空白のまんま
さすがにまずいな。と、晴明は思い始めた。茜が来てからというもの、全くと言っていいほど原稿に手をつけていない。
締切は1週間後。原稿の進み具合は1/4。
呑気な晴明も、さすがにこれには冷や汗をかかざるをえない。
自分が書いた原稿を読み直してみる。何だか面白くない。どんな話を書きたかったか忘れてしまったし、これも売れないだろうなあと、心のどこかで思ってしまっている。
綺麗事、一般論を並べ立てれば売れるのは分かっているのだ。それから、ヒロインやら、犬が死ぬとか、長年の恋が実るとか。しかし、残念ながら晴明は犬を飼ったことはないし、長年の恋なんて晴明にとって憧憬でしかない。
最初から書き直そうかな。と、晴明は原稿を丸めようとする。クシャッという音が響いて、その手を止めた。なんだか、とてもいけないことをしている気がしてくる。卵を握りつぶしたような、気持ちになった。
どうせボツにするなら……。
「あの、これ、読んで感想聞かせてくれませんか。」
晴明は、茜に原稿を渡した。
邪道な気もするが、暇つぶしに晴明の本を良く読んでいる茜なら正直な感想をくれるだろう。
茜は、暫く黙りこくったまま数十枚の原稿を見つめ、最後の1枚に辿り着いた。
「そうですね……。
初見さんお断りっていう感じがします。」
首を傾げた晴明を見て、茜は続けた。
「晴明さんの作品を1度も読んだことがない人は、とっつきにくく感じるかもしれません。」
なるほど、と、晴明は呻く。
言われてみればそうかもしれない。柊にも時々言われるので、茜の審美眼は正しいのだろう。
これはそもそものファンの数からして多くない晴明にとっては死活問題だ。
晴明は、この原稿を書き直すことに決めた。
真っ白、というよりは少し黄ばんだ原稿用紙に、薄紅色のマス目。
この状態が、一番辛い。書き始めさえすれば、何となくのあらすじが思いつく。そうしたら、そのラストに引っ張るだけ。時々、その方法に迷うだけだ。
もう、いっそのこと、綺麗事ばかり並べてしまおうか。そうしたら、茜にも、もっと楽をさせてやれる。俺だって、もっと売れて、近所のやつらを見返してやりたい。向上心がないわけじゃないんだ。俺は馬鹿じゃない。
晴明は、売れる、そう確約されたラストに向かって筆を進めた。
物語はこうだ。
主人公は、幼少期、飼い犬の死から、獣医という夢へと向かい始める。その中で、同じ獣医学部でアヤカと邂逅する。アヤカは主人公の幼馴染で、主人公は長年アヤカに片想いをしていた。
ふたりが大学を卒業した頃、主人公の恋は叶う。ふたりは結婚し、主人公の動物病院も軌道に乗りはじめたころ、アヤカはガンになってしまう。
主人公は獣医だ。病気のメカニズムなどは分かるが、自分でアヤカを治療してやることはできない。手術中、いくつものトラブルが起き、アヤカはとうとう亡くなってしまう。
主人公は、また大切なものを救えなかった。と、アヤカの遺体の上で喚く……。
売れそうだな。
6日ほど缶詰めになっていた晴明は、満足そうに笑った。
映画化もしそうだな。
主人公役はあの俳優か、アヤカ役は月9に出たあの女優かもしれない。
晴明は、意気揚々と原稿を茜の元に運んだ。
「読んでみてください。
今回は自信作ですよ。」
晴明は、―親しい人にしか分からないくらいに―笑って、茜に原稿を突き出した。
茜は、数日前と同じように目を滑らせ、半分ほど読んだところで晴明に返した。
「面白くありません。」
茜は、随分と不服そうな顔をしている。晴明は、また首を傾けた。
「こういう話、もう見飽きているんです。
それを晴明さんが書いたって、味が変わることはありません。
寿司職人が作ろうが、フレンチレストランのシェフが作ろうが、タコスはタコスです。」
茜は、そう言うと、洗い物の続きを始めた。
シャー。という水の音が、呆けた晴明の耳に届く。晴明はその音のせいで変に覚醒したような、もしくはずっとまどろんでいるような心持ちだ。
ああ、締切じゃないか。
晴明がそれに気づいたのは、数分後のこと。
晴明は、最後の用紙にこう添えて、原稿を出版社にFAXで送った。
「読んだら、感想を下さい。
面白くなければ、書き直します。」
晴明がこんなことをしたのは初めてだ。
出版社の人間と仲良くなりたくない。書き直すほどのやる気もない。しかし、今回は違った。
晴明は、大変な負けず嫌いである。面白くないものは書きたくないのだ。
暫くして、電話の音が鳴った。
はい、と晴明がだるそうにとると、編集者の声がした。
「柊です。鳴海先生、面白いですよ。
締切1日前ですし、書き直しはして頂かなくて結構です。」
「本当ですか。」
こんな言葉を編集者からもらったら、今までの晴明は小躍りしただろう。ただ、元来の負けず嫌いが出ただけだ。
晴明は何も言わず、沈黙をもって続きを引き出した。
サー。という砂嵐のような音がしばらく耳元で続く。
そうしてやっと、編集者が口を開いた。
「そう、ですね。強いて言うなら、ありきたり、と言いますか……。
少し、新鮮味に欠けるな、と……。」
「分かりました。書き直します。」
晴明はそれだけ言うと、電話を叩き切った。失礼かもしれないが。それが何になるだろう?礼儀で小説は書けるのか?
晴明はもう1度机に向かい、初めに書いていた原稿に少し手を加えて、最後まで導いた。
そうだ。これだ。舞台に上がることのない、主人公。それが、俺の相棒じゃないか。
晴明は、誰も死なない物語を書き上げ、出版社にFAXした。