかってホントは内心憤慨してた。
ああそっか。構ってた。いつも何気なく、自然に、確かに愛情を持って私はカメに構ってた。
あんたの目から見れば、私はちっとも変わらないもんね。だからあんなに不機嫌だったんでしょ。急に、御主人様が構ってくれなくなっちゃって。
(でも無茶だよあんたが変わりすぎなんだもん……)
確信めいた予感に襲われて夢うつつに身震いする。劇的すぎる変化に戸惑う私を差し置いて、あの元爬虫類はお構いなしでマイペースに好き勝手やるつもりじゃないのか。これまでの経過をみても、そう思わずにいられない。
……ヤツはああしてことあるごとに迫ってくるのかなあ。イヤだなー。
何てゆーか、イヤはイヤだけど、いたたまれなくてイヤだけど、ホントはもんのすごくイヤっていうわけじゃないあたりが、我ながら更にイヤだ。……もーほんとにどうしちゃったんだろ、私。
人生色々、人間色々だと思うけど。
飼ってたペット、それも亀が、ある日突然人間になってしまったら、ぶったまげるよね。
まあそれはいいの。よくないよツッコミがいありすぎるよって思うだろうけど人間ってすごいんだよ順応するから。したのよ、私は。家族が極めて懐の大きいマイウェイなものだからそういう助けもあってね。人間に変・身☆した当の亀もとっくになじんでるしね。そこが一番納得いかないけどね。
とにかくそれはいいの、そんなことは些事よ、些事。
問題はその爬虫類がものっそい真面目に迫ってくることよ。
……あり得ないと言って笑いたきゃ笑えばいいのよ。むしろ笑って頂きたいわいっそ。
その上。霊験あらたかすぎる変貌を遂げたカメは誰もが認める眉目秀麗な男ぶりでね。爬虫類の美醜なんてマニアでも何でもない私にはわかるわけもないからこれは本当に驚いたというか心臓に悪かったんだけど。
いや、真に心臓に悪いのは、何つってもその声よ。お聞かせできないのが残念なくらい耳触りのよすぎる、張れば遠くまでよく通って低めればやたら艶っぽく掠れる美声そのものよ。何で私がこんなに力説するかっつーと苦労してるからよあれのせいで!!
声に関しちゃこれ以上ないくらいとか言いたいけど恐ろしいことにあるのよこれより更に心臓の悪いことが。やつときたらそれでもって、この平成にはそうそう聞けないような時代がかった、けれど直球すぎる台詞回しで………………散々捲し立てといてごめんこれ以上もういいたくない。前回前々回参照としかいえない。
「母さん……」
「あら、どうしたのあなた。我が家の台所で何をそんなにコソコソしてるのよ」
「うんコソコソしてることに気づいてくれただけでも有難いよ……。あのこれ、こないだのテストの素点表」
教科ごとの素点がびっちり書いてある細長い紙片を母に渡す。母さんは決して教育ママではないんだけど、返ってきたテストは親に見せないと落ち着かない性分だ。まあ今は別の事情もあって落ち着かないけど。
「まあまあ。もう結果が返ってきたの?」
「うん、採点も早かったみたい」
「あらー今回もすこぶるいい点ねー」
自慢じゃないけど私は頭悪くない方だ。そして今回はいつにも増して復習バッチリだったから(どうしてかは前回参照としかいえない)人生でも指折りの総合点だった。学校でも友達に散々冷やかされたけど私はそれどころじゃなく色々気が気じゃなかったの。ああもうだってだってだって。
「私の子じゃないみたいねー。おじいちゃんの血でもないわねー」
「かーさん……」
「うふふー間違いなくお父さんの血ねー♪」
「うんその一言があってよかった。ちょっとハラハラしちゃった」
このやり取りを切り上げたら速攻部屋へとトンボ帰りするつもりであった私は、ふとめぐらせた視線をあるものに吸い寄せられる。レンジ台の上段で炊飯器の隣に積み上げられた、あれは懐かしの絵本たち。何のためのものかと疑問符を浮かべたと同時にわかりきっている答えに辿り着き、思わず遠くを見た。
「うわーあの絵本母さんが昔私に読み聞かせてくれたやつでしょ?」
「あ、そうそうそうなのよー、最近ねぇ毎晩カメちゃんに、」
「そうでしょカメに読み聞かせてんでしょー? あっはっはやだーもう頼むよ母さんたらあいつにこれ以上厄介な知恵つけないで下さいホントマジで」
後半にいくにつれ土下座してお願いしたいぐらいの心持で切実な調子になっていく娘の言葉に何を思ったか、母は。
「何言ってるのー私が毎晩読み聞かせてあげてるから、カメちゃんだって将来の指針を見つけたみたいなのよー」
「何それ……」
「――そうだ。テストが終わったなら、あなたカメちゃんに構ってあげる約束だったんでしょ」
「はあぁ全部駄々漏らしにしてんのあの爬虫類!?」
「まあなんて言い草なのこの子ったら!」
母は偉大だなー。自分の父親が拾ってきた爬虫類が十数年後に人間に変じても「二人目の子よ!」と言いきって息子のごとく可愛がれるんだもん。すごいよ。すごいけど見習えないよ。そしてどこまでカメが打ち明けてるか知らないけど、実の娘がその爬虫類に迫られてると知ったらどう思うんだろう。恐ろしくてまさか追及はできない。
「早く行ってあげなさいよう可哀想じゃないのう、健気に待ってるのに」
「健気っつーか……」
いや確かに。構ってあげるなどと恥ずかしい約束を交わしてから、カメは一歩も私の部屋には入ってこない。自分が集中力を削ぐ原因だとわかっているのか、その日からバージョンを戻し、つまり四足歩行の亀の姿に戻ってここ数日一度も人間の姿を取っていない。……じゃあ何? その前まで言いつけも破って夜遅くまで人の部屋に人間のカッコで居座ってたのはわざとだったのか? やめてその顔と声と直球ぶりで。真剣に対処に困る。
けれどもう、じたばたしてばかりでもいられなくなった。約束の、テストの日程は全て終えてしまったのだから。
人間Ver.の外見年齢に似合わぬ不貞腐れぶりに絆されて、なし崩しに交わしてしまったものでも約束は約束。私は学生としての優先事項を消化したのだから、それ以前の回避っぷりを回収するようにカメを構ってやらねばならない。のだが。
(……構うって具体的に何すりゃいいの……)
むしろあいつは何を求めてるのかそれが問題だ。最初のアレを思い出すと…………嗚呼顔が熱い。あまり思い出したくないけど壁際に追い詰められてアレやコレやだったんだよ、私自ら行ったらアイツ調子に乗って更にとんでもないんじゃ。口調は慇懃でも手はめちゃめちゃ早そうだし。
――と、テストを終えてからも、未知なる経験むしろ未知なる生物(これ以上にあてはまる言葉があろうか)に立ち向かう覚悟を決められず見苦しくじたばたすること数日。
週末。週末にテストは終わる、と確かに私はカメに告げた。考えてみればこれも結構幅があって曖昧な言葉だよねえ。大意は金曜日から土日にかけてってことだもの。とにかくその辺りになったら「構ってあげる」と約束したのだ。
実際テストの日程は金曜で終わった。一番びくついてたのはその日で、カメが両手広げて待ってやしないだろうかと戦々恐々しながら帰宅した、ら。
「ただい…………ま」
――けれど出迎えたカメは、相も変わらず四足歩行の爬虫類の姿。その感情の読み取れない表情でのそのそと廊下を歩いていた。
それから土、日と。私が腹を据えられずにいる間も、カメはバージョン変えする気配を見せない。私がおせんべあげれば食べるし、テレビ見ながら甲羅によっかかってても大人しくしている。けれどバージョン変えはしない。寡黙なためにひたすら従順な印象に見せるその姿のまま。
……まあ健気っていえば、健気なのか。こいつ、私からアクション起こさない限り自分は待ち明かすつもりなのかもしれない。約束された日を半ば見過ごすことになっても。
本人(亀)がそう言ったわけでなくても、一端そう思ったらダメ。私ダメなの、飼い主に健気に尽くす動物とか。忠犬ハチ公なんか手垢がつく程使い古されたエピソードだけどあれでも未だに泣けるぐらい。その点ではまだ自由奔放な猫の方がましだっつう。ということで私は猫派。全くどうでもいいけど。閑話休題。
