点つなぎ
「すみません、ちょっとあそこの角持ってもらえますか。」
晴明の腰程度の高さの衣装箪笥。新刊の印税で買ったものだ。
晴明ひとりで持ち上げるには少々重いため、晴明は茜を大きな声で呼んだ。すると、茜は、はい、と短く返して小走りにこちらにやってくる。
茜が良い具合に掴みやすいところを見つけたところで、
「せーの。」
と声をかけ、部屋の隅に運んだ。
晴明は、茜が駆け寄ってきた辺りから、不安でならなかった。茜の筋力の心配などしていない。むしろ、30と幾年か運動不足の晴明より、よっぽど力があるだろう。
晴明が不安に思ったのは、もっと別のことだ。
茜が駆け寄って来たとき、晴明は何とも思わなかった。怖い。いつの間にか、茜がいることが当たり前になっている。むしろ、今まで茜がいなかったと言われても、いまいちピンとこない。それが、恐ろしかった。正体も良く知らない彼女を、自分はいつの間にか受け入れていたのだ。その事実に、晴明は慄然とした。
茜は、何のために、いや、本当に彼女は茜なのか。『木枯らし』は、読んでしまうとより茜を身近に感じてしまいそうで、読んでいない。やはり、読むべきだろうか。
畜生、どうして俺は自分で書いた話を忘れるんだ。完璧に覚えていたら、こんなに悩まなかっただろうか。
「あの。」
晴明は、スウェットを軽く握る。茜は、ゆるく微笑みながら振り返った。
「あなたは、何のためにここに、来たんですか。」
舌が回らない。ちゃんと伝わったろうか。伝わってなかったら、もう1度言わなくてはならない。ああ、何て恐ろしい!
「わかりません。」
茜は、はっきりと答えた。晴明は続きを待ったが、それきり茜は何も言わなかった。
わからない。
それなのに、ここにいて、自分は茜だと言っている。ドーム規模の言葉遊びを目の前でされている気分だ。
「あなたのいた世界と、今あなたがいる世界は違う。そうでしょう?
わからないなら、どうして自分は茜だなんて言うんですか。」
晴明は、苛立って言った。どうして俺には災難ばかり降りかかるんだ、というように。
「ええ、そうです。
私だって、元からこの世界にいたのか、どこかから来たのかわからないんです。
晴明さんにはわからないんですか!?
全く身近に感じられない誰かの記憶がある怖さが!」
茜は、肩で息をしている。その剣幕に、晴明は次の言葉を見失っている。
ただ、ごめんなさい。とだけ告げた。
自分のエゴイズムで、人を傷付けてしまったのだ。ふう、と息を吐いた。さっきから口に入ってくる息が、重々しい。
晴明は、淀んだ空気の流れる居間を抜け出し、自室で胡座をかいた。そうして、茜の言葉について、熟考する。
どうやら茜は、今の姿のままポンとこの世に生まれ落ちたらしい。それがどこの世界かは分からないという。だから、自分が茜である、ということに、本人も確証がもてていない。正直言うと、きっと茜に乗り移られているような気分なのだろう。
晴明は、「木枯らし」を読むことに決めた。
一行一行、丁寧に読んだ。そのたびに、酷く空しい気持ちになった。
話は忘れていても、その時の心情は、覚えている。いや、蘇るのだ。
「木枯らし」の茜は、茜であって茜ではない。晴明は、今も昔も分かっている。冬の最中、曇ったガラスに描いた絵のように、その姿形は気づけば消えてしまう。涙のような水滴が、洗い流してしまい、元の絵なんて、誰もわからなくなる。
1時間半ほどで、読み終わった。
細く息を吐きながら、晴明は寝転がる。腰が痛い。目もかすむ。
確かに、「木枯らし」の茜は、晴明と加藤と男は違えど、大体同じような人生を辿っていた。だらしのない加藤の世話を焼き、公園で犬と戯れる。お節介な近所の人こそいない。が、点線の上をなぞる様に、茜は動き続けている。そして、晴明は読む前から強烈に頭を巡っていた結末を反芻した。
「木枯らし」の茜は、死ぬ。
病院で加藤に見守られながら、それはそれは幸せそうな笑みを浮かべて。
今、居間でぶうたれている茜も、死ぬのか。今までが、偶然なのだろうか。途端に恐怖がぶり返した晴明に、ある妙案が浮かんだ。