第2部 * 2-(1) *
(……)
目を覚ました小陽は起き上がり、
(……? )
辺りを見回す。
寝ていた場所は、自宅アパートのテレビ正面に置いたソファの上。テレビの画面は青一色になって停まっている。
中途半端に閉まっているカーテンの隙間からは、微かに黄味を帯びた青空が見えた。
時計を見れば、16時50分。もう夕方だ。
昨日の帰宅後、小陽は、冷めないうちにと、まず、コンビニで買った唐揚げ弁当とカップ麺で、かなり遅めの昼食を兼ねた夕食を済ませ、大量の買物は要冷蔵・凍の物だけを仕舞うべき場所にキッチリ仕舞って、あとは邪魔にならない程度に部屋の隅に寄せておき、シャワーを浴びてから、ソファに陣取り、レンタルしてきたアニメのDVDを見始めた。
1話25分ほどの長さのものを、全13話分。途中で強い眠気に襲われたが、何となく見るのをやめられず、最終話まで見始めた憶えはあるのだが、結末などはあやふやで……。
(…いつの間にか寝ちゃったんだ……)
状況を一通り把握したところで、
(……)
小陽は何となくだが空腹を覚え、
(…何か食べよ……)
立ち上がって、キッチン……と呼んでいいものかどうか、小さな流しと1口コンロが備え付けられ、そこに冷蔵庫と電子レンジを置いただけの、部屋の一角の調理スペースへ。
(どれにしよっかなー)
昨日の夕方に買ってきて入れたばかりの冷凍庫内の冷凍食品から、小陽は、気分で、
(うん、これかな? )
シーフードピラフを選び、取り出して、さあ食べようと、「お召し上がり方」の書いてある袋裏側を見る。
しかし、
「…凍ったままの本品を袋から出して皿に平らに広げラップをかけ、レンジで7~8分間あたためて下さい……」
イラスト付きのそれを小さく声に出して読んだきり、
(…なんか……)
途方に暮れた。
(難しい……? )
書いてあることが、よく分からないためだ。
(スーパーの店員さんが、これなら料理を作ったことが無くても「裏に書いてあるとおりにするだけで食べられるから大丈夫」って言ってたのに……)
そのまま立ち尽くすこと数分。
でも何とかしなければ、と、頭を強く横に振って途惑いを振り払い、意識的に気持ちに前を向かせた。
お店屋さんは、もう全部閉まっちゃってるはずだし、頼れる人もいないし、このままじゃ飢え死にしちゃうし、と。
あらためて、「お召し上がり方」とにらめっこ。しょっぱなから問題にぶち当たった。
(お皿、か……)
普段、売られている時の容器のまま開けるだけで食べられる物しか買わないため、皿など1枚も持っていない。
ちょっと考え、ゴミ箱から、昨日の夕食のゴミをまとめたコンビニのレジ袋を拾い、中から、から揚げ弁当の容器と蓋、カップめんのカップを取り出して見比べ、カップめんのカップを皿代わりとして選ぶ。
カップを水道水で流しながら手で擦り洗いをし、ティッシュで拭いて、
(よし、これでお皿は用意できた。次は……)
手ごたえを感じながら、「お召し上がり方」に視線を戻す。
(…袋から出して……。平らにひろげ……)
その部分を示すイラストでは、口を開けたピラフの袋を皿の上で斜めに傾け中身を皿に出していた。
(で、それを平らにならすんだね? )
ふんふんと頷きつつ、ほんの少し緊張しつつ、袋を開封。そして皿代わりのカップの上で傾けると、ひと粒ひと粒パラパラの状態で凍っていた中身がサラサラと出てき、自然とほぼ平らにひろがる。それを、カップを軽く揺することで完全に平らにして、
(うん、オッケー)
満足して頷いてから、次の手順。
(ラップ……)
ラップは無いため、周囲を見回して代わりになりそうな物を探すが、何も無く、
