大家さん
プルルルルルル。と、珍しく固定電話が鳴り響いた。
晴明は心底面倒臭そうにのそりと立ち上がると、受話器を耳に当てた。
「はい、もしもし。はい、はい……。」
茜はできるだけ音を立てないようにしながら、部屋の掃除をしている。
「分かりました。今すぐ向かいます。」
会話は、こうして打ち切られた。
晴明は毛玉だらけのスウェットを脱いで、ハンガーにかかった出かける時用の服に着替えた。季節ごとに2,3枚ずつしかないが、お洒落に無頓着な晴明には充分だ。
「今から打ち合わせに行ってきます。
いつ戻れるか分からないので、夕飯はひとり分でいいですよ。」
と、晴明は手櫛で寝癖を直しながら、茜に声をかけた。
茜は、分かりました、と、少し寂しそうに返す。
晴明はばたばたしていたのだ。それに気づくことはない。
履き古したジーンズのポケットに財布を捻じ込み、鍵を握って晴明は玄関を開けた。
出かけるには丁度良い、少し曇った空。それでも久しぶりに外出する晴明は、眩しそうに目を細めた。
一応茜が忘れてはいけないので自分で鍵を閉め、アパートの階段を駆け下りる。それだけで息が切れる。
よし、明日から運動しよう、と、何度目か分からない決意を固めると、晴明はバス停に向かって歩き出した。
がしゃ、がしゃ、と、鍵を閉めた音が部屋に響いた。それから、とんたんとんたん、と、アパートの階段を下りる音がする。
ひとりきりの部屋だと、そんな音が妙に大きく聞こえた。
茜が留守番をすることは、あまり多くなかった。
茜が買い出しに出かけるのは毎日のことだが、晴明はあまり出かけない。出かけても、茜と一緒に行くことが多く、茜が家に残る機会はあまりない。
それもあってか、茜は少し心細くなった。
部屋がしんとしているからか。茜はテレビをつけ、無難な旅番組にチャンネルを変えた。
内容が入ってこない。楽しそうな笑い声も、美味しそうな料理も、肩の上をかすめていく。
そうだ、掃除を再開しよう。何かすれば、気が紛れるに違いない。茜はそう思い立ち、床に投げ出していたはぼきを拾った。
カーテンの隙間から差し込んだ日光が、部屋をぼんやりと照らしている。
その光が、茜が掃き落とす埃に反射して、美しく部屋を彩っている。しかし茜は、この情景に気がつかない。視線は手元に、そして意識は遠くにいる晴明へと集中していた。
いつ帰れるか分からないと言っていた。夕飯は一緒に食べられるだろうか。
たとえコンビニ弁当でも構わない。晴明と食べるご飯は、何だってとても美味しいのだ。
ひとりで食べるご飯は……。どんな味がするのだろう。そんなことを考えているうちに、旅番組は終わっている。茜ははっとしてテレビを消し、ひとり分の夕食を作り始めた。
食材を洗い終え、包丁を軽く洗っていると、呼び鈴の音がした。茜は少し戸惑ったが、居留守を使うのも気が引けて、玄関の方へ足を運ぶ。
「はい。」
アパートの鉄扉を開けると、不健康そうな女性がひとり立っている。
茜は考える。
近所の人ではなさそうだ。
晴明の仕事仲間だろうか。
何を話したらいいだろう。
暫し二人は黙ったまま向き合っていたが、とうとう女性が口を開いた。
「どちら様ですか?」
事務的な口調だ。
茜はどう名乗るべきか悩んだが、晴明の言い訳を思い出し、こう言った。
「鳴海茜です。
晴明さ……。晴明の妻です。」
少し不自然ではあったが、女性は気にしていないらしい。
数度頷き、不機嫌そうに頭を掻いた。
「住民票。ちゃんとして下さいよ。
びっくりしたじゃないですか。」
住民票?住民票。
茜は頭の中で考え、パニックになった。
茜に住民票などあるはずもない。
今すぐ何とかしろと言われるだろうか。
居心地の悪い汗が出る。悟られないようにしても、顔が冷たくなっていく。
「あ、申し遅れました。
私、大家のこきあけと申します。」
そう言うと、女性はすっと頭を下げた。
こきあけと言われても、茜には字が想像できない。
しかし、晴明と初めて会った時、今とは反対に漢字の読みを聞いたら嫌そうにされた。
そのことを思い出すと、こきあけの字を聞くのは……。果たして良いのだろうか。
「豆が鳩鉄砲……違った。まあ、鳩が何たら鉄砲食らったような顔してますね。
いつものことです。
深い緋色で深緋です。
どうぞよろしく。」
大家はうんうんと頷きながら言った。
茜はどうやらこの人は凄い人らしいと思った。もしかしたら、私の心を読んでいるかもしれない。
そういえば、深い緋色……。学生時代のあだ名は、不可避さんだったりしないのだろうか。
「ああ、鳴海さん、ふかひとは読みません。
あと、学生時代のあだ名はフカヒレでした。
全く残念です。私はフカヒレを食べたことがないのです。」
大家は心底残念そうに言った。
茜は心の中で白旗を振った。
確信。この人は私の心を読んでいる。
ということは、今日の夕飯の献立も知られてしまうのだろうか。それは恥ずかしい。
ん?夕飯?
茜は思い出した。彼女は夕飯の支度の途中だったのだ。
「あの、済みません、夕飯の支度があるので……。」
茜は恐る恐る言うと、大家はまた頷いた。
「そうですか。そうですか。
では、早めに手続きを済ませて下さいね。」
大家はそう言うと、アパートの廊下をポケットに手を突っ込みながら闊歩して行った。