街路樹の隙間
茜と深緋は、晴明の母校を訪れた後、近くの公園のベンチに腰掛けていた。
実を言うと、高校に着くまで2人の会話はほとんどなく、沈黙は現在までずっと続いている。
茜はいい加減気まずくなって何か言おうとするも、何を言っていいか分からなかった。
そうだ。天気の話だ。
茜は常套句を思い出すと、天気の話をするべく空を見上げた。
青い空に、薄く大きな雲が浮かんでいる。今日はいい天気。
雲がゆっくりと動き、茜の顔に影を落とした。
「いい天気ですね。」
茜がそう言うと、深緋はそうですね、と返す。何だか久しぶりに深緋の声を聞いたような気がする。
「どうでしたか、綺麗な道だったでしょう。」
深緋はそれから間髪入れずに言う。
茜は道のりを回想した。
初めは道路と歩道の境が曖昧な道をしばらく歩いていた。しかし、最も印象に残っているのは、2人で歩いた、白いブロックの道。
ゆるやかな登り坂を、右手に街路樹と2車線道路を見ながら登っていくと、最終的に平地が少しだけ現れる。そこで横断歩道を渡り、左を見れば、今度は急な登り坂が見える。
憂鬱な心地になる。ここを登りきれば高校なのだろう。登る気は萎えてしまったが。
しかし深緋は横断歩道を元来た方へとまた渡り、この公園へと足を運んだ。何も言わないものだから、茜は驚いて後を追おうとした。
信号が点滅を始める。
茜は慌てて走って追いかけた。それでも、青信号の間に横断歩道を渡り切ることは出来なかった。
せっかちな信号機である。
「白いブロックが綺麗でしたね!
街路樹も良く手入れされていましたし。」
茜は思い浮かべた情景をそのまま深緋に伝えた。
すると深緋は溜息を吐くように笑う。あまり楽しそうではなかった。
「そうですか。見惚れないで下さいね。」
深緋はそう言って、茜の目を見た。あまり人の目を見て話さない深緋にしては珍しい。茜も何となく違和感を感じたものの、正体には気づかなかった。
「見惚れませんよ。」
と茜は笑う。
深緋はまた、そうですか。と言って目を逸らした。
「私達3人、毎日―と言っても月曜日から土曜日までですが―あの坂を上って下りてを繰り返していたんです。」
深緋は公園を囲む木に目をやりながら言う。
きっとあの急坂のことだろうな、と茜はあの坂を思い浮かべながら深緋の話を聞いた。
「3人、晴明さんとふかひさんと、もう1人は?」
茜は思い浮かべた急坂に1人ずつ人を置いてみたところ、1人足りないことに気づいた。
深緋がまた茜の方を見る。今度はしっかりと目が合う。
茜はまた変だ、と思った。
「晴明さんの、彼女だった人です。」
深緋はそう言うと、溜息を吐いて、それを誤魔化すように笑った。
茜ははっと息を飲んだ。全く予想していなかった。
そうだ。晴明にも、色恋云々くらいあるのだ。今は皆無なだけで。
「まき あかねさんという人でした。
あ、こういう字を書きます。」
深緋はそう言ってベンチから腰を離して近くにある小石を拾うと、公園の砂地に 牧 明音 と書いた。
「音だけ聞いて驚いたんですよ。
牧さんと結婚したのかと思いました。」
深緋は砂をぱんぱんと払い落としながらベンチに座った。
茜は、はは、と笑いながらまた急坂を思い浮かべている。
そこに茜はいない。きっと永遠にいない。
「牧さんは、私たちみたいに1人でした。
私達は1人ずつ孤立していて。
それがいつの間にか3人になっていました。
牧さんのおかげなんですよ。
彼女は明るい人でした。
明るくて優しいのに孤独でした。
それで良かったなぁと思います。
そうでなければ、出会えませんでした。」
深緋はゆっくりと語った。
また大きな雲が泳いできて、深緋と茜を覆った。
茜はまだ何も言わない。
「牧さんとは、別れたんですか。」