「カメちゃんね。この頃よく縁側で黄昏てるのよー。美丈夫は何してたって様になるわよねえ」
「……縁側ね」
「そうよ。縁側よ」
なるほど居場所はよくわかった。
「ありがと母さん」
「やだあいいのよお礼なんてー。……何かしたかしらー」
「いつまでも逃げ回ってらんないもんね……」
おじいちゃん曰く、女は度胸だ。激しく様変わりしてたって、可愛がっていたペットには変わりない。腹を決めろ私。気後れに背が丸まらないよう胸を張って、縁側へ続く和室へ向かった。
そして私は和室の入口で見たものに早速くずおれた。失意体前屈。何故このタイミングでバージョン変えするかアンタ。
(ああでもそっか美丈夫だの何だの言ってたっけ母さんが……)
名残惜しくも日曜日を終盤へ導く夕日が、縁側に腰かけてこちらに背を向けるカメを照らし出していた。その姿、最後に昼食時に見かけた時までは確かに甲羅を背負う爬虫類だったのに、今、夕日の橙色に染め上げられているのは正真正銘人間である。憎たらしいほど広い背中を見つつ、私はよろよろと立ち上がる。
釈然としないものを抱えつつも、出鼻を挫かれたのがかえって緊張を解して、我ながら意外なほどあっさり「カメー」と呼びかけることができた。
振り返りかけたカメの動作はどこかぎこちない。それに疑問を呈するより早く、私は亀の隣に歩み寄る。……距離の取り方がうまくわかんないけど、まあこれぐらいでいいんじゃないかと50センチほど空けて縁側に座り込んだ。
「わ、何それ」
改めてカメの方へ顔を向けると、カメは膝に猫を乗せていた。生まれたばかりといわないまでも、まだ育ち切らないトラ猫。さっきの動作のぎこちなさの理由がわかった。
縁側の正面に広がる緑豊かな庭(家に訪れたことのある友人たちは口をそろえて「ジャングル」と呼ぶ。おじいちゃんの持ち込んだ植物で構成されてるから仕方無いかもしんない)には、時折ご近所の猫が紛れ込んでくる。飼い猫から野良猫様々で、前に述べた通り猫派な私には顔がとろけるくらい嬉しいお客さんだ。
カメがまだ爬虫類でしかなかった頃も、今みたいに一人と一匹で縁側に並んでぼけっとしてたものだ。日向ぼっこに最適なこの場所で、庭を我が物顔で横切る猫を見つけては、きゅわきゅわと奇声を発して猫なで声を上げていた。
カメは当然そんな主人のことを覚えていたんだろう。何も言わずにトラ猫を差し出してきた。脇の下に大きな両手を指し込まれて、前脚がぐいんと上がった間抜けなかっこで私を注視する猫と、……カメ。――私は猫好きゆえの反応の速さでその子を受け取ったのに、受け渡しの瞬間ほんの少しかすめた指の感触に思い切り気を逸らされた。…………少女漫画か!!!
ぐあっ、と血が上がってきた気がするけど夕日に紛れろ紛れてしまえ。いや大丈夫こんだけ視界がオレンジ極まったらあとは暗くなるだけだもんオールオッケーよ。あああ落ち着け私。
にゃごう、と抗議のような声をあげるトラ猫を、慌ててよしよしと抱えなおす。
「ごめんごめん、ちょっと力入りすぎたんだね~……」
元々触られるのが嫌いじゃない子なんだろう、両腕に抱き込んでも嫌がらない。
ああ、猫って猫って、外見や手触りがひたすら柔らかいのがいい。やわっこくて滑らかな毛並みに指を埋めて、丸みだけを描く体の線をなぞりながら撫でる。この子ホントに人懐っこいんだな、目を細めて気持ちよさげにグルグル鳴き出す。ううう可愛い、可愛いよう。
これぞアニマルテラピー……とうっとりしていること数分。そう、ほんの数分。
……。
……。
……。
あのねカメ。
そうガン見されると却って目のやり場に困るじゃないよ。そっち見なくてもわかるよ。猫好きだ猫派だとかそういう問題以前に猫見るしかないんだけど、私。いやだって明後日のどこでもない方向見たって変じゃん。そしてあんたの方を見る勇気もないわけじゃん。下手にあんたと目合わせたら雰囲気的におっ始まっちゃいそうで。何かって何かが。
なぁおぅ。ああ成長途中だとどんな声でも可愛い。焦れたような、あからさまな不機嫌な声を出して、その場の空気を誤魔化し誤魔化しもたせてくれていたトラ猫は私の腕から逃げ出してしまった。だよねーいくら人懐っこくても猫は猫だ。いつまでも人間の腕の中でおとなしくしちゃくれないよねー……。
他称ジャングルの茂みの中へ埋没していく猫の姿を名残惜しく未練がましくいつまでも見つめる…………ふりして後ろ頭に突き刺さる爬虫類からの視線という名の贈り物をいつまでもスルーするわけにはいかない。何たって腹は決めてきたのだ。約束したのだ「構う」と。
あーでも。いやんなることに、さっきのが、まだ。まだ。
自然界の大規模な二大照明設備、太陽と月の入れ替わるこの瞬間に、切に願う。どうかちっとも直らないこの私の顔色、ごまかして、お願い。悟られたらそこでおしまいな気がする。
「……御主人様」
数日ぶりに聞く良すぎる声にわけのわからない居た堪らなさと申し訳なさを掻き立てられて、慌てて視線をそちらに向ける。……改めて見たら思わず絶句しちゃうくらい端正な、そして無闇に憂いを帯びた表情に、真正面からぶつかった。
打ち捨てられた犬が行き場なく佇んでいたら。はぐれた仔猫が震えながらか細い声を発して怯えていたら。動物を愛でる人々にあえて問う、動かない心があるのか。揺らがない心が。
動機は犬猫への憐憫と同じレベルでも、私は思わずと手を伸ばしてしまった。
夕日は傾くほど速く、間もなく黄昏時。濁ったような橙に差し込む日差しに、陰影を深めてますます見栄えのするこの男。薄闇に埋もれそうな輪郭を探ってそっと指先を当てる。触れたのは頬辺りか、冷たい。
ふとため息がこぼれる音。相手のものだ。いよいよ「誰そ彼」と目を眇めるような闇の帳が下りてくる。その中で、カメの黒い瞳だけが艶を返しているのが見えて、私も相手からこう見えているのだろうかと思った。
「……この姿で触って下さるのは初めてです」
そうだっけ。……そうかもね。今のあんたの姿を前にした時、私がしてたことなんかどぎまぎするか身を縮めるか逃げるか身を隠すかだったもんね。あとはテレビか勉強に集中してて存在自体忘れてるか。自ら近づいていくなんて考えもしなかった。
……だってねえ。
頭が少しだけ傾いたので、私は釣り込まれるように掌全体をその頬に当てる。光と闇の比率がひっくり返れば、相手の所在を確かめるために視覚は頼みにならない。相手は何を思ったか瞼を閉じて、黒目にぽつりと差す光も見失った。
「またお泣きになりますか」
「泣く?」
「泣かれました。最初に」
お伝えした時に、と続く言葉に、私は羞恥で上がる体温に目を細めつつ「あーそんなこともあったっけ」とぼやく。最初。最初ね。壁際に追い詰められて両腕の間に閉じ込められて、あげく組み敷かれそうになったあの時だ。泣いたねそういや。別にあんたが憎かったり恐ろしかったりで泣いたわけでもないんだけど、なんかもう色々、パニクっちゃって。
聞えよがしでもないけれど隠し切れてもいない沈んだ声。長年の飼い主を泣かせたのは、見た目にわかりにくくも忠義深いこの男を落ち込ませのだろうか。
「構って欲しい」の次は「泣くな」か。私も存外この突飛な爬虫類を振り回してるんだなあ。
幼少のころから十三年の付き合いになる。カメへの印象は寡黙な悠然、半永久的な不変、日常そのものだ。カメは病気や怪我もしないからヒヤヒヤさせられたこともないし、私も一般の愛玩動物のように愛嬌や外見で慰撫されることを求めたりもしない。――ただ、そこに在るならそれだけでいいと。
私はそれでよかったのに。あんたときたらセンセーショナルなぐらい姿形を変えて罪深く声まで得て、喋らせてみたら何だか色々要求してくるじゃない。おかげでここんとこ驚きっぱなしよ。
でも、……そうか。寡黙に見えても意思はある。当然のことだ。
「泣かないわよ」
なるべくきっぱりとした発音を心がけて、断言する。……色々と背中がもぞもぞしたり居た堪れなくなったりはするだろうけど、もう泣きはしない、と思う。多分ね。この通り、あんたもずいぶん気勢を緩めたようだし。