(…仕方ないか……)
諦めて、ラップはかけないままレンジの中へ入れ、
(7~8分……。じゃあ、とりあえず7分で)
時間をセットしてスタートボタンを押した。
内部の明かりがつき、回り始めるレンジ。
(これで、あとは待つだけ)
出来上がりを待つ間に、食べながら見るDVDを選んで、すぐに見られるよう準備。
そうしている間にピラフの良い匂いが漂ってき、ややして、ピーピーピーと、レンジの終わりの音。
(出来た出来た)
ちゃんと良い匂いがしていたため、期待を込めてレンジへと歩きドアを開けて中を覗いた小陽だったが、
(…どうして……? )
ピラフはビチャビチャ。全く美味しそうではなく、ガッカリした。
しかし、すぐに、
(あ、でも、7~8分って書いてあったのに、わたし、7分しかやってないから、時間が足りなかっただけかも)
気を取り直し、もう1分。
その場を離れずドア越しに覗きながら待ち、ピーピーピー。
今度こそとドアを開けたが、状況は変わらず。
(…ラップが無いせいかな……? )
小陽の脳裏を、いつもコンビニで弁当類をチンしてくれる男性店員の顔が過った。
(今まで当たり前だと思ってたけど、あのお兄さん、実はスゴイ人だったんだな……。…そりゃそうか。それでお給料もらってるんだもん。チンのプロだもんね……)
自分の実力ではここまでだと断念。
(まあ、毒じゃないだろうし……)
食すべく、テレビとソファの間に置いたローテーブルの上へと持っていき、そこで初めて、
(あ……)
箸やスプーンなど口まで運ぶための道具も無いことに気づき、自分をちょっと嫌になりながら、ゴミ箱から先程拾った袋の中から、使用済みの割り箸を探し、水洗い。
その時、ピンポーン!
玄関の、無駄に明るいチャイムが鳴った。
小陽は、洗った割り箸を手にしたまま玄関へ。
(……? 誰だろ……? )
小陽には、雛菊の関係ぐらいでしか、ほとんど知り合いがいない。その中に、自宅を訪ねて来るような間柄の人はおらず、知り合いが訪ねて来たと言えば、もう1年近く前にバイトの初日に寝坊していたのを日向三郎が起こしに来ただけ。
普段訪ねて来るのは、何かのセールスの人くらい。
(…セールスの人だって、今日はお休みだろうし……。ホント、誰……? )
首を傾げつつ、ドアの、来訪者確認用の穴を覗く。
覗いた先にいたのは、
(……店長? )
初めて見る私服姿の、日向正太郎だった。
小陽の返事が無いためか、向こうからでは見えないだろうに、穴を覗き返してくる。
(何だろ……? )
もうひとつ首を傾げながら、ドアを開ける小陽。
途端、そこに立っていた日向正太郎は、鼻をクンクンと動かし、
「いい匂い。メシでも食ってた? 」
日向正太郎の唐突な言葉に、小陽は途惑いつつ、
「あ、匂いだけです。上手に出来なかったので……」
すると日向正太郎、
「どう? 」
小陽の肩の向こうを見ながら靴を脱ぎ、小陽の横を通り過ぎて、室内へ上がり込んだ。
ズカズカと、玄関から部屋へとつながる短い廊下を進む日向正太郎。
(へっ? ち、ちょっと……! )
小陽は慌てて、その背中を追う。
廊下の終点で一旦、足を止め、日向正太郎はキョロキョロ。部屋の中を見回した。
そしてまた歩き出し、真っ直ぐにテレビの前のローテーブルへ。ピラフの入ったカップめんのカップを手に取り、小陽を振り返る。
「上手く出来なかった、って、これのこと? 」
「あ、はい」
「これ、何? 」
「ピラフです」
「は? 」
「シーフードピラフです」
「え? 」
2回も聞き返され、小陽は軽くムッとしつつ、今度は大きめの声で、ハッキリとした発音を心掛け、繰り返す。
