表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

断ち切られた初恋*源頼朝の娘 大姫

作者: 橘 ゆず

鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の娘、大姫のお話です。



平安時代の女性についてのエッセイを何本か書いてきましたが、今回は鎌倉時代です。


鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の娘、大姫(おおひめ)のお話をしてみたいと思います。

あの北条政子さんとの間に生まれた長女です。


大姫、というのは「長女」を指す一般名詞ですが、ただ「大姫」といった場合、普通は源頼朝の長女のことを指す、といった具合に日本史のなかではかなり通称として定着しています。


生まれは治承二年(1178年)。


平清盛がまだ現役バリバリで威勢を振るっていた平家全盛の世の中で、当時は伊豆の流人に過ぎなかった頼朝の長女として彼女は生まれました。


彼女が三歳の時、父・頼朝は平家打倒の兵を挙げ、『鎌倉殿』と呼ばれる身となります。

(尚、壇ノ浦で平家が滅ぶのはさらにそれから五年後です)


大姫が六歳となった寿永二年(1182年)の春。

鎌倉に一人の少年がやって来ます。


彼の名は清水(志水)冠者(しみずのかじゃ)義高(よしたか))。

旭将軍の名で知られる木曽義仲の嫡男です。

ちなみに生母は、有名な巴御前とは別の人です。


その頃、頼朝と義仲は同じ源氏とはいえ平家追討と上洛をめぐって対立を深めていました。


義仲の父の義賢は、頼朝の異母兄である悪源太義平によって殺害されていますので、義仲にとって頼朝はいとこであると同時に、父の敵の弟、ということになります。


 お互い何のわだかまりもなく、「手に手をとって共に戦おう」というわけにはいかないのも当然といえば当然ですよね。


ともあれこの時点で、両者は「打倒平家」の大目標のもとに手を結びます。

その証として結ばれたのが義仲の嫡男、義高と頼朝の長女、大姫との間の縁談でした。


当時、義高は11歳、大姫は6歳。

もちろん、完全な政略結婚です。


11歳の義高の方は自分が鎌倉に送られた意味を十分、理解していたと思います。


ただ、6歳(今の年齢でいったら4~5歳?幼稚園の年少から年中さんくらいですね)の幼い姫は、二人の置かれた複雑な状況を知らず、この許婚の少年を無邪気に慕うようになります。


鎌倉側でも頼朝はともかく、姫の母の政子はその後の行動からみてもこの少年を敵方の人質としてでなく、娘の未来の夫、自分の義理の息子として好ましく思っていた節があり……。


政子やまわりの侍女たちに微笑ましげに見守られながら、二人は束の間の穏やかな日々をともに過ごしていたのではないでしょうか。


破綻はすぐに訪れました。


寿永三年(1184年)1月21日。


義高の父、木曽義仲が、鎌倉の軍勢との戦いに敗れ近江国・粟津にて討死を遂げたのです。

頼朝に先んじて都へ攻め上り、平家を追い落とした戦勝将軍として華々しく上洛してよりわずか半年後のことでした。


それから三ヶ月後の4月21日。


頼朝は人質であった義高の殺害を決めます。


非情なようですが、平治の乱ののち、敵方の棟梁である平清盛の恩情で命を救われながら、のちに平家追討の兵を挙げた頼朝の立場からすればやむを得ないことでしょう。

自分が滅ぼした敵の息子を生かしておく危険性について彼ほど、身をもって知り抜いている人間はいないでしょうから。


それを漏れ聞いた大姫は、義高を侍女の姿に変装させるとひそかに鎌倉から逃します。


史料などには「大姫が…」と書かれていることが多いのですが、当時7歳という大姫の年齢を考えると、その裏には母親である政子の意思が働いていた可能性が大きいと思います。