するとカメは目を開く。相変わらず逃げ出したくなるくらいまっすぐな視線だ。けれどここで逃げ出したら、打ち捨てられた犬を強か蹴りつけるようなものだ。はぐれた仔猫を悪戯につついて疲弊させるようなものだ。ある程度は冷静な今、そう思える。
「それなら」
その声は慎重のあまり、語調も柔らかに吐息を含んで、いまさら背筋がぞくりとした。
「私から触っても――」
構いませんか、といういじらしいようで直接的な問いかけが、体のくすぐったいところをぞわぞわ駆けあがるのにどれだけ辛抱したか。
即座に首を横に振りたくなるも、私はここ数日自分がしたことを思い返す。まさか目の前にいる青年とは似ても似つかない、けれど確かに同じだという爬虫類にもの食べさせたり甲羅に寄っかかったり撫でたり、した。そして今、人の形を取ったカメに触れている。彼は、今でなければ主人に触れられない。
その問いを拒絶したと取られないように、私はたっぷりと間を取りながら頬に当てていた掌を放す。前触れもなくがっつかれても困るけど、了承を求められてよしと返すのも相当な羞恥プレイだとはその瞬間に気づいた。暗闇の中、見えない輪郭を緩慢に探り合う堪らない空気の中、相手の手がゆっくりと伸びてくる。
ちょうど顔の脇、髪から見え隠れする耳朶。指の背で、撫で上ろすように斜めになぞった先に、こちらも同じように触れた頬。私よりずっと大きな掌に覆われて、予想外の温度に震えが走る。
途端聞いたことのないような満足げで静かな吐息に、一度しくじった時とは全く別の意味で涙が出そうになった。ああ、今母さんかおじいちゃんに和室の電気つけられたら恥ずかしさで死ねる。
この頃夢騒がしい。けれど内容はおぼろげ。ただ一つ覚えているのは、オフホワイトのもやもやとした視界の真ん中に佇む、とっぽい感じの若いあんちゃんがこちらを見据えて語ること。
『――どってことのねえ小娘なんだがなあ』
癪に障らないでもない。そんな一言を発して、とっぽいあんちゃんはやたらひらひらばさばさした白い衣装を翻して行ってしまう。覚えているのは、それぐらい、なんだけども。
パチリ。
教室の机に半ばうつ伏せになりながら、携帯を開く。待受画面をしばし見つめて、やるせない気分でまた閉じる。しかし程なくまた開く……。昼休みに入ってから、ずっとそんなことの繰り返し。
「携帯の開閉って案外充電食うらしいわよ」
斜め後ろの席の友人からボソリと呟かれる。とにかくやるせない私は唇を尖らせるしかない。だってさあ。
「なに、想い人の写メでも設定してるのかと思ったら亀じゃない」
待受画面を覗き込んだ友人が声を上げた。そーです待受に設定してるのはウチの亀です。それも爬虫類Ver.の。――なんて説明できるはずがないけどさ。
「もしかして……」
「いや、死んだわけじゃないよ。無駄に元気だよ」
無駄に元気な爬虫類というものが想像できなかったらしい友人は首をかしげる。まあそうでしょうとも。
「ちょっと、なかなかないわよ休み時間に待受に設定した爬虫類を見つめて溜息つきまくってる女子高生なんて」
「だってさ」
「だから何よ」
……だってさ。だってさ。だってだってだってさあ。
「“見納め”だって言うんだもん……」
「――見納めですご主人様」
ここ数ヶ月で爬虫類からなんとヒトへ、ダーウィンが悶絶するぐらいきれいに過程を省いた変貌を遂げた我が家の元ペットは神妙な顔でそう告げてきた。何でか額を突き合わせて、和室にお互い正座で。
隣の部屋では、おじいちゃんと母さんが山ほどの本をテーブルに積んであーでもないこーでもないと何かの議論をしている。で時折なぜだか爆笑している。たまにあることなので気にしないけど、ああやっておじいちゃんが騒ぎ出して母さんもそれにノリ出すと十中八九近いうちに家じゅうが上を下へという事態になる。どうにもできないんだけど、気持ちの上では覚悟しとかねば。
えーと。何だっけ。そう、見納め、見納めなんだ惜しくも。何がってえーと。
「……何が?」
姿勢も相俟って、思わずこっちも神妙になる。なるけど、主語を省くな、主語を。
タメたのか考えたのか、黙るカメ。そして落ちる沈黙。目を落として確かめた、突き合わせる膝と膝の距離は30センチくらい……まずい、近い。顔を上げたら相変わらずで不可思議な目力に気圧されそうだから直視しないようにする。だって見るとややこしいことになるのよ主に心臓が。
「私が」
「は?」
「私がです。ご主人様」
あんたが? ……見納め?
お話は以上です。呼び立てて申し訳ありませんでした、失礼します。そう平らかな声で告げてカメは……その場で爬虫類にバージョンもとい姿を戻した。重たそうな甲羅を背負い、四足歩行でのそのそと和室を出ていく。残された私は茫 というわけで。携帯を機種変してカメラの性能試すために適当に撮って適当に保存して、以来ずっと放置してたカメの写真を引っ張り出して待受画面に設定することに相成る。だって見納めっていわれたら、惜しくなるっていうかなんていうか、今の内に見れるだけ見とこうと思うじゃないよ。
まあ家に帰れば前みたいに爬虫類Ver.一筋になったカメがのそのそ廊下歩いてるんだけどさ。だってあいつあれからまた一度も人の姿取らないんだ。って何でこんなに拗ねてる感じなんだ私は。
「それにしても大きい亀ね。ガラパゴスにでも住んでそうな感じ。何歳ぐらいなの」
「……わかんないの。昔うちに来た時からこの大きさだったもん」
友人と二人、小さなディスプレイを覗き込みながら呟く。年齢ねえ。
あのロンサム・ジョージだって80歳越えらしいし、うちのカメも同じぐらいデカいんだからもしかしたら年齢三桁いくかもしれない。それどころか鶴亀っていうぐらいだからもっとかっ飛ばした年数生きてるかもしれない。そう思って聞いてみたこともある。――まさか、一万年生きてるってことはないでしょ?
そうしたらヤツはジョークをかわすかのよーに事も無げにこう答えた。――さすがに紫式部よりは年少です、と。待って、引き合いに出す時代が遠すぎるんだけど。亀の飼育記録はゾウガメで最長150年ぐらいと聞くからせいぜい明治とか江戸とかが妥当じゃないのか。ええとまあご存じのとおりそんなことメじゃないくらいもっとかっ飛ばした現象を引き起こしてる輩なのでそれ以上つっこむ気力も起きなかったんだけども。
「変よね」
何が。聞き返すと、友人はわざとらしく机から距離を取って、ズームアウトしてピントを合わせるように指で作った枠の中に私を収める。変よね。そう繰り返す。
「見納めの意味がよくわからないけど、ペットのことで思い悩むにしてはどうも変よあんた」
「変って何が」
「最近好きな人でもできたのかと思ってたんだけど、今は恋の悩みとも違う」
「い……やいやいや何言ってんの」
「あ、でも好きな人できたのはホントなんでしょどんな人なのねえねえねえ」
「だから何言ってんのおおおおお無いっつの絶対無いっつの!!」
「その否定ぶりが怪しいわああああ私の詮索根性ナメんじゃないわよさくさく白状しなさいほらほらほらぁ!」
――とかいう調子で休み時間中じゃれ合いつつ。
本当は、友人の言葉には少なからずどきりとしていた。いや好きな人云々とかではないそれは有り得ない断じて絶対。……そこじゃ、なくて。
……あの姿が見納めということは、つまりあいつ、哺乳類爬虫類兼用という摩訶不思議な生態から正真正銘の人間になるということだろうか。
――何をきっかけにそういうことになったのよ。
(人間の姿を取るようになった理由は聞いた)
あまり思い出したくないけどそれは再三聞かされた。そしてそのあとしつこいぐらい何度も思い知らされた。でもそうやってすったもんだしてる間も、拗ねたり自重したりで爬虫類に戻ってたじゃないよ。人であって亀でもあるなんて生物学者がひっくり返りそうだけど、この頃ようやくそれにも慣れてきたのに。
……なあんかもう、いやになってきたよ?