「冷凍のシーフードピラフですっ! 」
「ああ、うん、ピラフなのは分かったけど、ビチャビチャじゃん? どうして、こんなことになってんの? しかも、何でカップめんの容器? 」
他の部分はともかく、よく思いついたと自信を持てていた部分まで否定され、それ以前に、例え恩人と言えども勝手に上がり込んできたことにイラついていたこともあり、
「別に、どうだっていいじゃないですか。食べれないワケじゃないしっ! 」
不機嫌に言い返して、乱暴にカップを奪い返す小陽。
それを日向正太郎は、上方向へヒョイっと取り上げ、
「でも、せっかくだから美味しく食べれたほうがいいだろ? 作り直してやるよ」
言いながら、また軽く部屋の中を見回し、調理スペースへ。
(へっ? えっ!? )
止める間も無く歩き回る日向正太郎の後を、小陽はついて歩く。
調理スペース正面に立った瞬間、日向正太郎は、途方に暮れたように立ち尽くした。
ややして、深い溜息をついてから、流しの横に転がったままだった弁当の蓋をサッと洗ってピラフのカップに被せる。
(あ! なるほど! ラップの代わりにお弁当の蓋! )
感心する小陽の目の前、日向正太郎は、レンジのドアを開け、弁当の蓋を被せたカップを中へ。ドアを閉め、時間を合わせてスタートボタンを押そうとして、
「あれ? 」
手を止め、
「小陽、レンジが生解凍になってる。もしかして、お前が使った時から、ずっとこの状態? 」
(? )
日向正太郎の言っていることが分からない小陽。
答えないでいると、日向正太郎はレンジを指さした。
その指の先には、左右で出っ張っている高さの違う左右に長い形をした1つのボタン。ボタンの左には「生解凍」、右には「あたため」と書かれており、「生解凍」と書かれた左側の高さが低くなっている。
「これじゃあ、ピラフが出来上がるワケねえよ」
言って、日向正太郎は、ボタンの右側を押して低くしてから、スタートボタンを押し、レンジ内部に明かりがついて回転しだしたのを、よし、と、レンジに向かって確認したように頷いてから、小陽を振り返る。
「これであとは、待つだけで出来るはずだぜ? 」
「あ、ありがとうございます……」
日向正太郎は、今度は小陽に頷き、
「小陽はさ、全然、料理とかしねーの? 」
「……? はい、しないです。けど……? 」
今ひとつ趣旨の分からない日向正太郎の質問に対して、首を傾げながらの小陽の返答。
日向正太郎は、やっぱりな、と、深い深い溜息をひとつ。それから、「台所に物が無さすぎるんだよな。ラップすら無くて、俺、どうしようかと思ったよ」に始まり、「ホント、最近の若いヤツらって……。大体、世の中が便利になりすぎてんだよな」「その便利な電子レンジもまともに使えないって、どういうこと? 」「物界にいた時、何でも全部お母さんにやってもらうとかじゃなくて、ちゃんと、お手伝いとかしてた? 」。
そんな日向正太郎の言葉を、小陽は、うるさいなあ……と思いながら、右から左へ受け流す。
(何しに来たんだろ? この人……。帰省するんじゃなかったの? )
日向正太郎の言っていることは、一般論としてはもっともだと思うし、実は、小陽のコンプレックスでもある。生まれてからずっと病院暮らしだった小陽は、本当に物事を知らなさすぎて、そのために生じる他者とのズレを、心界で暮らすようになってから、よく感じる。
ほとんどの場合は、下手に口を開かないことで、やり過ごせるが……。
だからこその右から左。ようは、聞いていて面白くないのだ。
