交点A
「やっぱり、その茜ちゃんは、物語の筋書き通りに生きているんだね。」
画面の向こうで考え込みながら、リサが言った。
打ち合わせがあったりして報告が遅れてしまったが、リサはそんなことは気にしていないらしい。
「そうみたいだ。
今はまだ序盤とはいえ、物語は止まらない。
茜は死に向かってるんだ。
俺たちより、ずっと速いスピードで。」
晴明はそう言うと、スウェットの裾を握りしめた。やり場のない感情を無理矢理スウェットにぶつける。すっとはしない。何もしないよりましなだけだ。
晴明が『木枯らし』を書いた時も同じだった。これさえ書けばすっとすると思った。
でもしない。何も変わらない。寧ろ、自分の弱さを痛感するだけだった。
「次が起こるのを、食い止められないかな?」
リサが、ふっと晴明をアパートの一室に引き戻した。それができたら御の字だ。今ならまだ間に合うだろう。
「次は……。猫に引っ掻かれる、かな。」
『木枯らし』のページを繰り、晴明が言った。
すぐにでも起きそうだ、と2人は同時に思った。
問題は場所だ。
まさかこの部屋に急に猫が突撃して来て茜を引っ掻く、何てことはないだろう。ということはこれは外で起きることになる。
茜を閉じ込めるわけにはいかないから、場所の推測さえできれば、こんな事件は食い止められるかもしれない。
『木枯らし』は晴明が住む町をベースにしてはいるものの、ある程度、変更している。場所を完全に特定することは難しく、ある程度の候補を絞ることしかできない。
「物語に出てくる場所に似たところに茜が行くのを防ぐしかないな。」
晴明は小さな声で言う。
リサは頷くと、頑張れ、と言った。
それくらいしかできない。そんなもんなんだな、と思った。
ピンポーン。
ややくぐもったインターホンの音が晴明の耳に届いた。
「ありがとう。
お客さんみたいだから、今日は切るぞ。」
晴明が慌ててリサに伝えると、気を使ってリサが切ってくれた。
暗くなった画面にありがとう、と言う。
返答は、別になくてもいい。
晴明はどたどたと玄関に向かった。
すると、がさがさとビニール袋の音がする。茜が何やら受け取っているのが見えた。
不用心だな。口には出さないけど、心配してるのに。
晴明がぶつくさ思いながら一応顔を覗かせてみると、深緋が立っていた。
「ああ、晴明さん。
豆ご飯を持ってきましたよ。
あと、明日も茜さんをお借りしますね。」
深緋はそれだけ言うと、豆ご飯の入ったタッパを晴明に渡し、茜との会話に戻った。
2人の会話を盗み聞きするほど晴明は野暮ではないため、大人しくタッパを部屋の壁際に置き、自室へと後退する。
特にすることもないが、何となく居心地が悪い。
気の置けない人の会話を聞く方が、他人の会話がたまたま聞こえてくるよりも何となく罪悪感が増すのだ。
「明日は何のお手伝いですか?」
茜は片手でドアを押さえながら聞いた。
深緋はちょっと考えて、
「あなたのお手伝いをしたいんですよ。
詳しいことは内緒です。
そっちの方が面白いでしょう。」
と答える。
勿論茜は不満そうな顔をしたが、分かりました。と言った。
「頂きます。」
いつも何となく2人声を合わせて合掌する。多少ズレても、どちらかが合わせていた。だから最低でも、ますの音くらいはいつも揃っている。
今日の晩ご飯は深緋に貰った豆ご飯だ。
あまり行儀が良いとは言えないが、ひとつのタッパから直接2人で食べている。洗い物を減らすための小さな努力である。
「そういえば、明日ふかひさんが私のお手伝いをしてくれるそうなんです。」
茜の言葉を聞いても、晴明は暫く返事が出来なかった。
ふかひさんって誰だ?と考え込んでいたからだ。
ただ、この辺りでふかひ、と言うと、まぁこきちゃんのことだろう。随分仲良くなったんだな、と思い直し、そうなんですか。と返した。
部屋の掃除でもしてくれるのだろう。と、楽しみかつ恐ろしくなった。深緋が大家なのを恨めしくも思う。
「この豆、私が剥いたんですよ。」
何の脈絡もなく茜が言った。
そう言われても、大して違いが分からない。
豆好きの深緋くらいでさえ、その違いは分からないだろう。
「あれ、最初はどっちを押せばいいか分からないでしょう?」
晴明は深緋に手伝えと言われた時のことを思い出しながら言った。何か言葉をかけてやろうと頭をこねくり回したが何も出てこず諦めた。なに、大袈裟に褒める必要もないだろう。
「そうですか?
