ファンファーレ
眠っているうちに寝返りを打ってしまったらしい。いつの間にか、左側を下にして寝てしまった。おかげで左肩が鈍痛をあげている。
「いててて……。」
晴明は腕をぐるぐると回しながら起き上がった。
こういう日は、全身が重だるい。コーヒーを飲むのすら面倒だが、頭もしゃきっとしないので軋んだ音を立てそうな腕を動かして、流し込んだ。
「ふぅ……。」
時計を見ると、もう午前10時である。頭がぼうっとするのは、寝過ぎもあるようだ。
いっそ二度寝してやろうかと思ったその時、電話が鳴った。
「もしもし……?」
晴明が言うやいなや、聞き慣れた声がマシンガンのように聞こえてくる。
「ああ、もしもし、鳴海さぁん?
例のアレできましたからねぇ、取りに来て下さい、では!」
ガチャ。
柊は用件人間だが、それにしても早い。もしかしたら、彼には別件もあるのかもしれない。
晴明はこんな日に急いで支度しなければならないことにぶつくさ言いつつ、箪笥から洋服を引っ張り出した。
今日は数日ぶりに気温が高くて、うざったいほどの晴れ模様だ。それでも晴明は早歩きで進んでいる。じんわりと汗が浮かんで、薄手とはいえ長袖を着てきたことを後悔した。
「今日は曇りだと思ったんだけどな……。」
晴明はバス停に誰もいないことをいいことに、独り言を呟いた。バスが、晴明が気づかなかったほど静かに止まる。
出版社の前に来ると、ズボンを叩いて埃を落とし、咳払いをして踏み出した。やはり、ここは一種の聖域のようで緊張する。
エレベーターを待っている間も、脈がいつもより早いのを実感する。これはただ緊張だけではない。うずうずしているのだ。早く、早く書いてしまいたい。出版してしまいたい。そうすれば、もう一度、きっと出会えるから。
「ああ、鳴海さぁん、お早いですねぇ。」
柊はやはりデスクで何やら打ち込んでいる。
そして先日の衝立を右手で示して、それから手のひらを向けた。あそこで待っていて下さい、ということだろう。
晴明は衝立で囲われた中で、足を空中でじたばたとさせながら柊を待った。この時間がじれったくて仕方ない。柊がせっかちになるのもわかる気がする。
「あっ……えぇ、お待ち頂いてる間、コーヒーでも……。」
晴明がかなり派手な貧乏揺すりをしているのを目撃した女性社員は、一瞬たじろいでコーヒーを置いた。
「どうも……。」
晴明は足を止め、小さな声で答えた。
「お待たせしました。コレが、例のブツですねぇ。」
柊はそう言って、持ち帰りやすいよう封筒に入れた草稿を渡した。
「鳴海さんらしくないような、鳴海さんらしいような、変な感じがしましたよぉ。」
柊はコーヒーを一口にあおって言う。
晴明は、はははっと頷いて笑い、私もそう思います。と言った。
「出版は、いつ頃になりそうですか?」
晴明が聞くと、柊はまた手を上げて制し、デスクに紙を取りに行った。
「えー、ドラマの放送が……。6月を予定してます。
ほんで、それに合わせる形でできりゃあ出したいので、まあ早くても5月の末でしょうねぇ。」
柊は、晴明が急いているのに何となく気づいている様子だ。
晴明は後頭部を何度か掻き、まあ、その。と言う。
「間に合うように、直してきます。」
柊はうなずき、晴明を値踏みするように見た。だが、何も言わない。
晴明は生唾と一緒にコーヒーを飲んだ。
「お願いします。来月からは、打ち合わせとかもあると思いますからねぇ。
忙しくなることも考えて、スケジューリングお願いしますよ。」
柊はそう言うと、鼻をぽりぽりとかき、仕事に戻っていった。
晴明はふぅ、と一息つき、残りのコーヒーを流し込むと、いそいそと出版社を後にした。
「あ……こきちゃん。」
晴明がのそのそと歩いていると、鬼灯荘の前を掃いている深緋を見かけた。深緋は手元からぱっと顔を上げ、また戻す。
晴明は胸に冷たいものを感じた。ひんやりとした朝靄が、胸を覆っている。深緋が、その向こうへ歩き去っていくように見えた。
「どこに行ってたんですか?」
なんともないように聞く深緋。それが、奇怪なものに見える。
「ちょっと、出版社に。」
晴明は軽い口調で答えた。
飲まれてはいけない。晴明の手の平に滲む汗が、警報を鳴らしている。
「外に出るようになったんですね。」
深緋は言う。
晴明はつっかえながら頷いた。
「私も……。見習おうと思ったんです。」
深緋はそう言って両手を広げた。
晴明が鼻をすするなか、深緋は続ける。
「私も、変わらなければならないと思うんです。
いつまでも、高校生のままではいられない。
晴明さんは、それに私より先に気づいたのでしょう。
ずっと部屋に篭って叔父や明音さんのこと、茜さんのことを思い浮かべてもどうにもならない。
まずは、外に出て……。」
深緋と晴明の横を、鬼灯荘の住民が歩いていく。
「こんにちは、大家さん、鳴海さん。」
晴明も深緋も、こんにちは、と返した。
「そしたら、こんな風に、大人になった人たちに出会えるのです。
私は、彼らのマネをして、なんとか追いすがろうと思いますよ。
ええ……彼女のためにも。」
深緋はそう言って、何もない鼻筋を人差し指で撫で上げた。
そうか。晴明が感じた違和感はこれだったのだ。
深緋は眼鏡をかけていない。コンタクトか何かにしたのだろう。
それに……。表情があるのだ。声にも、どこか熱が篭っている。
晴明は脱力して息を吐きながら、小さく笑った。
端から見れば嘲笑したように見えるかもしれない。だが、そうではなかった。
晴明は確かに、その口から祝砲を鳴らしていたのだ。