とりあえず、自分ひとり心界で暮らすのに、今のままの自分で何の不自由も無い。学習は、完全なる受け身で、ちょっとずつしてる。例えば、たった今のピラフの一件でも、電子レンジには「生解凍」と「あたため」を切り替えるボタンがあることと、正しく使わなければピラフが出来ないことを知ったし、来年のお盆休みの時にも まだ転生していないようなら、冷凍食品を買う時に、その裏面の作り方を熟読して、必要な物があれば漏れの無いよう揃えなければ、とも思った。
日向正太郎の言葉が右から左へと流れ続ける中、ピーピーピーと、レンジの終わりの音。
喋るのをやめ、日向正太郎は回れ右してレンジのドアを開け、中を覗き込むようにしながら両手でカップを取り出し、
「ほら、出来たぜ? 」
言いながら、小陽を振り返りざま、小陽の正面、顔より少し下の位置で、カップに被せてあった弁当の蓋をはずす。
瞬間、ボワッと立ち昇る湯気とピラフの香り。
むせ返りそうになる小陽。
ほんの一瞬の後、落ち着いた湯気の向こうに見えたのは、ふっくら仕上がった美味しそうなピラフ。
(すごいっ! )
その美味しそうな様に、ただただ、小陽は感動。これまで、ちょっと面白くない気分だったのが、吹っ飛んだ。
「よし! んじゃあ、温かいうちに食え! 」
小陽の更に近くへと押しつけるように動かされたカップを、
「は、はいっ! 」
小陽は条件反射で受け取り、
「ほら、あっちで座って! 」
日向正太郎に背中を押されるまま、ソファへ移動。
(美味しそう! )
ソファに腰掛け、テーブルの上に置いたカップの前で、小陽は、まずは行儀よく手を合わせる。いつもはしないが、作ってくれた日向正太郎の手前……。
「いただきます」
そして、ひとくち。
ヤケドしそうな熱さに、口をハフッと動かして熱を逃がすと、魚介の香りが鼻を抜け、味が口いっぱいに拡がった。
(美味しいっ! )
続けて、ふたくち、みくち。
(美味しいっ! )
ほっこり幸せな気持ちになって、それを味わうように、確かめるように、一旦、箸を持つ手を止め、口を押さえる小陽。
「ウマいか? 」
不意に声が掛かり、そちらを見ると、テーブル脇に立ったまま満足げな笑みを浮かべて小陽を見下ろしている日向正太郎と、目が合った。
(…店長……)
一瞬、本当に一瞬だけだが、完全に存在を忘れていた。
満足げなまま、日向正太郎は口を開く。
「笑った顔、久し振りに見た」
(へっ? )
小陽は驚いた。
「わたし、今、笑いましたか? 久し振りに? 」
「笑ったよ。スゲー幸せそうに。お前は基本、笑わねえもんな。うちの店に入って数日間は普通に笑ってたから、それ以来振りだな」
(…知らなかった……。わたし、笑ってなかったんだ……。別に、意識して笑おうともしてなかったけど……。
雛菊に入って数日間は笑ってたってことだから、笑わなくなったキッカケに心当たりはある……心当たりって言うか、間違いなく、あの時……。許可証を偽造して物界へ行って、自分がお母さんや星空に何もしてあげられないって本当にちゃんと理解して、絶望した時……。それまでは、きっと、分かってるつもりでも、本当にちゃんとは分かってなかったような気がするし……)
「おーい。もしもーし? 」
日向正太郎の呼び声と共に、大きな掌が視界を上下したことで、小陽はハッとする。
苦笑している日向正太郎。
「冷めないうちに食おうぜ? 」
小陽は、
「は、はいっ! すみません! 食べますっ! 」
返事だけを急ぎ、せっかくなので、ゆっくり味わって食べる。
ヨッコラショ、とその場に腰を下ろした日向正太郎に、見守られながら……。
「ごちそうさまでした」
食べ終わった小陽がカップをテーブルに置き、その上に箸を揃えて載せて手を合わせるのを待っていたかのように、