茜はそう聞いたあと、良く良く考えたら変な質問だ、と思った。仮にも妻だと言っているのだから。晴明も、もしまだ牧との関係が続いていたら、茜のことを妻だとは言わないだろう。答えが分かり切っている問いだ。
「どうなんでしょう。」
しかし、深緋はノーと言わなかった。アイドンノーと言った。
えっ、と茜が言うと、深緋は立ち上がり、公園の外へと歩き出す。茜はその背を追いかけた。
深緋は急坂前の横断歩道が見えるところで止まった。
「牧さんは、死んだんです。」
そう言って深緋は信号機を蹴った。
茜は何も言わない。無言でその背を見ていた。
「ここで。もう花はないですけど。
だから、きっともうここにはいないですけど。
晴明さんを庇って、死んだんです。」
茜は何も言えなかった。何か言うべきなのかも分からない。
帰りたくなった。
「最後に病院で彼女、笑ったんです。本当に、綺麗な笑顔で。
晴明さんは……トラックにはねられる寸前、明音さんが『いいよ。』と言ったのが聞こえたと言います。
私は……その場にいることすらできませんでした。」
深緋はそう言って、また信号機を蹴った。
泣きそうだ。でも、泣けない。
不思議と、茜の目から涙は出てこなかった。
「帰りましょうか。」
深緋はそう言って、茜の目を見た。
深緋の目はいつも空っぽだ。だから、何も読み取れない。
元来た道を戻っていた。
茜は猛烈に晴明に会いたかった。
牧とのことは聞けないだろう。
下らない話がしたい。だらしない無精髭を引っこ抜いて、文句を言われたい。
白いブロックが消え、2人は細い道路を歩いていた。
もう少しで鬼灯荘に着く。晴明が待っている。
その時、シャッ!と鋭い音がした。2人は初め、何事か分からなかった。
深緋が走り去る猫を見つけ、ああ、と言う。しかし茜はうんともすんとも言わない。不思議に思って深緋が茜を見ると、手を押さえていた。
「どうしました。」
深緋が茜に聞くと、やられました。と言って、茜が傷ついた手を見せた。深緋はあまり興味無さそうにそれを見る。
「ああ、帰ったら手を洗って絆創膏貼ってください。」
深緋はそう言って歩きだそうとした。
「晴明さん?」
茜の声に、ピタリと足が止まる。あの究極のインドア派が、こんなところで何を。
「えぇっ。」
晴明が驚きの声をあげる。
そこにいる全員が言いたい台詞を、彼は独り占めしていた。
「どうして、こんなところに?」
ほとんど同時に、問いを投げかける、ふたり。
深緋は答えを知りたくて、黙って見守ることにした。
何か言うのは野暮。そんな気がして。
晴明の息がまだ荒いことを認めると、茜が答え出す。正直に牧のことを言うのもはばかられて、都合の良い部分だけ切り取って伝えていた。
「えっと、私は、ふかひさんと一緒に、晴明さんの、母校に。」
嘘ではない。それでも、罪悪感で上手く言葉が出てこない。
「えっ。」
晴明は短く言って、恨みがましい目を深緋に向けるも、彼女は何も言わない。
やはり何故晴明がここにいるか分からなかった。晴明にどう思われようが、今はその答えを見つけるのが最優先事項だ。
「そう、いや、はあ。
こきちゃん……。何やって……。
え、ああ、私は、ちょっと探し物を。」
晴明も同じようにつかえながら言うのを聞いて、深緋は片眉を上げた。
彼も何かを隠している。
茜がそれに気づくことはなかったが。
「そうだ!手!手を、見せてください。」
晴明は半ば強引に茜の手を取って、見た。
深緋は、目を見開いた。
どうして知っているのだろう。晴明は、何を知っているのだろう。
深緋は少し怖くなり、腕を組んだ。
「これは……。」
小さな声で呟いた晴明に、茜は苦笑を交えて言った。
「学校から帰る途中で、猫にひっかかれちゃって。
大した傷じゃないから、大丈夫ですよ。」
晴明はそれを聞いて、安心しなかった。
むしろ晴明は心配そうと言うか、不安げだ。何かおかしい。
深緋は、何も言えずに俯いた。