「カメー!!」
帰宅直後、ただいまも言わずに腹の底から一喝。こんな声出せるのかと自分でビックリ。あれ私怒ってるんだろうか。いや別に怒っちゃいないんだけど、我ながら必死さ加減が声量に表れてるというか。
ただもう、事前の説明もなしに振り回されるのは勘弁なのよ。何としてもとっつかまえて問い詰めないと気が済まない。なんだろう、根拠もない不安につかまりそうで足もとがざわざわした。それを振り払うように、「かーさんおじーちゃんカメどこ!!」と叫びながら遮二無二靴を脱ぎ捨てる。その間に玄関から続く廊下の突き当たり、明かりを落とした暗い和室から覗く、低く小さな影。
程なく廊下の電灯の届く範囲にのそりと顔を出した爬虫類――胸倉ひっ掴んでも問い詰めねばと脳裏に浮かべていた姿は「こっち」じゃない。わかっていたはずなのに、その場に立ち尽くしてしまった。
カメは比較的早足で私のもとまでやってきて、もの言いたげに見上げてくる。その視線に我に返り、なによと睨み返しつつ玄関に上がると視界に入るチラシの裏――オン・カメの甲羅。
思わず脱力しつつ、ハイハイと応じて甲羅からチラシを剥がす。母さんとおじいちゃんの署名付き、二人とも外出中の旨。……そーだよね、あんたは昔から我が家の動く伝言板だったもんね。ちょっと和んじゃったじゃんよ。
「ねえカメちょっと話あるんだけど……ってこらちょっと」
役目は終えたといわんばかりに悠然と引き返していく。おいこら仮にも御主人様と呼ばわる相手の呼びかけを無視する気かこの世紀的びっくり動物。
「ちょっとってば」
待ちなさいよ止まんなさいよ聞けっつーの、――何だこのかつてないガン無視っぷり!
俄然かちんときてしまい、けれど追いつくにはあまりにたやすい相手で勢い余って甲羅を掴んでしまう。……その重量を忘れて。
あっと気づいた瞬間にはもうバランスを崩して倒れ込んでいる。今度は私自身がオン甲羅だよゴメンつぶれた!?……
「……。……。……今のあんたに言うのもナンだけど、無事だったら無事だったでリアクションくれない?」
流石というかなんというか、人一人馬乗りになってもビクともしないわ。カメの甲羅に乗るのなんて幼稚園以来じゃなかろーか、と懐かしさにかられている内に、何とこいつ人を乗せたまま歩き出す。うわあすごいすごーい。……などと呑気にしている場合ではなかった。
ごく普通の一軒家の廊下など短い。亀の歩みといえど突き当たりの部屋に辿り着くのもすぐ。和室の入口、敷居を踏まずにしっかり跨いでいく。……幼い頃から疑問だったんだけど、現代人も忘れつつある作法を爬虫類のあんたは誰から躾けられたのよ。
――あともう一つ聞きたいんだけどあんたどーして人を乗せたまま明かりを落とした薄暗い和室に迷わず入っていくのよイヤちょっ待ってだからあんたは!!
「なんっでこういうタイミングでバージョン変えんのよ意味わかんない意味わかんないんだけど!!」
危うく今傍目にとんでもない姿勢になるとこだったでしょーが!! 間一髪その背中から逃げ出したからよかったものの。
すると全く理解できないタイミングで人間の姿に変じた、どんな時でも表情らしい表情を見せない元爬虫類はゆっくりと身を起こす。その身じろぎがこちらの手に伝わって目を剥いた瞬間、両手首をとらえられているのに気がついた。
「……傍目も何も」
こちらに向き直ってから、淡々と告げる。
「奥様も大旦那様もご不在ですので、よそ目はありません」
窮鼠。
前から薄々感じてはいたんだけど、あんたのその昼行燈みたいな外見に反した言動はわざとなの? わざとなの? 三回言うけどわざとなの?
つまらないいくつもの問いが喉元までせり上がっては、すぐに思い直したように消えてゆく。泡に等しいそれらを見送ってふいに気づく。違う、本当に聞きたいのはこんなことじゃない。
本当に聞きたかったこと。ずっと前から問いつめたくて仕方なくて、でもそれを思うとたまらなくなって目をそらしてた。甘ったるいような昂揚と、手持ち無沙汰な苛立ちにうやむやにされた。そんなことを繰り返して、問題を先延ばしにして……
――で、今そのツケがきてるんですか神様。
手の甲にかぶせて添えるように、振り払えば振り切れそうな力で掴まれた手首。こちらに判断をゆだねるような力加減が、むしろ拘束を強めている。
あんたときたら、避ければ拗ねるし泣けば傷ついた顔をするし。ねえ、私はあんたのそういう所を見てんのよ。私の所為でといってそういう顔するあんたを見てんのよ? ――振り払えない。
いつかのように人口の照明を断たれ、かといって自然の照明に頼ることもできない屋内は徐々にほの暗くなってきた。けれどそれで支障はない。なぜなら私、初っ端から俯いてしまったから。相手の顔が見えなくても困らないっつうか今見えた方が困る。畳の目を睨みつけながら、遠まわしな質問から外堀を埋めていく。
「……おじいちゃんと母さんがあんたの新しい名前考えてるって」
「伺っています」
「あんた本当に……」
人間になるの。いっそギャグになりうる質問に、ええ、とさらり答える爬虫類。
「名づけは戸籍を作るための作業の一つです」
え、いきなり話がリアルになった。思わず頑なに下げていた目を上げる。そういう公文書、っていうの? よくわからないけどそれはいくらなんでも。
「戸籍なんか作れるの?」
あんたみたいな非現実と非科学を足して二で割ったのを服着て歩いてるようなやつが。いや無理でしょ。正攻法じゃまず。
「そこは並々ならぬ力添えがありますので」
「力添えって誰の」
「――神様の」
マジで。
「……………………まぁ」
あんたのよーな存在がまかり通ってるぐらいなんだし、八百万っていうぐらいだから神様の一人や二人。動物をさくっと人間に昇華させるぐらい、あり得ないこともないんじゃないの。投げやり気味に納得する。
「御主人様」
「なに」
「この頃の夢見はいかがですか」
唐突な質問だけれど、言われて引っかかることはある。
「大旦那様も奥様も、既に見るべき夢は見ておられますが」
「…………その夢って、白くてひらひらばさばさした服着たあんちゃんが出てきたりする?」
若くて、かつ、とっぽい感じの。
「神様の立てられた使者です」
マジで。
えええそんな有難い人がどうして私ら庶民の夢に出てくんの。
「……神託が夢路を辿って下される例は東西に見られます。そのように考えて下さればわかりやすい」
神託って。
「要はお告げ……?」
「事前説明会ともいいます」
いやそう言われると途端にわかりやすいけど、あんたが言うとミスマッチだ。
「お告げも何も、これといって指示や説明はなかったけど」
むしろ「どってことねえ小娘」呼ばわりで終わった気がするけど。
「それは準備が万端ではないからです」
「準備って何の」
「神仏といえど万人の夢路をこじ開けることはできません。御主人様はまだ私を受け入れる心持ちがお済みでない、ゆえに神託が曖昧に終わるのです」
いつの間にか、カメに捉えられていた私の手の甲は内側にひっくり返っていた。手の外側を捉えられていた時と、見た目の印象が全然違って目を奪われる。所在なさげになすがままだったのが、掌一つ引っくり返すだけでこうも変わる。
互いのたなごころを合わせれば、たやすく受容の形に変わる。
つっこみたいことは諸々、ある。あるんだけれども、まあそれは置いとく。
「どうして私なの」
とらえられた、という形容ではもう似つかわしくない感じに面映ゆいつながれ方をしている手に目を落とす。その下、畳の目を睨みつけると、ピントがずれてふた組の掌がぼやける。
「……私の何があんたをそうさせたの」
自分で言うのもなんだけど、私ただの十七の小娘ですよ。
ふと落ちる沈黙。こういう空気を何度かやり過ごしてきたおかげで、だんだんその沈黙にも種類があるのがわかってきた。これは考え考え慎重に言葉を選んでいる時の黙考だ。
「――それはお答えいたしますので、一つだけ」
何よ。
「逃げないで下さい」
…………そう言われると尚のこと逃げ出したくなるんだけど、うんそーよね当然よねよくわかっただから手に力を込めるな引き寄せるな逃げないから!!
「先にお話ししておくと」
ええ。
「亀としての寿命はあと二百年ほどありました」
長っが。
「……今ある記録余裕でぶち抜けるじゃん」
つうか実際あんたホントにいくつよ。カメはちょっと首をかしげる。
「まだ数え年が主流だった頃の正月に、キリのいい数字を迎えたらしく祝賀会に招かれたことはあるのですが……」
「……ちなみにその祝賀会の主催って」
「神様の」
マジで。
え、あの、十二支の順番を決めた時みたいなそういう宴会のノリ?