「さて、行くか」
日向正太郎は立ち上がる。
(…そっか、帰省する前に寄ったんだ……。何しに来たのかは、結局、分かんないけど……)
きちんと見送ろうと、小陽も立ち上がった。
「ありがとうございました。ピラフ作ってくれ、て……? 」
小陽が礼を言っている間に、日向正太郎は、窓辺へ行って鍵が掛かっているのを確かめるように鍵部分に手をやってから、もともと閉まっているカーテンを隙間無くピッチリ閉め直し、すぐ見れるよう準備してあったはずが結局見ないまま放置されていたテレビも消し……と、小陽の視界を行ったり来たり。
(? ? ? )
何をしてるんだろう? と、その行動が不可解過ぎて、思わず見守ってしまう小陽。
しかし、部屋の照明を消され、もう夕方遅めの時間となっていたことと、たった今、日向正太郎の手によって、カーテンが隙間無く閉められていたこともあって、室内が真っ暗になり、さすがに、
(! )
驚き、
「あ、あのっ! 」
口を開きかけたところへ、今度は、左の手首をいきなりガッと掴まれ、ビクッとして日向正太郎の顔を見上げる。
「て…店長……? 」
日向正太郎は、そんな小陽の様子などお構いなしといったふうに、手首を掴んだまま、玄関方向へと歩き出した。
突然引っ張られたことで、よろけ、転びそうになったのを立て直し、
(……何なの? )
小陽は途惑いつつ、日向正太郎の背中を見ながら、手を引かれるまま足を動かす。
さっき部屋へ上がり込まれた時もそうだが、こんな暗い中で男性に強引に手首を掴まれたりして、恐怖を感じてもいいはずの状況なのだが、不思議と、それは感じない。
これまで、あくまでも、ほぼ仕事の時間のみだが、共に過ごしてきた経験からか、日向正太郎が自分を傷つけるようなことをするワケがないと、知らず知らず、妙な信頼を持っていたのかも知れない。
自分自身について、別にどうでもよいという諦めが、心に深く染みついてしまっているせいもあるかもしれないが……。
部屋に入って来た時に既に確認済みだったのか、ごく自然な感じで、日向正太郎は、玄関の靴箱の上に置いたままにしておいた小陽の部屋の鍵を、靴を履きながら、空いているほうの手で取る。
手をつないでいることを忘れているかのように、どんどん玄関を出て行ってしまおうとする日向正太郎。
小陽は危うく土間部分に素の足をついてしまうところだったのを、昨日の帰宅時に脱いだままの状態でその場にあった靴へと、咄嗟に脚を伸ばして、つっかけ、日向正太郎に続いて外へ出た。
途端、おそらくはドアを閉めるために足を止めて振り返ったと思われる日向正太郎が、
「あれっ? 」
頓狂な声を上げる。
「小陽、お前、パジャマじゃん」
(…店長がうちに来た時から、ずっとパジャマなんだけど……)
何を今更、と呆れた小陽を、日向正太郎は、たった今出て来たばかりの室内へと押しやりつつ、
「待ってるから、5分で着替えろ」
言って、ドアをバタン。
(ホント、何なの……? )
玄関のドアを挟んで外側にいるはずの日向正太郎に溜息をひとつ吐いてから、言われたとおり、小陽は着替える。
着替え終えた小陽が玄関を出ると、日向正太郎は、よし、と頷き、ドアを閉めて鍵もかけ、鍵を小陽に返してから、再び手首を掴み、歩き出す。
手を引かれるままに階段を1階まで下りきった先、正面に、長さ太さともに小陽の体より少し大きいと思われる、1本の超巨大なキュウリがあった。キュウリには何故か4本の角材が刺さっており、地面との間を小陽の腰の高さくらいに支えている。
そのすぐ傍まで歩き、日向正太郎は小陽から手を放して、その手をポンとキュウリの上に置き、
「乗って」