あとには、木曽から従ってきた義高と同い年の郎党、海野小太郎幸氏が身代わりとして残りました。

義高のかわりにその居室で双六に興じている演技をし、時間を稼ごうとしたのです。

同い年……ということは、二人はひょっとして乳兄弟のような間柄だったりしたのかな~。


なんとか鎌倉を脱出した義高でしたが……。

その日の夜にはそれが発覚してしまい、すぐさま追っ手が放たれます。


そして逃亡から五日後の4月26日。


頼朝から義高追討を命じられた御家人、堀親家の郎党が現在の埼玉県、入間河原で義高を討ち取ったという報告が鎌倉にもたらされます。


この事実は固く秘されていましたが、いつしか大姫の知るところとなります。


兄のように慕っていた義高が、父の手によって命を奪われたことを知った大姫は衝撃のあまり床についてしまいます。


湯水も喉を通らなくなるほど悲しみに暮れる娘の姿を見た政子は、頼朝を強く非難しますが鎌倉御所という立場にある頼朝としては他にどうしようもなかったことも分からないではなく……。


日に日に憔悴してゆく大姫を案ずる政子の行き場のない怒りは、義高を手にかけた下手人へと向けられます。


(御所さまの立場としては義高を処刑する命令を出さなければならなかったことは分かる。しかし、それを真正直にとって姫があんなに慕っていた義高を本当に殺してしまうとは何事か。追いつけなかったと報告をして逃がしてやれば良かったのではないか!)


といったところでしょうか。

この政子の怒りによって、義高を実際に手にかけた郎党、藤内光澄は殺され、晒し首にされてしまいました。

政子さんもそんなことを望んでいったわけではないでしょうに…。

なんともやりきれない事件です。



それから10年後の建久5年(1194年)八月。

十七歳になった大姫に縁談が持ち上がります。


お相手は都の貴族の一条高能。

頼朝の同腹の姉妹である坊門姫の息子さんで、大姫とはいとこ同士の間柄になる青年です。


娘の行く末を案じていた政子もこの縁談に賛成しますが、大姫は

「どうしても結婚しろというのなら、淵に身を投げて死んでしまいます!!」

と言って、激しく拒絶。

周囲もそれ以上は何も言えずに諦めます。


十年の月日が経っても、大姫は非業の最期を遂げた許婚のことを忘れていなかったのです。


その翌年の建久6年。2月。

頼朝は、妻子らをつれて上洛します。


表向きは東大寺の落慶供養ということになっていましたが、本当の目的は嫡男、頼家の後継者としてのお披露目と、大姫を時の天皇、後鳥羽帝へ入内させる根回しの為でした。


後白河法皇の寵姫として都で実権を握っていた丹後局との対面も実現させ、入内の準備は着々とすすんでいるように見えましたが……。


その年の7月14日。

大姫は鎌倉の地でひっそりとその生涯を閉じます。


享年二十歳。


義高の死から遅れること十三年後のことでした。


その十三年という月日の間、彼女の心のなかを占め続けていたのは幼い日にほんの僅かな時間をともに過ごした、許婚の少年の面影だったのでしょうか。


彼女の生涯は、普通に考えたら薄幸なものだと思います。


けれど、その反面。

女性としてこれほど贅沢で幸せな生き方はないのでは……という気もしてしまうのです。


この時代、夫を亡くした女性が家の為に他の男のもとへ嫁がされることは珍しくありませんでした。

大姫とて、もしこの時亡くなっていなかったら生涯、義高への初恋だけに殉じて生きることは出来なかったのではないでしょうか。


偉大すぎる両親や、兄弟の影にひっそりと隠れるように、歴史の片隅で初恋の思い出に殉じて生きた女性、大姫。


彼女のことを思うといつも切なさで胸がいっぱいになります。


彼女のお墓のある鎌倉の常楽寺というお寺のなかには、木曽塚と呼ばれる塚があります。

彼女が生涯愛した許婚、清水冠者義高の首塚だと伝えられる塚です。


恋人たちの魂が永遠に寄り添って幸福に眠っていることを願ってやみません。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 大姫のことは知っていましたが、橘ゆず様の筆にかかると本当に瑞々しい姫が見えるようでした。 [一言] 大姫の死因は後世にまで伝えられてはいないのでしょうが、もしかして自ら命を絶ったのかしら・…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