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もしもし、聞こえますか?  作者: クインテット
23/59

わたしはあかね

 ずっと前から抱えた不信感が、あの日を境に大きくなった。それが今の2人の共通点である。


 晴明(はるあき)は、(あかね)の来た目的を(はか)りかねていた。

 初めは自分を(いまし)めに来たのだろうと思った―実際、時々茜に(ひど)い生活習慣を(しか)られるわけだし―。

 彼は不純な動機で『木枯らし』を書いたのだ。

 神様は案外のんびり屋だな。今更になって(ばち)を与えるなんて。

 晴明は自嘲(じちょう)しながら茜をこの古アパートに受け入れたのだ。

 罰を受けるべきだと思った。

 知っていた。自分が罪人(つみびと)なことくらい。

 だが今はもう1つ。

 楽観主義の晴明は茜の目的とはこれでないか、と予想している。きっと彼女は、俺が青春をやり直すために来たのだ、と。

 晴明にとってずっと会いたい人は、(まき)明音(あかね)に他ならない。

 茜は晴明がもう一度牧に出会ってやり直すために来てくれたのだと。


 うぅん。晴明は蒲団(ふとん)の上でまた身をよじって、寝苦しそうに(うな)った。

 結局晴明が迷っているのは、あかねは茜なのか明音なのか分からない、というところだった。


 一方茜は、深緋(こきあけ)の真意を測りかねている。

 どうしてふかひさんは私に牧さんの話をしたんだろう。

 彼女はとても苦しそうだった。苦しいのに、黙っておけば楽なのに。わざわざ私に吐きかけたのだ。

 なんの意味もなく、そんなことはしないだろう。

 深緋さんは、

「私は初め、あなたは牧さんかと思った。」

 と言った。

 私は彼女なのかな。茜なのかな。そういえばよく分からないんだった。どうしようかな。私、なにしたらいいんだろう。何しにここに来たのかな。

 そうだ。私が初めて、自分は「茜」だと、思ったところに行ってみよう。

 茜は「ちょっと行ってきます。昼食までには帰ります。」

 と書き置きを残して、ああ合鍵(あいかぎ)持ってないや、とドアを閉めた。


 ガジャン、と金属製のドアが閉まった音で、大の字で寝ていた晴明は目を覚ました。

 寝惚(ねぼ)(まなこ)を人差し指で(こす)って、居間に移動する。

 そして何となく見たちゃぶ台が、目覚まし時計と化した。

「ちょっと行ってきますって……。

 どこにだよ……。」

 (いら)立ったわけでもないのに頭を()(むし)る。溜息(ためいき)も出る。

 何も告げずに茜が出て行ったことに、何故かムッとした。

 心が晴れない。胸が(ねば)ついて快哉(かいさい)としない。

 こんな時、どうしていたっけな。

 ああそうだ、きっと。あの人に会いに行っていたんだ。


 晴明は乱暴(らんぼう)筆跡(ひっせき)で、

「私も行ってきます。

 なるべく早く帰ります。」

 と書いて茜の書き置きの上に重ねた。

 そして、会いに行く時はいつも来ていく朱殷(しゅあん)色のロングコートを羽織(はお)って、ノブを(ひね)る。


 白すぎた日光が晴明の網膜(もうまく)を突いて、幾分かやる気を削いだ。それでもこのコートを着たからには止まれない。それに、せっかく書いた書き置きを捨てるのも勿体(もったい)ない気がした。

 晴明はよし、と溜息混じりに言うと、階段の1段目に足を乗せた。


 徒歩5分でバス停に辿り着く。

 晴明は朱殷色のロングコートのポケットから工業デザイナーの様な字で書かれた深緋のメモを取り出した。

紫檀(したん)公園行きのバス

  (たん)市立病院前 で下車

  そこからは標識に従って歩いて下さい。

  深緋 怜美(れみ)

 何度も見ているものの、毎回確認しないと不安になってしまう。晴明は折り目だらけでくしゃくしゃのそれをまた適当に折り畳んでポケットに突っ込んだ。

 (しばら)くポケットに手を突っ込んでぼうっとしていると、バスがやって来た。

 久しぶりに見る内装はどうも落ち着きをもたらしてくれない。

 晴明は数駅分しか乗らないのに座る気にならず、()り革に手首を通し、囚人(しゅうじん)の様な格好(かっこう)車窓(しゃそう)の眺めを見ている。

 まるで何度も地上波放送される映画。変わらないものを、無意識に人は求めている。

 だからこの町並みが変わらないのか。

 それとも晴明の気持ちが変わらないのか。


 プー。

 次は、丹市立病院前、丹市立病……次、止まります。

 吊り革が揺れている。街路樹が音もなく風に身を任せている。

 晴明は小銭と整理券を機械に入れてバスを降りた。

 風は()いでいる。

 晴明はまたポケットに手を突っ込んでメモを出した。

 先程見た方の裏にバス停から墓地までの略図が描いてある。晴明は現在地の黒丸に指を置いて墓地までの経路を指でなぞった。

 鉤爪(かぎづめ)みたいなゆるく曲がった上り坂を、今度は晴明自身が上っていく。右手には巨岩さえもが(こけ)のせいで深緑(しんりょく)に染まった森が鎮座(ちんざ)している。時折鳥の声も聞こえるが、姿はない。