(は? )
言葉の意味はもちろん分かるが、ワケが分からず、日向正太郎の顔を見上げる小陽。
日向正太郎は、再度、ポンポンッとやり、
「乗って」
(だから、どうしてキュウリに乗らなきゃいけないの? 大体、いくら大きくたって、キュウリはキュウリでしょ? 乗ったりしたら折れるんじゃ? )
小陽が乗らずにいると、日向正太郎は、ヒョイッと小陽を持ち上げた。
(!? )
驚く小陽。
小陽が驚いていることなど全く意に介さない様子で、まるで荷物でも扱うように無造作に、小陽をキュウリの上へと放り投げる、日向正太郎。
一旦は上手い具合にキュウリの上に乗っかるも、勢い余って、
(っ! )
落ちそうになり、小陽は慌ててバランスをとる。
そうこうしている間に、日向正太郎は、キュウリの真下に置かれていた大きめの肩掛けカバンを斜に掛けると、すぐさま自分も、小陽に背を向ける格好でキュウリにまたがった。
途端、キュウリが宙に浮く。
(っ!? )
小陽が驚いている間にも、グングン上昇していくキュウリ。
「何ですか? これ」
小陽の問いに、振り返った日向正太郎は、キョトン。
「これ、って? 」
「このキュウリ」
日向正太郎は首を傾げる。
「いや、別に、普通の『精霊馬』だけど? 」
「しょうりょううま? 」
「精霊馬、知らないの? 」
頷く小陽。
日向正太郎は溜息。
「まったく……。これだから最近の若い子は……」
その溜息まじりの説明に拠れば、精霊馬とは、物界での行事・お盆の際に供えられる物のひとつで、キュウリに割り箸を刺して作った馬と、ナスに割り箸を刺して作った牛。先祖の霊を送迎するための乗物とされており、日向正太郎の実家の辺りでは、迎え用が、一刻も早く帰って来れるようにとの願いを込めてキュウリの馬、送り用が、ゆっくり戻って行けるようにとの惜別の気持ちを表してナスの牛。これは地域によって違いがあり、牛が迎え、馬が送りの地域もあるとのこと。物界にいる親族が精霊馬を用意すると、お盆初日の夕方、物界の親族の暮らす地域の風習に合わせてキュウリの馬なりナスの牛なりが心界へ現れ、現れた時点では一般的なキュウリ・ナスのサイズのものが、乗るべき人が触れることで、乗れるサイズに巨大化するのだという。そして、実際にその巨大化した精霊馬に乗り、物界へ向かうとのことだった。
小陽は、へえ……と感心。
「物界へ行くのに、こんな交通手段もあったんですね」
「お盆初日に行く時と最終日に帰る時の限定だけどな」
(…そりゃ、そうだよね。普段は指導階級の人の付き添いか許可証が必要なのに、管理しきれなくなるし……)
そこまで考えて納得しかけた小陽だったが、
(あれっ? )
気がつく。
簡略化されているとは言え、お盆期間中だって手続きは必要なはず、と。
そう日向正太郎に言うと、
「ああ、精霊馬でも、駅には行くよ? こっち、心界の駅で手続きして、改札くぐって、物界に入る時にも、ちゃんと物界の駅の改札くぐるし」
(そうなんだ……。好き勝手に自分の家から直接実家とかへ行けるわけじゃないんだ……)
「じゃあ、お盆休みの時にしか乗れない特別な乗物っていうだけで、特に何かイイことがあるとかじゃないんですね? 」
自分には関係無いが、ちょっと残念な気分になって言う小陽。
返して、日向正太郎、
「いや、そうでもねえよ? 小陽も去年は帰省したんだから、このお盆休みの時期の電車の混みっぷりは知ってるだろ? もう朝からずっと満員の状態で、電車待ちの列が夕方になっても消えないじゃん。