ふかひさんの教え方が良かったんですかね。」
晴明も深緋に教えて貰ったのだが。
少しおかしくなりながら、晴明は豆ご飯に箸をのばした。
「それじゃあ、借りていきますね。」
玄関口でそう言った深緋に、モノみたいに言うな、とだけ言うと、晴明は引っ込んだ。
どうやら部屋の中のことではないらしい。晴明は安心した。
疚しいことはないが、自室を人に見られるのは耐え難い。そうなってくると何の手伝いか分からないが、部屋の掃除よりはましなものだろう。晴明はそう楽観的に考えると、自室に篭って、町の地図を取り出した。
赤いペンを引き出しから引っ張り出し、ひとまず自分たちが住んでいる鬼灯荘に丸をつけた。
『木枯らし』によると、猫に引っ掻かれるのは角。
レンガでできた塀に蔦が絡む。そんな場所。それを右手に見ながら進むと、猫に引っ掻かれるのだ。
あまり外に出ない晴明は、ひとまず茜の行動範囲に丸をつけた。
この世界にすら慣れていない茜が遠くに行くことはまずない。ひとまずこの丸の中で似たような場所を探すことにした。
いつの間にか穴の開いたスウェットを脱ぎ、アイロン作業をほっぽったシャツを着て、ジーンズを履く。それだけで、いくらか気合いが入った。
スニーカーの踵を踏んづけて転びそうになり、仕方なくしっかりと足を深くまで入れる。
ドアを開け、施錠されていることを確認すると、珍しく軽快に階段を降りた。
持ち物は鍵と地図、赤ペン。それだけで、十分だった。
「ふかひさん、今日は何をするんですか?」
アパートの階段を、深緋に続いて降りながら茜が聞いた。
「あなたが、晴明さんのことを知るお手伝いがしたいんです。」
と、深緋は茜の方に少し顔を向けて言う。
「私と、晴明さんが通っていた高校に行きましょう。」
深緋は事も無げに言いながら、黒縁メガネの位置を正した。
茜は、堂々とした深緋の背中を見ながら、不安で胸を満たしている。
「いいんですか?」
平日の真昼間に高校に行くのは気が引けた。それに、前に晴明と近くを通りかかった時は、車移動だった。深緋は運転免許を持っていないと前に言っていた気がする。そんな茜の不安をよそに、深緋は気だるげに茜を先導している。
「あの、ふかひさん。
ここから晴明さんの高校って、遠いんじゃないですか?」
茜は、不安を拭い切れず、質問を重ねた。
深緋は少し呆けた顔をして、少し上ずった声になる。
「行ったことがあるんですか?
あ、いや、えぇと、ここから晴明さんの母校は、歩いて5分くらいですよ。」
茜も深緋も、目を丸くしている。
何だか、良く分からない。
「晴明さんとドライブに出かけた時に、ここが母校だ、と教えて下さったんです。
立ち入り禁止、ってなってましたけど。」
茜は自らの疑念をぶつける前に、深緋の疑問に答えた。そうすれば、自らの疑問の答えは深緋が教えてくれるだろう。そう考えたのだ。
「ああ、あそこは裏門ですよ。
昔はあそこはもっと広い歩道があって、裏門から登校する生徒も多かったんですがね。
今は道路が広くなって交通量も増えましたし、危険だ、ということで数年前に裏門は封鎖されたんですよ。」
やはりそうだった。
晴明は、きっと裏門から登校していたのだ。
茜はまた1つ、晴明のことがわかった気がした。
ぼりぼりと頭を掻く。
傍から見ればかなり不潔な光景だ。とはいえ、今晴明の近くには誰もいない。
曇りひとつない晴天の青空の下、晴明は歩いていた。
目的地は、本人も良く分からない。目的地を探し歩くこと、それだけが、今の晴明の目的だ。
茶色い垣根、絡まる蔦。どこかで見たような光景だが、思い出せない。
1年が積み重なるほど、日常は薄まっていく。
それでも、諦めるわけにはいかない。
晴明は、茜をどうしても救いたいのだ。
茜の行動範囲の赤丸の中で、晴明が行ったことがある場所を順番にまわっていく。しかし、ここだという所は見つからない。
太陽が次第に傾き、とうとう雲間に隠れるようになった。
午後2時。
晴明は走っている。自己嫌悪で体はがたぴしいう。
歩いた方が速いんじゃないか、というくらい周りの風景は動いてくれない。
その代わりに、晴明の頭に蔦這うレンガがこびりついている。
そうだ。どうして、俺は。
走って。走って。
やっとのことだ。
「晴明さん?」
団地の中の十字路にて、耳慣れた声を聞く。
「えぇっ。」
晴明は思わず驚きの声をあげた。
茜が―正確には深緋も一緒に―そこにいた。
「どうして、こんなところに?」
ほとんど同時に、問いを投げかける、ふたり。
深緋は黙って見守っている。
晴明の息がまだ荒いことを認めると、茜は答えた。
「えっと、私は、ふかひさんと一緒に、晴明さんの、母校に。」
えっ。
つかえながら言う茜に対して残酷に、晴明は言った。
整えなければならない息など、その言葉のせいで飲み込んでしまった。恨みがましい目を深緋に向けるも、彼女は何も言わない。
「そう、いや、はあ。
こきちゃん……。何やって……。
え、ああ、私は、ちょっと探し物を。」
レンガ探しだ、とは言えず。
晴明はほんの少しだけはぐらかした。
だが、自ら口にしたことで、はっと気づく。
「そうだ!手!手を、見せてください。」
晴明は半ば強引に、茜の手を取って、見た。
白い手に三筋、赤い跡。
これは……。
思わず呟いた晴明に、茜は苦笑を交えて言った。
「学校から帰る途中で、
猫にひっかかれちゃって。
大した傷じゃないから、大丈夫ですよ。」
ああ、確かにそうだ。
こんな傷、すぐに治るだろう。
だが。また。
進んで、しまった。
晴明は、思い出したのだ。
蔦這うレンガは、晴明が学生時代毎日通っていた通学路の途中にあるのだ、と。