 8分程歩いただろうか。

 ようやく晴明は墓地に辿り着いた。

 息を整えながら手向けの水を()むための蛇口(じゃぐち)を捻る。冷たそうな水が勢い良く出た。晴明はバケツに水を注いで、柄杓(ひしゃく)をそのバケツに突っ込んで墓地へと入った。

 平日の朝だからか、墓地には誰もいない。柄杓がバケツに時折ぶつかる音だけが墓地に存在している。


「牧家之墓」

 と書かれた墓の前に辿り着き、墓誌(ぼし)に刻まれた名前を読んで、明音が眠っている墓であることを確認した。

 嘘だと思いたいけど。確かにそれはそこにあって。晴明には消せない。

 晴明はそっとバケツを地面に置いて、しゃがみこんで手を合わせた。

 相変わらず音はしない。とうとうバケツの音も消えた。

 晴明は明音に語りかけている。

「実はさ。『木枯らし』の茜が俺の家に来てるんだよ。

 びっくりするだろ。

 でもさ、最近思うんだ。

 案外、君なんじゃないかって。

 それでも嬉しいって思うくらい、俺は今でも……。」

 その時、1羽の(しぎ)が鳴いた。晴明はビクついて、思わず目を開けてしまった。それでは、亡者との対話は終わりである。

 晴明は何だか馬鹿らしくなって、誰かが供えたであろう枯れた花を取って、墓に水をかけて帰った。

 鴫はいつの間にか鳴き止んでいる。


 茜はまた来た道を引き返した。

 記憶を頼りに歩いているため、時々行ったこともない細い路地に入ってしまう。買い物に行く圏内くらいしか歩いたことがない茜にとって、鷺谷団地(さぎがたにだんち)はゾートロープにしか見えない。同じような建物が現れては消えていく。

 それでも確かに残る壁の色や猫の鳴き声を頼りに、茜は歩いている。

 自分が生まれた場所を探して。


 茜はふと足を止めた。

 辿り着いたのだ、あの場所に。団地を流れる小川にかけられた、コンクリ橋のそば。

 ここだ。こここそが。私が生まれた場所。

 茜は深く息を吸い込んだ。朝の空気が冷たく肺を満たしていく。あの日と同じだった。


 あの日、茜は、白く染まった視界からやっと周りが見えるようになったかと思うと、ここに立っていた。

 手には茶色い紙袋。振ってみると音がした。取り出して見ると、1冊の文庫本。

『木枯らし』

 表紙にはシンプルな明朝体(みんちょうたい)でそう書かれていた。適当なページを開いて読んでみた。どうやら小説らしい。

 茜という少女―高校生を少女と呼ぶかは意見が分かれるかもしれないが―が、友人に平手で(ほお)をぶたれるシーン。それを読んだ途端、何だか頬が痛くなった。不思議に思って頬をさすったのを覚えている。

 前後は読んでいないからどうしてかは分からない。今となっては、もっと読んでおけば良かったと思う。

 頬をさすっていると、妙な感覚になった。

 頭の半分くらいは、ああ、私の頬が痛いと思っている。でももう半分は、あれ、私は誰の頬をさすっているのだろうと思っている。

 そういえば、私は誰なんだろう。何か手がかりはないかな。

 そう思って本のページを()ろうとした瞬間、体が勝手に動き出した。左手が勝手に紙袋に本を突っ込み、足が勝手にどこかへと歩みを進めている。

 茜は泣きそうになったが、涙を出すことさえ許されない。

 その道すがら、茜は少しずつ自分のことを理解していく。それも自分の頭に流し込まれるように入ってきて、吐き気すら(もよお)した。

 名前は茜。あなたはこれから、ナルミハルアキに会いにいく。

 誰なんだろう。今度はナルミハルアキが怖くて(たま)らない。

 何度も晴明の部屋の前に立ち、何度も呼び鈴を鳴らし、逃げた。

 知りたくなかった。

 その日々すらしんどい。

 いつの間にかドアの前にいる。嫌気がさして茜は『木枯らし』をドアの側に置いた。

 これで逃げられない。ハルアキは私の存在を知ったんだ。もう終わりだ。


 その時逃げられなくなったのはお互い様だった。

 迷子になった少年少女が今、鬼灯荘(ほおずきそう)を目指して歩いている。


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