「何ぶん昔のことなのでよく覚えておりませんが、とにかく先日使者の方からは確かに『残り二百年』と。その内半分の寿命をお返しして、代わりにこの姿を望み得ました」
……そう言われると昔話にもありそうな展開ではあるんだけど。
「その他諸々の事務手続きに必要な経費は残りの寿命から差し引いてもらいまして」
算盤でも弾くようにさらっと言うかそんなこと。
「他に持ち物がないもので、致し方なく」
どこまでも平坦に続いていく語調に、なのに相変わらず忌々しいほど耳触りのいい声がこう締めくくる。
「――それでも現代日本男性の平均寿命ほどは確保できておりますので」
十分です。と。
「………………」
…………。
…………。
…………。
なんっだそりゃあ。
この期に及んでやっぱり馴染まない非現実だの非科学だの、神様だの使者だのはひとまず置いとく、置いといてやる。
でも、今のは、聞き捨てならない。
「何、十分って」
それがホントならあんた要は自分の寿命削ったんじゃない。
「そうともいいます」
体の表皮を撫で下ろすように艶っぽい響きのある声に、初めていらいらした。
駆け上がる苛立ち。ねえだから私の、私なんかの何が。
怒気は涙と共にやってくる。自分でよくわかっているから、かみしめて堪える。指先が戦慄いて、ずっと捉まれていた手を無理やり振り払った。その勢いで遮二無二立ち上がろうとすると、瞬くより早く腕を引き寄せられる。見透かしていたような動作の速さがこれまたむかつく。
あえなく畳の上にくずおれると、後ろ頭にかけられる大きい掌。うー、とわけのわからない悔しさで獣のように喉もとで唸りながら、抱き寄せられた胸板を叩く。鈍い振動に、びくともしない男の身体。
……寡黙な悠然。半永久的な不変。日常のそのもの。
意識したこともない神の元へ返された残りの命。
ねえ、どうしてそうさせたのが私だったの。
見納めになる。行ってしまう。
「お泣きになりますか」
長い二本の腕に抱き込まれて、最初に壁際に追い詰められた時と比較にならない密着度。わざとかっていう距離で耳元に落とされる、低めて吐息を含んだ声。どちらにも狼狽する五感より先に、いつか交わしたのと同じ言葉が心に追いつく。
さわってもなかないでほしいなどと手前勝手な懇願を、こっちが受け入れて約束に昇華させた。思い出した途端に意地になって、涙をひっこめ仰いだ顔を睨みつける。
「泣いてないわよ」
「――それは何より」
日はとっくに彼方の地平線に沈んで、以前にもあったようなシチュエーションより室内はずっと暗い。でもこれ程の至近距離なら表情がよくわかる。癪に障るのに心臓に悪いことには、相手は目を細めながら確かに笑んでいた。
「本題はこれからです」
胸元に抱き締めた頭を、ゆっくりと撫でる手は幼子をあやすようだった。なのにもう片方、背中に回されて腰にあてた手は逃がすもんかといわんばかりの力加減。うんもういいけどね。泣きそうになったりそれを堪えたりって案外疲れるからそれをやり過ごした今の私は大層くたびれてんのよ。
となると今まで散々煮え湯を飲まされてきたこの爬虫類の声も、聞いて狼狽するまい慌てまいと無駄な抵抗をするよりはさっさと受け入れちゃった方が早い。うん認める。腹の立つほど聞き心地のいい美声です。何度でも言うけど爬虫類のくせに。
「……本題って」
何だっけ。
「私がどうして人間になろうと思ったか、です」
ああ、そこまで溯るの。
カメは座りながらの前屈姿勢に疲れたか、片手を私から離して重心を少し後ろに傾けた。二人分の体重を引き受けながら後ろ手に畳についた腕が、とにかく長い。いやになる。
「……どこから話したものか」
零れるように口火を切って、けれど程なく思案の沈黙。何せ見かけによらない長寿だから仕方ないにせよ、手すさびに髪の毛弄るのはやめて欲しい。こそばゆくて肩を縮める。どこへともなくめぐるその視線も、もしかち合ってしまったらと思うと気後れして追いかけられない。……せめて膝から降ろしてクレマセンカ、と言いかけた瞬間しっかり抱き直すのは何なのエスパーなのぎゃーって感じなんだけどぎゃー。
「……亀として寿命を全うするなら二百年」
――それはさっき聞いた、となるべく憮然とした声で投げようとするのにできない。それほどやたらな雰囲気をもって放たれた声に、相槌さえ打てなかった。
「そうと神託を賜ったのはこのところのことです。けれど私には漠然とした予感がありました。薄く永く引き延ばされて、常に私の進路に横たわっているような予感が」
――『私は死ぬまい』と。
ここに在っても、思いが虚空へ馳せた声は零れ落ちるように静かに響く。
「私の緩やかな足が、長い時間の中でいくたびと阻まれてきたことには違いない。けれど戦火も天災も私を殺すに至らない。長寿の象徴として人から人の手に渡り、時にそれを離れてはまた悠々と生き続けました。そうして永く生きて参りました。その中で畏れ多くも確信を得ていた、当分死ぬことはあるまいと。悠々と生き続けるに違いあるまいと。――それは大したことではない。私は自分の種がそうしたものだとはとうにわかっていたのだから。少しばかりそれに長けていたというだけで、神託を賜ってさえさほど驚きはしなかった」
それが純然たる事実でしかないと受け止めていることを示すように、やはり淡々とした声。
「死ぬまでにどれほど季節を巡るやら、数える気も起きないほど長い時を過ごして――二十年ほど前にまた幾度目か人の手を離れ、のんびりと野外を歩いていました。数年そうしていられるくらいこの国はどこもかしこも平和なもので、私を取って食うものも虐げるものもない。悠々と歩いていました。しかしある時……」
貴女の。かちりと話題を切り替えるように、声の抑揚が俄然変わった。
「――祖父君が目の前に現れ、あれよあれよという間にてこの原理でもって担ぎ出され連れ去られまして」
「ああやっぱりそれぐらい手荒にさらってきたんだおじいちゃん……」
別に驚かないけど。
「電光石火の勢いでかっさらわれた身でありながら、真に鮮やかな手並みで……」
「そんなしみじみ言われても」
「心の底から申し上げますが、あれほど豪放な方はそうおられません。誇って然るべき祖父君です」
うんまあぶっちゃけ「そうおられ」ない辺りだけはよく言われるけどありがとう。
「そうしてようやく貴女に出会います。貴女もまた私に、ただの畜生に過ぎない私に出会う。祖父君の印象の強さにおいては、比べ物にならないほど些細な邂逅でした。貴女に至っては稚いあまり、記憶が定かでなくとも無理はない」
「……っ」
至近距離で、せめてもの抵抗に俯けた私の後ろ頭に落ちる吐息にどこといわず肌が粟立つ。余力で過去をなぞるも、甘ったるいような感慨をやり過ごすのに精一杯で口にできなかった。『そんなことない』と。あんたが来た日のことは、どんなに小さい時のことでも覚えてる。
道に転がってたからよ、とのたまうおじいちゃんが押す台車に乗ってた。あらあらまあまあ、と母さんが口に手を当てて呟いた。それだけ。それだけであんたは我が家の一員になることが決まった。そんな成り行きに等しい、家族だから通じる合図を、四歳の私も理解していた。
覚えてるわよ、私その日にあんたの甲羅に乗ったんだから。我ながら大はしゃぎだったんだから。その日からあんたは家族だった。今の今までずっと。
「ここでの十数年で安寧は極まった」
だんだん独り言めいてくる。敬語っていうヴェールをひっ剥がすと尚危うい声。いや違う。危ういのは私の鼓膜だ。
「私の来し方の永さにも例のない安らかさ。家という拘束に対しては食物の供給があり、しかし甲羅への張り紙という条件下にさえよれば散策の自由もある。ここは大層居心地が良かった」
私は日ごと欲深に。
ため息のような呟きが置いた間はごく短い。覚えていますか、とまた唐突に切りだした。何を、と問い返すために上げた視線がついにかち合う。もうどうにでもなれという気分で、それでも跳ね上がる心臓があった。逃げ道がないだけにいやになる。
「――昔、この家に通っていた兄弟猫を覚えていますか」
「……猫?」
「十年ほど前になりますが」
兄弟猫、
「ってあの……」
事故で。惰性のまま滑り落ちてきた言葉が自ら胸を突く。
「……、……庭によく来てた仔たちのこと?」
「そう」
あれは私が外へ散策に出た折、目をつけた野良を庭に呼んでいたのです、とカメは言った。ネコ科の若い者を見ると、御主人様は殊のほか喜ばれたから。
ネコ科の若い者って、とツッコみたいのにできなかった。おぼろになった記憶の彼方、胸苦しくなるほどいとけない二匹の仔猫が見える。見えるのに、その毛色や顔立ちはとうに掻き消えてたどり着けない。ただ小さくて、ふわふわしていてあたたかかった。
