晴明は、やり遂げた!
トントントン。
晴明がほとんど使っていない狭い台所から、規則的なリズムが聞こえる。この音を聞くのは、何十年ぶりだろうか。もちろん晴明が気まぐれに図書館で借りてきては読むミステリーの中での話ではない。現実世界での話だ。
この音が、茜という存在を、より確かなものにしている。晴明には、未だにどうしていいのか分からない。
このまま、ここに置いておくべきなのか。彼女の言う通りに。それとも、ただの戯れ言だと一笑に附し、追い払ってしまうべきだろうか。
「あかね、か。」
それが、本当に自分の描いた茜なのか。そうだとしたら、何故、今……。
晴明は、少し昔を思い出していた。
追い出すの、惜しいな。もし、本当にこれがどうしようもないファンタジーなら。もう少しこのまま……。
「呼びました?」
晴明の眼前に、にょきっと茜が顔を出す。
いや、独り言です……。
晴明は、驚いたことが気づかれないように、落ち着き払って言った。
「晴明さん、私に隠し事してますね?」
茜と、視線が絡み合う。眉は可愛らしい顔に似合わずきゅっと寄せられている。晴明は、小さく笑って、言った。
「ええ、あります。
しかし、あなたにもあるでしょう?
誰にも言えない秘密。
私の秘密は、あなたにだけは言えない秘密なのですが……。」
茜は、絡まっていた視線を外して晴明に背中を向けると、それきり黙りこくった。だから今、こんなにも包丁の音が響き渡っているのだ。そうに違いない。
晴明は自分の部屋の方をぼうっと見やった。
トントントントン。
「痛っ!」
茜が、人参を押さえていた手を反射的に引いた。晴明はその声で我に返り、慌てて台所へ向かう。
「大丈夫ですか!今、絆創膏を……。」
晴明は、茜に近づき、絶句した。恐らく、指を切ったはずだ。
それなら、アレは?出ないのか。血は。
「驚きましたか?
木枯らしの中に、私が親友に平手打ちされるところがあったでしょう。
だから、私には痛覚があります。
しかし、血は流さなかった。
私には、血は流れていないのです。」
茜は、淡々と言った。
その様が、まるで、
「お前のせいだ」
と言っているようで、晴明はそら恐ろしかった。
「でも、痛いんでしょ?
無理はしなくていいですよ。
後はやりますから。」
晴明は包丁をひったくり、茜を居間に押しやった。
晴明は、当然のごとく、料理をしたことがない。家庭科の調理実習の時は、適当な理由をつけて保健室に行った。つまり、猫の手も知らない。
晴明は、危なっかしい手つきで人参を切り終えた。しかし、これは何を作っているのだ?
料理は、出てくるものだ。作るものではない。そんな晴明にとって、今目の前にあるものが将来何になるのか、皆目検討もつかないのだ。
辺りを見回すと、見慣れぬ箱を見つけた。黄色き過剰宣伝。カレーの箱だ。
カレー?いったいどうやって作るんだ?箱に書いていないか……。そう、我らがインスタントラーメンがそうではないか。
案の定、非常に大まかな、カレーの作り方が書いてあった。
要するに、切って、煮る。そういうことだろ?
晴明は、早速作業にとりかかった。
なるたけ、バレないように。こんな、無様な鳴海晴明が。
恐らく、常人より、時間はかかったろう。茜の不機嫌な顔が、そう物語っている。しかし、晴明はやり遂げたのだ!
実に長い戦いだった。
晴明は、カレーライスが嫌いになりそうだった。
「で、出来ました……。」
「あのう、晴明さん……。」
茜は、おずおずと言った調子で続けた。
「私、お米炊いていないんです。」
さあ、晴明よ、今度は炊飯器と戦うのだ!