廃車アンドシーク
自室から顔を出せば、居間には月の白い光が満ちている。その真ん中に、茜が座っている。
本当に、小説みたいだ。
晴明はそんなことを独り言つが、茜は気づかない。
そんな彼女に、晴明は恐る恐るながら小説の舞台になるところを見に行きたい、と提案した。茜は同行を快諾し、晴明はそっと胸を撫で下ろした。
ひとまず、第一段階は成功だ。断られたら、どうしようかと思っていた。
月曜日の朝。
晴明は適当に電話をかけたがために事の外遠いレンタカー会社を逆恨みしながら、山への坂道を上った。
茜にはアパートで待っておくようにと言ってある。
晴明には、あまり女性を歩かせるものではない、という身の丈に余るポリシーがあるからだ。
ようやく坂の上に辿り着いたものの、荒い呼吸とじわりと滲む汗が邪魔して、達成感など晴明は感じない。袖である程度の汗を拭い、呼吸が落ち着いてきたところで、晴明はまた歩き始める。
ここからレンタカー会社までは、歩いて1分程度、と電話の向こうのいけ好かない男が言っていた。
確かこの坂は何とか坂と言い、あまり知られていない国名が何故か名前になっていたが、早口でまくしたてられたせいで良く分からない。きっとヨーロッパの国名テストで学生たちを苦しめるあいつだろう。
ようやく辿り着いた古びた看板の会社。車は数台しかない。
「これを、借りるのか。」
晴明は溜息混じりに言った。
無理もない。その車は埃を被り、晴明の若かりし頃に最新モデルだったものなのだ。
視線を上げると、浅黒い肌の男が片手を上げた。
「やあ、どうもどうも。鳴海さんですか。」
男の酒に焼けた声といい、早口で要件を伝えるところといい、どうやら電話で応対した男のようだ。
「はい。鳴海です。
今日はよろしくお願いします。」
そう言うと男は、はははは、と、大きな声を立てて笑う。その間隔すらも短く、晴明は少しぎょっとした。
「あの辺に置いてある車なら、
どれを使ってもらってもいいですよ。」
そう言って、男は遠くを指差す。
思っている以上に台数があるのは分かったが、それは廃車だと思っていたものが仲間入りしただけである。晴明は溜息を吐きそうになるのを堪え、小綺麗な車を選んだ。
バックミラーを自分に合うように調整し、エンジンをかけると、車は妙な音を立てて走り出した。ちらとバックミラーを見ると、男がワイパーのような動作で手を振っている。
晴明はハンドルを握り直し、アパートを目指した。
本当に大変なのはここからだ。決して、早口男に嫌味を言わぬよう気をつけることではない。
「くわばらくわばら……。」
晴明の眼前に、アパートが飛び込んできた。
アパートの狭い駐車場に、茜が立っている。晴明は、低いブロック塀と茜に注意しながら駐車した。
晴明は、運転が下手な訳ではない。ただ、とある事情があって車が嫌いなのだ。しかし、ここで茜のことを確かめないのは、車を運転するよりも嫌だ。だから、晴明は努めて愛想笑いを浮かべた。
「さあ、行きましょう。」
晴明が言うと、茜は、はい、と答えた。
茜は助手席に座ると、シートベルトを締めた―つくづく『木枯らし』を現代劇にして良かったものだ。いちいち茜にシートベルトの必要性を説かずに済む―。
何度かカギを捻ってようやく無粋な音を立てたエンジンに気づき、茜は微笑する。
その顔を見ると、ますます愛おしくなるのだ。自分で生み出したものが、愛おしくないわけがない。茜は少し特殊な例かもしれないが、そんなことは関係ない。
晴明は車を走らせた。
夕方までには、まだ時間がある。それまでは、できるかは分からないが、小説の世界の茜が知らないことを、いろいろと教えてやりたい。
晴明は珍しく、やる気に満ちていた。