駅で改札くぐるって言っても、精霊馬の場合、電車待ちの奴らの列に一緒に並ぶわけじゃないし、まあ、時間が夕方以降に集中するから、多少渋滞はするけどな。でも、俺は今まで5分以上待ったことないし。改札さえくぐっちまえば、電車の中みたいに窮屈な思いをすることもなく向こうの改札に向かって、改札でまた少しだけ渋滞に巻き込まれてから、そこからも、精霊馬に乗ったまま目的地まで行けるし。電車の奴らは、サブロー君みたいに瞬間移動出来る人はいいけど、そうじゃなければ、歩くか、物界の乗物の中に紛れ込んでいくしかないだろ? 」
小陽は昨年のお盆休みの時の電車のことを思い返す。
(ああ、確かに……。待ち時間が長いから何か時間を潰せる物を持って行ったほうがいいっていうサブローさんからのアドバイスで用意した本を読みながら、途中でお腹空いてお菓子を食べたりなんかもしながら、結局、半日くらい、電車待ちの列に並んでたもんね……。精霊馬だと、その待ち時間が無いんだ……。それに、電車を降りてからも、わたしの実家は、たまたま駅から近いから、何とも思わなかったけど、遠い人は精霊馬で行けたら楽かも……)
「よし、行こう」
小陽が納得したところへ、日向正太郎が唐突に言い、直後、それまで空中に浮いていただけの精霊馬が、駅の方向へと動きだした。
小陽は驚き、
(へっ!? まだ、わたしが乗ったままなんだけどっ! )
慌てて降りようとする。
それを日向正太郎は咄嗟に掴まえ、
「危ねえよ。空の上だって忘れたのか? しっかり掴ってろ」
「だって、店長が行くなら、わたし降りないと」
「何で? 何か用事でもあんの? 」
「いえ、無いですけど……」
「だったら、一緒に行こうぜ? 俺の実家」
(っ!? どうしてそうなるのっ!? )
日向正太郎の突飛な発言に、思わず、その目を凝視する小陽。
日向正太郎は優しく受け止め、
「お前、ずっと元気無かったからさ。どうせ自分の実家に帰省しないなら、俺の実家って大勢集まるし、スゲー楽しいから、元気出るんじゃないかと思って、誘いに寄ったんだ」
「…店長……」
小陽は日向正太郎が自分を気にかけていてくれたことに驚き、同時に、キュンとなる。
(あんな迷惑をかけたわたしを……)
思えば、日向正太郎は、小陽のせいで罪を負ってしまったことについて、責めるどころか、口にしたことすら一度も無い。
(…大きな人だな……。人間的に、何て、大きな人なんだろ……)
「な? 行こうぜ? 」
答えを求められ、感激しながら頷いたところで、小陽はハッとする。
(わたし、滞在に必要な物資を何も持ってない! )
お盆を物界で過ごすにあたって、物資の用意は必須だ。
「あの、店長……。わたし、お盆休みは、ずっと家から出ないつもりでいたので、物界に行ける用意が何も……今、持ってないとかじゃなくて、家にも無いんですけど……」
行きたい気持ちになっていたのに、これじゃあ行けないな、と、残念に思いながら、上目遣いに日向正太郎を窺う小陽。
すると日向正太郎、呆れたように、ちょっと怒ったように溜息まじり、
「お前は、一体、誰に向かって物を言ってる? 」
小陽は、ビクッ。
(何か、怒らせちゃった……? )
そんな小陽に、日向正太郎は、得意げに親指で自分を指してニヤッと笑い、
「俺様だぜ? ぬかりは無いさ。小陽の分も、俺が持ってるよ」
駅へ行くと、電車を待つ人の列は、まだ駅の外まで長くつながっていたが、日向正太郎が小陽のところへ寄っている間に、精霊馬の人たちの混雑の時間は過ぎたようで、少しも待つことなく改札をくぐることができた。
小陽が何度か乗った心界と物界の間を結ぶ電車は、窓の外に景色と呼べるようなものは無く、ただ真っ白だったが、それは、精霊馬では、一見同じようで、全く違っていた。