どうしてそれを見たかも覚えていない。ただ確かなことには、その兄弟の一匹は轢かれて死んでしまった。流れた血が湯気を立てる。常にじゃれつき寄り添っていた兄か弟かそのもう一匹は、『どうしたの』というように小さな前脚で片割れの身体をつついて――
「覚えていますか」
目の前を横切った記憶の残滓から我に返ると、瞬時に視線を吸い寄せられて、鼻先に黒い瞳。
同じ額が合わせられる。ぼやける程の距離で、薄い唇が動いているのだけがわかる。
「兄猫が死んで、弟の方も行方を眩ませて、御主人様はひたすらお泣きになりました。大旦那様も弱ったとみえて、こちらへ来て十余年、あれほど磊落な方の困り顔を見たのはその一度きりです。実際、小さな者の喪失に心を痛めて貴女の泣くさまはいじらしかった。そして私に仰いました。当然まだ畜生に過ぎない私に、お泣きになりながら」
(……ねえ、カメは長生きなんでしょ? ニンゲンよりずっとずっと長生きなんでしょ? おじいちゃんが、いってたの。
それなら死なないで。ぜったい、わたしより先に死なないで……。)
……喪失に竦んだ足元を、確かに覚えている。
悲しみはおそろしかった。走って逃げて遠ざけようとしても、涙に変わって内側からまた苛む。悲しみそれ自体が辛かった。
それを癒すためになりふり構わない。幼い子供はそういう残酷さをもっている。今だから、その無垢がわかる。
「……傷つけた?」
初めて冷静に聞き返した。相手は又笑んだようだ。近すぎてわからないけれど。
「……孫娘を慰めるために、祖父君が長寿の象徴である私を引きあいに出したのは無理もない。まさかそれを責めるわけではない。けれど幼い貴女の言葉は、きっぱりと私の安寧を切り裂いた。私は平和のあまりに思い知ろうとしている。貴女が経験したのと同じ喪失が、私の前にも立ちはだかっていることを。寿命の違いのために、猫は遅かれ早かれ人とすれ違う。それと全く変わらぬ道理で、私もいずれ貴女を失うことを」
喪失を思い知る。平和のために。極めた安寧に慣れたために。そういうことだろうか。
「この家の喧噪と団欒に、気立てのよい方々ばかり、想像するだに喪失は堪え難い。しかしこの家のどなたも、私がそう思うことをご存じない。私が亀に過ぎないから――だから、私は人になりたかった」
戯言に等しい願い事に、神の使者が夢路に立った。人の姿を望めば、まさかのように聞き入れられて。
そうしてこの奇想天外な生き物は私の前に現れたのだろうか。
「……ひとたび人の姿を手に入れたなら、私は死ぬまで人でいたい。寿命をお返しすればその望みが叶う。私にはそうとわかっていた……。御主人様は、生きとし生けるものはそれぞれそれらしく生を全うするべきだという考えをお持ちだ。自ら寿命を削る私の所業が好ましくないと思われるでしょう。それもまたよくわかる……。しかし私は人として残りの時間を全うしたい、貴女の傍で。そう望みたい。神の御前にて、尚許されるなら」
――神かその使者か、どちらにせよどうして一介の元爬虫類の見目形をこうも整えてしまったのか。低めるほどに背筋を撫でさするような、甘美な声をなぜ与えたのか。霊的な長寿を誇ればこそ、見合う贈物なのか…………
「…………………………あんた今何した?」
「……口吸い」
だからいちいち語彙がやらしーんだあんたは。
「~~~~ったくもう……っ」
呪縛が解かれたようによーやっと胸を押して距離を取って(でも膝からは降ろしてくれないぎゃー)両手を覆って唸った。部屋とっくに暗いからわかりゃしないはずだけど気分よ気分なの。
もしかしなくてもソレってそーでしょそーなんでしょあんたよくもこんな小娘にこんなとこでこんなカッコで。
「――即答し辛いわ!」
「お待ちしております」
「しれっとゆーなそういうこと! わざとか!!」
「ご想像にお任せします」
あああもうこいつは。
この短時間でものすごいくたびれた……。
「……あんた、夕方まではばっちり爬虫類だったじゃん、『人になったら』ああいうのも無くなるの。人の姿とったり亀になったり」
「おそらくは一両日中に、神の使者が御主人様の夢路に立たれます。そして神託が滞りなく済めば――」
「あんたが名実共に人になる、と」
……そっか、と相槌を打ったとき――はるか昔に死んだ仔猫がふいによぎった。
覆いかぶさる別離の痛み。癒しがたいそれを思い出した瞬間、涙腺を巻き込んで体が弛緩した。
ぼろり、涙がこぼれる。ぼろりぼろり、大粒がとめどなく。
これほど前触れなく、スイッチを押したように唐突に流れる涙は初めてだ。
なに、私どうしたの。
我ながらわけわかんなくなりつつも、私はただ目の前の爬虫類に、目の前で約束ぶった切って申し訳ないと思った。
筋張った指の背がそっと頬に押し当てられる。涙を拭うでもないその動作は、ただ温いしずくを受け止めている。紛うことなき人の手。
現れた経緯は奇天烈極まる、けれど確かに人だ。この家の敷地外でこの男を爬虫類と呼んだら、変人呼ばわりされるのは私の方。その汚名を返上する機会はなくなる。――『カメ』はいなくなる。死とは異なって死と同等に、永久に。
涙の理由に辿り着けば、途端に言いようのないものがこみあげてくる。そうだ。目の前にいる男は今に新たな名前を手に入れる。夢には使者が立つ。もうすぐお別れなのだ。物言わぬ無表情、四つん這いで歩く爬虫類の『カメ』とは。懲りずに瞼が震えて、ぼろり零れる。
「……悲しいですか」
「……か、なしくは、ない」
嗚咽を噛み殺す代わりに声がひっくり返ってしまうけど、断言する。かなしくはない。たださびしい。なんか、無性にせつない。
カメは当てた指の背を裏返すと、涙の筋を薄くのばすように目の下の柔らかい皮膚を撫でた。ついで大きな手で頬を包む。微妙な力加減で上向かされると、直前奪われたものを思い出して体が怯んだ。
けれどただ、降るようにやさしい視線だけ。
「本来の摂理に従って私が負うべきだった喪失は、貴女に負って頂いた。半分だけ」
「……はんぶん?」
「私を失い、代わりにまた私を得る。だから半分」
懲りずに、抱き寄せられる。今度は初めて私からもしがみついた。投げやりと諦め全開で抱き返した体温は、ため息が出るほど心地よかった。
涙腺がこわれてしまっている。私はあの爬虫類に過ぎないカメがすきだった。十年以上もの間そうに違いなかった。そして数ヶ月前の革命の日からここまできて、姿形を変えてしまったこの男すらも――
「……十三年、大事にして頂きました。慈しみ、家族同様に扱ってくださった。感謝しています、心から」
ああ、音が振動って本当だな。
より触れ合って抱き合えるように、腰を引きよせ背に腕を回し、なお足らないとばかり額を押しつけた肩口。くっついたところから、後ろ頭がじんわりする声が直接響いてくる。
「しかし、畏れ多くもそれだけでは足らなくなった。――お計らいあって、このように姿を変えました。姿で足らぬなら、それ以上にこの世になじめるよう努めましょう。大旦那様のお眼鏡にも適うように致しましょう。ですから」
耳元に落とされた呼びかけに、全身の肌が粟立った。それは、御主人様、なんつうマニアックな呼称ではまさかなかった。ただ、その声で呼ばれることがこれほど心臓に堪えるなら、マニアックな方がよほどよかったと心底思う。――名前だった。正真正銘、初めて呼ばれる、私の名前。
「――どうか、私の伴侶に」
…………それについて私がどー返事したかは置いといて。いや何と言われようと置いとく。
長い腕の中、間違いなく茹ったようになってる顔を伏せつつ、私はずっと気になっていたことを聞いた。
「……あんたが爬虫類から人間にバージョン変えするとき、毎回服をちゃんと着込んでいるのはナニユエ……?」
「仕様です」
マジで。
まあこういうことであれがそうなり、すったもんだで夜が来て。
私は夢を見ていた。
オフホワイトのもやもやとした視界は以前と変わらず、けれど今回はちゃんとコンタクトを取っている、という認識があった。
容姿の印象も変わらない。ひらひらばさばさ長ーい白い衣装を身に着けた、とっぽい感じの若いあんちゃん。みため、人間Ver.のカメの外見年齢と変わりない感じ。
対峙するように、真向かいに私がいる。
今は夢のさなか。ここは夢の路。私の前に立っているのは、畏れ多くも有難くも、神の使者。
あの元爬虫類の言葉を信じるなら、これから『お告げ』を賜ることになっている。……多分。
「――よう、小娘」
「……どうも……」
えーとこの場合、ははーっ、て感じで土下座とかした方がいいんだろうか。どんなにざっくばらんでもえらい人っぽいし。
