むかしむかし
「ああ、こきちゃんが来たんですか。」
納豆パックをかき混ぜながら、晴明が言う。
今日は特売日だったのだ。普段なら納豆は食卓に上らないが、今日だけは別だ。
「こきちゃん、ですか。」
晴明は何気なくこきちゃん、と呼んだのだが、茜には引っかかった。
この世界の常識というものがややこしいものなのはもう知っている。では、大家さんのことを、そう砕けた感じで呼ぶだろうか?
「あ、ああ。高校が一緒だったんです。腐れ縁ってやつですよ。
おかげで、ここも随分安く貸してもらってるんです。」
茜がとほんとしていると、晴明が慌てて言い足した。
どうやら深緋が急に訪ねてきたのも、晴明にみかんをあげるためだったらしい。
晴明が打ち合わせから戻ってくると、玄関脇にみかんの箱が置いてあったのだ。晴明は思わず吹き出し、お節介な幼馴染を思い出す。不用心だな、と思いつつも、晴明はありがたくみかんを家に運び入れた。
今は部屋の隅っこに、直射日光を避けて置かれている。
「晴明さんの、高校時代、ですか。」
何だか想像つかないな、と茜が続けようとすると、晴明が割り込むように言った。
「むかし、むかしのことですよ。」
その口調は穏やかながら、寂しさを孕んでいる。
嫌だなぁ。ややこしい情感抜きに、そう思った。
過去に囚われ何も出来なくなるほど、時間を浪費することはない。しかし晴明は、過去のために今を使っているのだ。晴明の口振りはそんな風だった。
茜は嫌だった。晴明に、今を生きてほしい。自分勝手な願いを抱いているのは、そばにいる以上、仕方ないことだ。
「晴明さん!」
納豆をかき混ぜる手を止め、茜が声を上げた。
「うん?」
「いつか、話してくれますか、高校時代のこと。」
茜の真剣な眼差し。
晴明は目が眩んだ。
ふと、思い出したのだ。むかし、むかしのことを。
「ご勘弁願いたいですが、多分、いつかあなたに話さないといけないんでしょうね。」
晴明は俯き、茜から視線を逸らして言った。
晴明は気づいていたのだ。茜は、自分の過去を半分背負ってくれるだろう、と。
ただ、きっとそれでも、俺の過去は重いのだ。きっと背負ってもらっても、この苦しみは変わらない。それなら、茜に甘えるのは申し訳ない。
だって、晴明が過去を背負っているのなら、茜は未来を背負っているのだ。子の未来を背負ってやるのは親の義務みたいなものだろう。
納豆と混ざり合った醤油の香りが、
部屋に充満していた。