いただきますとごちそうさまの間
晴明がポケットの中の鍵をまさぐっていると、金属製の階段を上るタンタンという音が聞こえてきた。晴明の部屋は2階の1番奥なので音の主は特に気にならない。どうせ適当な部屋に入るだろう。
そんなことよりも晴明はどんどん奥にいってしまう鍵と格闘していた。
足音が近づいてくる。晴明はようやく鍵を取り出して、鍵穴に差し込んだ。
それでも足音は続く。おや、と思ってようやく廊下に目をやると、茜が歩いて来ていた。
嫌なところを見つかったなぁ。反応してしまうと余計叱られそうだ。また鍵穴に目をやった。
「どこに行っていたんですか。」
茜が真横に来てしまい、さすがに黙殺もできなくなって晴明が口を開けば、茜も同じように聞いた。
普段はこうして言葉が重なれば笑い合う2人だが、今日は例外だ。
2つ目の鍵が開いた音だけがどうしようもなく聞こえて、2人は黙りこくった。
「とりあえず部屋、入りましょうか。」
優しさもなく晴明が言って、一足先に玄関に足を踏み入れる。
たまにはマンファーストを、なんて。柄にもない冗談を心の中で言いながら。
「これ、お土産です。」
晴明が、居間の真ん中で正座している茜に言った。
質素な生活を幼少期から続けてきた晴明にとって、この白い手作り感溢れる箱に入っているものは2択だ。
ケーキ。もしくは、ドーナツ。
晴明が買ってきたのは後者だ。
墓参りに行った時は、必ずドーナツ屋に行って、ティムビッツを買う。
今までは4つだけー深緋と2つずつ食べる用にー買って帰って、最後の晩餐みたいに机に並んで食べたのだ。深緋は何も言わなかった。いや、何も聞かなかったと言った方が正しい。
深緋はくだらない話ばかりティムビッツを食べながらしていた。
突然止まったドイツ製鳩時計の話、爪が伸びる速さと月が地球から離れる速さは同じだという講釈。
晴明はそのトピックス全てに興味を持たなかったが、深緋はそのことに一切合切興味を抱かないらしい。晴明はそれらをBGMにしながら、不思議と楽しい食事を楽しんでいた。
こんな、カサカサした思い出のはずなのに。幼馴染とのものだからだろうか、振り返ってみれば、その思い出は喜の色で滲んでいる。
「ありがとう、ございます。」
茜はそう言うと8Doughnutと書かれた箱からティムビッツを取り出した。
ドーナツと書かれた箱に入っているものだから、てっきり穴の開いた小麦粉の菓子だろうと思ったのに、茜の指に楽観主義者が無理矢理穴を埋めて作ったティムビッツが挟まっている。不思議に思いながら見つめた。
「私は、お墓参りに行っていました。」
晴明はそう言って1つ目のティムビッツをかじった。
茜は紙ナプキンを箱から取り出し、晴明に怪訝な顔を向ける。
誤魔化しているのだろう。茜はそう考えた。誤魔化すための嘘にしては下品な気もするが。
「誰のです?」
茜がティムビッツを口に放り込んで言った。
すると晴明は、あはは、と小さく声を出して笑って、
「明音のです。あなたが誰なのか知りたくて。聞いてきました。
でも、彼女は何も言わない。
遠くへ行ってしまったなぁって、今更思います。」
と言った。
茜はティムビッツを噛んでいたあごをはたと止めて、晴明の目を凝視する。晴明はそれをまた笑う。
「ごめんなさい。私……。」
茜はそれきり、口を1つ目のティムビッツの咀嚼に使い始めた。
晴明は茜の言葉に何も返さないで、おもむろにコートを脱ぐ。それをそのまま投げておかずに、自室の物置に収納した。
晴明の部屋と居間との間には仕切りがないので、茜はその背中をまじまじと見ていた。
晴明の背中は薄汚いグレー。時々毛玉がプツプツと。ズボンも上等なものではない。晴明はいつもの服にコートだけ羽織って行ったのだ。
この初夏の暑い中を。
茜は何か妙なものを見た気になって、自分のひざの上の握り拳をただ見つめた。
「わた、し……は。
私が生まれた場所に、行ってきました。」
晴明が座って2つ目のティムビッツに手を伸ばしたところで、茜が言う。
「へえ。この近くの病院ですか。」
晴明は2つ目のティムビッツを指で転がしながら聞いた。
茜は両手をさらに強く握る。
関節とその顔は白い。
「違います。何もない場所です。
込み合った路地のどこか。ただの路上。道の上。
私はそこで生まれて、あなたに、あなたを、知りました。」
茜の声が震えがちなことに気づいたのと、茜が再び口を開いたのはほぼ同時だった。
「あなたが自分か人でも殺さなくちゃやってられない、って顔をしていたから。
私怖くて。
何故だか作者近影は遺影みたいな色ですし。
でも。色のついたあなたは。」
茜の瞳が光っているのに晴明は気づいたが、茜の話を遮るのも憚られて、茜の目を見たままティムビッツを転がした。
「宝物を見つけたみたいに、私を見てくれました。」
晴明ははっとして、ティムビッツを取り落とした。何も無い、いや、少し粉のついてしまった指を名残惜しそうに擦り合わせる。
宝物、という言葉を反芻する。
何だろう。聞いたことがある気がする。でも、思い出せない。ああ、きっと。明音に言われたんだろうな。こんな未だどうしようもない俺に。宝物って、言ってくれたんだろうな。
「だから、私を生んでくれたのが、晴明さんで、良かったです。」
自分の指の爪を見ている晴明になど目もくれず、茜は続けた。
これは、きっと小説にない言葉。彼女自身が、編んだ言葉。
「あっ、でも、晴明さんに何も言わず出て行ったのは失敗でした。
ごめんなさい。」
茜は慌てて頭を下げた。
晴明はまたくすりと笑って、白い箱の中からティムビッツを1つ取って、茜に渡す。
「私も、本当は留守を任されるべきでした。
謝らなくていいんです。
こうしてあなたが、帰ってきてくれたからもう十分です。」
晴明は床に落ちたティムビッツを拾って言う。
本心だ。朝のいらだちは消えている。
「これ、お好きですか。
また一緒に食べましょう。
買ってきますから。」
茜は晴明の言葉に無邪気に頷いた。笑った。
この言葉の意味を、茜は知らない。