枝豆
その日、茜は深緋の部屋にいた。安く部屋を提供してくれている、せめてもの恩返しをしたかったのだ。
深緋と茜は、黙々と枝豆の皮を剥いている。
「住民票。」
「えっ?」
机が汚れないようにと敷いた新聞紙に時折剥いた後の皮が落ちる、たんっという音以外の音。それ以外の音がするのは、随分と久しい。
「まだ、貰ってないのですが。」
「あ、ああ。そうでしたね。」
茜は困った。
永遠に出せないのだ。そんなもの。しかし提出を延ばせば延ばすほど、深緋に疑われるのも確かだ。
「その様子だと、まだ用意できてないみたいですね。」
剥き終わった枝豆をボウルに入れながら深緋が言う。
「すみません……。」
茜は急に心細くなって、小さな声で言った。
「ん、ああ。
何か、出せない理由があるんですか?」
茜が小さくなったのを申し訳なく思い、深緋が努めて優しげな声で言った。とはいえ、彼女の表情筋は子供時代にその役目を終えた後、長い眠りについてしまっているのだが。
「はい。実は……。」
深緋に答えようとしたものの、茜は言い淀んだ。
本当のことを深緋に話したところで、果たして信じてくれるだろうか?いや、変なやつだと思われて一蹴されるだけだろう。きっと誰だってそうだ。
そうだ。晴明は?晴明はどうなのだろうか。茜を、信じているのだろうか?
「言えないならいいですよ。
ここにはそういう人、いっぱいいるので。」
枝豆を剥く手も止めず、深緋は言った。
いつの間にか、山のようだった枝豆も残り僅かとなっている。
「ありがとうございます。
あの、これ、全部1人で食べるんですか?」
ひとつのさやの中に2,3個の豆が入っている。そして剥いた後の豆が入ったボールに、大盛りご飯のように皮が盛られている。
とても、1人の成人女性が食べるとは思えない。
「食べますよ。
豆、好きなので。
あ、欲しいなら差し上げますよ。
なんなら豆ご飯にしてから持っていきましょうか?」
深緋の物言いに、思わず茜は絶句した。
「そ、それでは……お言葉に甘えて。」
思わず止めていた手を見つめていた茜は、ふと我に返って答えた。
本当はそこまでお世話になるのは忍びないのだが、そうも言っていられない。暮らしが楽ではないのは、否定できないのだし。
「分かりました。
それじゃあ、もう少し手伝って頂いてよろしいですか。」
山盛り枝豆を崩さないようにしながら、深緋は枝豆をボールに盛る。
茜は、もちろん!と返し、またさやを剥き始めた。
「ありがとうございました。
おかげで早く終わりましたよ。」
深緋はふぅと息を吐くと、茜に言った。
「いえいえ、また何かあったら言って下さいね。」
深緋がテーブルの上のタオルで手を拭く。茜もそれに倣った。
「子供の頃を思い出しますね……。
茜さんは子供っぽいから、昔の私みたいに思えますよ。
私は、おばあちゃんになっちゃいましたが……。」
深緋は少し遠くを見つめながら言った。
茜が小さく笑う。
深緋の子供時代を思い浮かべると、何故か笑いが込み上げてきたのだ。それと同時に、深緋をより近くに感じた。
「今日はありがとうございました。
それではまた、6時くらいに豆ご飯を持っていきますね。」
深緋と刻まれた薄汚れた標札の前で、深緋は茜を見送った。
「はい、ありがとうございます。
ふかひさん!」
茜は後ずさりしながら手を振り、大きな声で叫ぶ。
深緋の瞳が大きくなる。表情筋は叩き起されたらしい。
深緋は小さく笑い、
「何言ってんだか。」
と言いながら手を振った。