「よけーな気を回さんでよろしい。じいちゃんばりに堂々としてろ」
そればっかりは孫といえども無理です。
そういやこの『お告げ』、おじいちゃんと母さんはとっくに受けてるって言ってたな。妙な家族ぐるみ。
「まあ立ち話もなんだ。座れ」
「えーじゃあ、失礼しまーす……」
胸元までくるくらいものすごいスモーク(?)だけど、座れるんだろうかコレ……あ、大丈夫だ。濃すぎる煙幕に見えない地べたは、干した布団みたいにふかふかしている。あまりに非現実的で勝手がわからないけど、ひとまず正座。神様のお使いこととっぽいあんちゃんも腰を下ろし、どっかりと胡坐をかく。
「何言ってんだ小娘、非現実なんざとっくの慣れっこだろうが」
「ええとまああの爬虫類のおかげで……。ていうか私の思考駄々漏れなのね、さっきから」
「夢だしな」
夢だからなのか。神様云々だからじゃなくて。
「そりゃもちろん上司のことも含むが……あーそのあたり色々説明めんどくせえー。ったく本当ならようここにお前のじーちゃんかーちゃん最後に肝心なお前並べてずばっとさらっと一度で説明して終わりにしようかと思ったのによう! 年頃の小娘が青臭く右往左往しやがってここまで待たされたっつうの! 人間の分際でこの俺様を弾くな!!」
弾いた覚えはないんだけどゴメンナサイ。
「まあ今日のよき日にやっっとお前ら二人がしっぽり落ちついたからこそ俺がここに来れるわけなんだがな」
「落ち着いてない落ち着いてない断じて」
ていうかしっぽりって言い方がやだ。
「しかし何だあの甘酸っぱいコント、超むかついたぞ」
言いがかりだ。
「ていうかこっちも神様サイドには言いたいことが山ほどあるんだけど……」
「神様サイドってお前な――まあそういう場合のための『お告げ』だからな、この場は。質問には可能な限り答えてやる」
へえー割と親切な。『お告げ』ってすごく一方的なイメージだったけど。
「カメも言ってたろ、『事前説明会』だって」
「ああなるほどそれじゃあ………………………………爬虫類が人間に変身(逆も然り)するメカニズムは一体どうなって」
「黙れ小娘。狐女房だの雪女だの鶴の恩返しだのに今さら茶々入れる気か夢がねえぞ女子高生」
「そんなこと言ってない……」
じゃーそれは置いといて。まずその一。
「あいつどうしてあんなにカッ飛ばしたイケメンなの」
未だにすっっっごく困るんだけど。心臓的な意味で。
「幸せな悲鳴ってやつじゃねえか。あいつの容姿に関しちゃ爬虫類時代からの引き継ぎだよ。地だ、地。馬だって鼻筋がすっとしてんのが美しいとか言われるように、あいつも亀としちゃ雌がほっとかねえ美丈夫だったんだよ。素地をそのまま活かした方が変化させるこっちだって楽だし、何より」
と、とっぽいあんちゃんはここでちょっと人の悪い笑みを浮かべて。
「『人間になりたい』っつっても、どのみちとっかかりでお前をオトすことになるんだから、その方が好都合だったろ?」
聞かれても困る。
その二。
「……じゃー、じゃーじゃーじゃー、外見はわかるにしてもあの声はナニ!?」
俄然前のめりになる。あれこそ困るほんと困る。無駄に色っぽすぎる!!
「イイ声じゃねえか」
「いやイイ声だけど」
それは認めるけども、聞くたび表皮がざわざわしてちゃ落ち着かない。
「ありゃあ、オプションでな」
「オプション……」
「姿形がよかったから美男子にしたしデカかったから背高にしたし、外見はほとんど標準装備だから変化は楽でなー。いじろうと思えばいじれるから、これ以上寿命も取らんから他に望むことはないか、と聞いたら」
と、ここでまた品のない薄ら笑み。使者はずい、と顔を近づけて、この霧の世界に必要があるのかと疑問を覚えるほど声量を絞って語り出した。
「鶴亀の片割れだけあって、あいつの来し方には浅からぬ歴史があってな。あれで人の機微にはよっくよく通じてるんだぜ。そういうもんを養った経緯の一つに、ある富豪の屋敷に道楽で飼われていたことがある。主人の寝間のちょうど隣でな」
「……ねま」
「そこで見聞きしたもんが、大いに参考になると踏んだんだろう。奴さん大真面目に言ったぜ――男が寝所で女に囁いて落とすような声が欲しいとさ」
ぶぁっっ……ちょ、思わず吹き出した。
「――馬鹿かあいつ!!」
「馬鹿なもんか。初心な小娘にゃ覿面だ」
ほれこの通り、とほくそ笑みながら指をさされる。煙立ち込める地べたに崩れ落ちて頭を抱える私。最近こんなんばっかじゃないか私。うああ分かっていたけどどこまでもとんでもないわあの爬虫類。
深く考えるほどどつぼにはまるからもう次、その三。
「…………爬虫類が人間になりたがるなんて突飛な願いをどうして叶えたの」
いや別に今さら文句を言うわけではなくて。
ただ、心底不思議だったの。
神様なんつう超自然的な存在を信じるにせよ信じないにせよ、願いなんて、星の数ほど祈り上げられるはず。
人間とチンパンジーは遺伝子にほとんど差がないという。哺乳類は夢を見るそうだ。動物にさほど詳しくない私でも知っている。人間でないというだけの多くの生き物たちは、あらゆる可能性を秘めているかもしれない。自分では到底叶えられない願いを強く思って、神に託すこともあるかもしれない――けれど。
どうして一介の爬虫類のそれに限って取り上げて、叶えてしまったのか。
「――わからんね」
神の使者は即座に、静かに断ち切った
「あいつの望みを拾い上げたのは上司であって俺じゃねえ。命を短く終える者の定めを、あいつが返した寿命を使って引き延ばすことができりゃあそれも徳を積むことになるかもしらん。それを善いとも悪いともいわん、そもそもあの亀は善行を積むために寿命を返したわけじゃねえ。長すぎる行く末を、どう使うべきかと思案した挙句の願い事だ。確かに時代も変わって、長寿を単純に有難がる時代でもなくなったが……わからんね、上司の意思なんぞ。俺に聞かれたってよ」
よいせ、と存外オヤジくさい掛け声と共に立ち上がる使者。
「結局、人になってどうこうつったって、お前がいなきゃ始まらんと本人が言うんだ。上司もそれを認めて残りの寿命を引き取って、代わりに人の姿を与えたんだ。俺が口を出せることじゃないね、使い走りとして雑用に走り回るだけさ。俺がここにいるのはそのためだ。――その俺が見聞きしたことだからこれだけは唯一言えるが、あいつはお前を待っていたから何ヶ月もどっちつかずだったんだよ、お前が腹を決めるまで。……世にも稀なる生き物には違いねえ、なんたって神のお墨付き。芯の通った美丈夫だ、食いっぱぐれやしねえだろ」
「何の話デショウカ……」
「今さらわかりきったこと聞くんじゃねえや、本人からじっくりしっかり思い知らされろ――しかしお前細かいこと聞くんだな、じいちゃんや母ちゃんはそんなこと聞かなかったぞ」
細かいかなあ(特に三つ目)。そしてとても今さらだけどうちのおじいちゃんと母さんはほんとにすごいな。
頭が高い、と怒る相手でもなさそうなので私も倣って立ち上がる。なんとなく、話が切り上げられそうな空気になっていた。何かの演出のようにもくもくしまくっていたスモークも、どこかよそよそしく離れていく。
「戸籍やら何やら書類事務関係は母ちゃんに一通り話しといたが、お前聞いとくか」
「うーん……聞いてもあまりわかりそうになりから、いいや」
「年齢だの続柄だのはじいちゃんと『これくらいでいんじゃね』って感じで適当に決めといたがいいか」
「カメがそれで文句言わないんなら別にいいけど……」
「それと学歴な、この国じゃあまりおざなりにしておけねえし、外見年齢もあれだしで迷ったんだが。本人の希望で高卒までやっといたから。なんか自分で大学行きたいらしい」
「ああもう本人がそれでいいっていうんならそれで……」
「あと他に聞いとくことはねえのか。母ちゃんすごかったぞ、名前の画数とか字面のバランスとかものすげえ真剣に聞いてきたぞ。管轄外だったんでスルーせざるを得なかったが」
えらく人の良い母ちゃんだったからなんか悪かったな、ととっぽいけど気さくなあんちゃん。もとい神の使者。たまに扱いづらいマイ母を気遣ってくれてありがとう。私は名付けに参加してないからそれもまあいいや。
「聞くことは特にもう無い……けど」
けど。
「……これで、終わり? ほんとにほんとにドッキリとかじゃない? これでカメは……」
「人になる。これから事務手続きも滞りなく進める。お前が口を挟むことがないっていうなら、今に手筈が整うからな。並行して奴の亀としての器も回収する。間もなく奴は完ぺきに人になる。腹決めろよ、小娘」
それは、何に対して?