改札をくぐって、電車の線路を辿って空中を進み、暫くは、見覚えのある駅前の景色が流れていくが、次第に靄がかかったようにボヤけ、3分も経たないうちに、ほぼ白一色になる。
電車の中からは、窓そのものが白いのではと思えるくらい平面的に真っ白に見えるのだが、精霊馬では、まるで巨大な雲の塊の中をくり抜いたように不安定な大きなトンネル。そこには、ただ線路があるだけで、おそらく、線路が無ければ、上も下も分からない。物界に近づくにつれ、心体では重力に影響されなくなるため、その感覚は強くなる。
(…なんか、怖い……)
もしも精霊馬から落ちたら、この白い雲の中へ、底なし沼のように引きずり込まれてしまう感じがして……。
知らなかったとは言え、よくこれまで平気で電車に乗っていたな、と思った。
物界の駅に着き、改札をくぐるべく、一旦、ホームに降り立って、ホッとして大きく息を吐く小陽。
日向正太郎から不思議そうな目を向けられ、電車の線路を辿って空中を進んでいる時に何となくだが恐怖を感じたのだと理由を話すと、
「実際、気をつけたほうがいいぜ? あの雲みたいな壁の中には、中間域がウヨウヨいるからさ、落ちたら戻って来れなくなる」
「中間域? 」
「肉体の死を迎えても何らかの理由で物界に残っている人たちを、そう呼ぶんだ。物界に強い未練があって自分の意志で残った人とか、肉体の死の原因が自殺だったために案内員のリストに載っていなくて迎えが来なかった人とか」
(…そうなんだ。自分の考えで残ることも出来るんだ……。じゃあ、もしかしたら、わたしも、もし、肉体の死を迎えた時に、既にお母さんや星空の心配をしてたら、残れることを知ってたら、残ってたかも……)
そう思った直後、小陽は、あれっ? と疑問を持った。それって、中間域として物界で暮らすのって、すごく大変なのでは、と。
(だって、お盆休みの、ほんの4日間、物界に滞在するだけでも、ちゃんとした用意が必要なのに……。それに、前にサブローさんからされた説明に拠ると、転生するのだって、心界である一定の期間を過ごすことが前提になってるみたいだから、中間域になると転生しないことになって、その大変な生活を、もしかしたら永遠に続けることになるワケでしょ? )
それを日向正太郎に言うと、
「んー、俺は、そういうの詳しくないから分かんないけど、でも、俺が見かけたことのある中間域は、大変かどうかはともかくとして、漏れなく不幸そうに見えたよ。
で、不幸だから腹を立てやすいのかさ、中間域って、刺激しなければ特に害は無いって言われてるけど、この間、俺の知り合いが襲われてさ、聞いたら、目が合っただけだって言うんだ。今、通って来た、心界の駅と物界の駅を結ぶ線路のトンネルなんかも乗物を降りちまうとそうだけど、近づいただけで襲われるって言われてる場所も何ヵ所もあるし……。
もともとは、俺らと全く同じ存在のはずなのにな……。心界に来れなかったこと自体が不幸なのか、小陽の言うように大変な思いをしてるから不幸になったのか、それは分からねえけど」
(不幸、か……。わたしが、もし残ってたら、確実にそうだったよね……。
暮らしが大変かどうかなんていうのは、心界での今の生活を基準としての、わたしの主観でしかないし、案外、普通にやっていけてたかも。中間域として物界で暮らす先輩に色々教えてもらえたかもしれないし……。
でも、やっぱ、気持ち的には……。お母さんや星空が心配だからって残ったところで、何をしてあげられるわけでもないし、今は離れてるから目を背けていられるけど、傍にいたら、目を背けることさえ出来なくて辛いんだろうな、って、想像つくから……)