そう問いかけても「自分で考えろ」とつっぱねそうなその相手は、今にも撤退していきそうだった。遠ざかり、薄まって、けれど同時に私の視界を白けさせていく煙幕の具合がそう知らせていた。夢路の末端が、眠りの淵に届こうとしている……けども悪いタイミングってあるもので、私は急に思いついた質問を口に出さずにはいられなかった。
「そういえば神様神様いってたけど、具体的にどの宗派――」
「うるっせーな終業時間はとっくにオーバーしてんだややこしいこと聞くな! 神託は以上だ、手当なんかつかねえんだから俺はもう帰る!! ――精々むな焼けするほど甘酸っぱく達者で暮らしやがれ、じゃあな小娘!」
ついに、乳白色に染め上げられた視界が霧散する――そして、全く眠った気のしない朝がきた。
「…………今に人になれるってよ」
朝日の差し込み始めた部屋、ベッドサイドに寄り添うように眠っていた大きな爬虫類がうっすらと目を開ける。寝転んだまま、寝起きのせいか変に重たい腕を伸ばして甲羅に触れた。ごつごつしていて、快いほどひんやりしている。年を経るほど、甲羅の模様は目立たなくなっていくらしい。小さい頃はここに乗って、大きな紙を貼り付けて、一心不乱にクレヨンで塗りつぶして甲羅の模様をあぶり出したっけ。面白い模様だっておじいちゃんが喜んだ。あの紙どこやっちゃったかな。
私の手すさびに慣れっこのカメはどうってことなさげに、程なく又眠り出した。その寝顔は可愛いと思う。そして急に貴重に思う。ふいに、写メでも撮っとこうかと思い立つ。見納めだし……ほんとにほんとに、そうなるし。
携帯どこだっけ、とベッドから起き上がろうとして、猛烈な眩暈に襲われた私はそのまま勢いよく枕に突っ伏した――そこからの記憶があまりない。母さんの話だと、数時間の内に高熱を出したらしい。唸り喘ぎながらとにかく深く眠りこんで、二日も三日もろくに起き上がらなかった。カメはその間にすべての手続きを済ませて、正真正銘の人になったらしい。
そうして私の目覚めを、ずっと待っていた。ベッドサイドに低い丸椅子をひっぱってきて、腰かけてずっと。
数日ぶりの身軽な目覚めのせいか、見降ろしてくるその青年の瞳の色やら面影、何となしの所作が、ぐんと現実味を帯びたように見える。何の錯覚だろうかと寝ぼけた頭で考えて程なく、「半分」のお別れが曖昧に過ぎていってしまったことに気付いた。
写メ撮り損ねた、と呟こうとして、がらつく喉に半身を折り曲げて咳込む。すぐに背中を撫でてくれる大きな手に安堵しながら、こればっかりは誰にも照れずに億さずにきっぱり言える、と唐突に思った。私はあの爬虫類が好きだった。大好きだった。背にある手の持ち主とはまた違う意味で。けれどその微妙なところを理解してくれるのは、おじいちゃんと母さんと、あとは本人ぐらいだろう。
家族がいてよかった。本当によかった。咳に混ぜ込んで、ちょっと泣いた。
それではこれにて。
「下がったわね。もう大丈夫ね~」
私の額に手を当てて、母さんはにこにこと断言した。母の言葉には言霊があって、こう言われる本当に体が楽になったような気がする。これでやかましくせわしない神託は終わったと、奇妙な確信があった。
「カメちゃんねえ」
母さんは何気ない調子でのほほんと切り出す。
「背中の甲羅の模様、消えたのよ。わたしとおじいちゃんに見せてくれたわ~」
「……そう」
そうか。そうだろうな。
「おじいちゃんと延々話し込んでるの。これからどうするとか、カメちゃんにも展望はあるけどまだまだ不案内だとか」
展望。
「カメちゃん見た目ハタチ越えてるじゃない。早めに社会参加も視野に入れなきゃなのよねえ」
「……現実的な話ってどんどん先に進んでくんだね」
「あらー当り前じゃないのー。生きるっていうのは、それぐらい忙しいことなのよー」
カメは……まぁもうカメじゃないんだけど。とっくに新しい名前がついてるんだけど。まだちょっと、馴染まない。
ひとまず、慣れないうちはそう呼ぼう。
カメはカメなりにこれからの方針がある、といった。
不案内な世の中に飛び出していくために、おじいちゃんに先導を頼んだ。破天荒な人選は、むしろその方がいいと断じた。指名された世話役が豪快に笑いながら引き受ける。
人の容姿、声すなわち言葉、長い手足をも手に入れて、どこにでも行けるようになった。持てる知識を生かせるようになった。やりたいことに知りたいこと。これで並々ならぬ長生きだから、記憶と照らし合わせたい書物も山ほどあるに違いない。相変わらず感情の読み取りづらい表情でも、明らかに気が急いているのがわかった。
「考えただけで目が眩みます」
見るともなく先を見て、呟く。
「生きることに、これほど急ぎたいと思ったことはない――」
一枚の用紙を囲んで、家族三人と元爬虫類がお茶をすすりつつ団欒する。早くも市役所から取ってきたという戸籍謄本。どうやって作ったんだろう。
「スッと忍びこんでサッと差し込んできたんじゃねえのか」
と、おじいちゃん。そんなコソ泥みたいなことするかな仮にも神の使者が。それに最近はパソコンで出力するんじゃないのかなあ。
「請求するとき身分証明書とか必要じゃないの?」
「……免許証の交付がありましたので」
「そうなの、お使いの方がご親切にねー」
世にも稀なる神通力による偽造公文書を前に、へーと相槌を打った。打つしかなかった。もういいや何でも……。
「しかし『ペーパードライバーも甚だしい』ということにしておけとの達しがあったので」
「うん乗るな。頼むから」
あんた半年前まで時速数十メートルかそこらだったんだから。体感速度の桁が違う。
自分のですら見たことないのに、元爬虫類の戸籍謄本を見るとは思わなかった。初めて手にする文書をまじまじと見つめる。名前はおじいちゃんが決めたっていってたっけ。姓もうちと違う。あー、ちゃんと続柄とか年齢も決めたんだ。ってそりゃそーか。
「――……そういやあんた、自分の年齢わかってる?」
もちろん人間の方の。
「…………」
そんな眉間にしわ寄せてまで悩む顔は初めて見た。社会に出る前にまず自分の設定覚えなさいよ。
やりたいことは山ほどあるようだったけど、ひとまず自分の年齢や生年月日、身長体重あと血液型と星座あたりは言えるように、と宿題出したら早速渋い顔をされた。あのねえ人間っていうのはその程度には自分に関心があるし、人と話すときそういうのを話題に出したりするもんなの。
ていうかあんたは絶対この先色々つっこまれるからな主にそのルックスのせいで。
「……まーとにかく」
がつがつせずに、のんびりやれば。
姿だけでなく、人として『この世になじめる』まで。あとおじいちゃんのお眼鏡に適うまで、だっけ。
「――言っとくけど私はね、昔あんたと一緒に散歩したこともあんのよ。時速数十メートルかそこらの散歩よ? 我ながらよく付き合いきれたもんだわ。そういうわけで歩みののっろーいあんたが追いつくまで待ってるのなんて慣れっこだから、のんびりやれば」
だから私は大丈夫。
待ってられる。
それなりに覚悟決めて言い放った私をじいと見下ろして、カメは「……できる限り努めましょう」と静かに言った。
「遠からぬ内に辿り着きます。なるべく急いで」
「人の話聞いてた? あんたのペースでゆっくりやればいいって言ってんの」
「お言葉は有難いのですが――私の方がそれほど長く待てるかどうか」
知ったことかそんなの。
あーあと外で『御主人様』とかマニアックな呼び方したら即座に他人のふりしてやる。
……かと言ってそう頻繁に名前の方で呼ばれてもまた別の意味で困るんだけど。まあ、それはおいおいとね。