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第1部 * 2 *


(……? ピンポン……? )

 どこか遠くから明るい調子の高めの音が聞こえ、小陽は目を覚ました。

 寝起きのため今ひとつ状況が掴めず、起き上がることはせずに周囲を見回す。

 ここは、転入者研修センター内の寮から越して来たばかりの、アパートの3階の一室の真新しいベッドの上。

 ピンポン! ピンポン! ピンポン!

 音はなり続ける。

(何の音……? )

 ゆっくり上半身起き上がって音の方向に目をやると、玄関のチャイム用のスピーカー。

 ピンポン! ピンポン! ピンポン!

(あ、玄関のチャイムの音か……)

 続いて、ドンドンドンッ!

 玄関のドアが乱暴に叩かれ、

「小陽さん! いますかっ? 小陽さん! 小陽さんっ! 」

(…サブローさん……? )

 まだ半分以上寝ぼけた頭で、ひとつひとつ状況を確認していく小陽。

(もう研修は終わったのに、どうしてサブローさんが……? )

 ぼんやりと考えながら、偶然、時計に目を止める。その針は、10時半を指していた。

(! )

 小陽はいっきに目が覚める。

(嘘っ! ちょっと、どうしようっ! )

 昨日でお盆休みは終わり、今日はバイト初日。

 49日間の転入者初期研修期間中に面接を受け、採用され働くことになったファミレス・「お食事処雛菊」本店に、10時までに入ることになっていた。

 大急ぎでベッドから下り、パジャマ姿だが、近所迷惑でもあるので、先ず、日向三郎が大声を上げながらドアを叩き続けている玄関へ。

 ドアを開けると

日向三郎は転がるような勢いで入って来、

「小陽さん! 今日10時からバイトだったんでしょうっ? 時間になっても来ないし、電話も出ないって、こっちに問い合わせがあったんですよ! 」

(電話? )

見れば、電話の、着信があったことを示す赤いランプが点滅している。

(鳴ったんだ……。全然気づかなかった……)

「どうして、まだパジャマなんですかっ? 寝坊ですかっ? 」

 日向三郎の捲し立てる勢いに圧され気味に、

「あ、はい」

小陽は返事。

「すぐに仕度します」

「そうして下さい。車で送って行きます。僕、下で待ってますから、仕度が出来たら下りてきて下さい」




 顔を水だけで簡単に洗い、手早く歯磨きをし、ササッと髪を梳かしてから服を着替え、手提げカバンに財布と筆記用具だけを突っ込むと、靴をつっかける感じで中途半端に履き、玄関を出てドアに外から鍵をかけ……とにかく大急ぎで仕度を済ませた小陽は、アパートの階段を1階まで、いっきに駆け下りた。

 階段を下りてすぐの所に、研修中に時々乗せてもらった見覚えのある白のセダン。日向三郎の車だ。

 小陽は助手席側の窓をコンコンとやりながら中を覗く。

 スス……と静かに窓が開き、日向三郎はチラリとも小陽を見ずに、

「乗ってください」

「あ、はい。失礼します」

 小陽はドアを開けて助手席に乗り込み、

「すみません。よろしくお願いします」

 すると、日向三郎は変わらず小陽を見ないまま、小陽の膝の上に、アンパンと飲みきりサイズの紙パックの牛乳を投げて寄越した。

「朝食、まだでしょう? 僕の昼食用に買っておいた物ですが、良かったらどうぞ」

「ありがとうございます」

「車だと、すぐに着くので、急いで食べちゃってください」

言いざま、日向三郎は車を発進。

 走り出した車内で、小陽は有難くアンパンと牛乳を戴くことにし、牛乳のパックにストローを挿す。

「案内員として担当した転入者の就職先から今日みたいな連絡が入るなんて初めてです。普通、無いですよ。こんなこと」

 話す日向三郎は、終始進行方向を向いたまま。

 運転中なため自分のほうを向いてくれないのは当然なのだが、小陽は、日向三郎が怒っているように感じ、

「…ごめんなさい……」

「別に怒っているわけではないですよ。反省しているんです。僕が、あなたに対して、きちんと必要な指導を出来ていなかったんじゃないか、とか……。

 実は僕、あなたのような年少者を担当するのは初めてだったんです。あなたの16歳という年齢は、通常の転入者初期研修を受けることになる最も低い年齢ですからね。15歳以下の子供の場合は、僕ら案内員と同じ指導階級有資格者の養子となって、16歳になるまで、その前に転生時期が来た場合はその時まで、じっくり育てられるんですよ。

 僕は、他の案内員の担当した歳の少ない転入者を見るにつけ、いつも思っていたんです。通常の研修で済ますことのできる最少年齢を引き上げるべきだって。何より、歳の少ない転入者本人のために。物界では、16歳や17歳は一般的には子供でしょう? それが心界に来た途端に大人と同じ扱いでは可哀想ですから」

 日向三郎は、ひたすら前を向いたまま、淡々と話す。

(……これって、本当に怒ってないの? )

 隣に座っていて、何だか居心地が悪い。

 


                  * 



 窓の外を景色が流れる。その景色的に、到着は間もなくだ。

 小陽はアンパンの袋を開け、口に詰め込む。

(ホント、寝坊には気をつけなきゃ……)

 寝坊の原因は、昨日の夜、なかなか寝つけなかったこと。そして、睡眠時間が中途半端になって翌日にちゃんと起きれなくなるくらいなら寝ないほうがいいと分かっていながら、結局いつの間にか眠ってしまったこと。


 なかなか寝つけなかったのは、両親や星空のことを考えていたためだ。




 お盆休みの初日、小陽が実家に到着した直後に家を出て行き23時になっても帰らない星空を捜しに出た小陽は、さくら公園の向かいのコンビニの駐車場で星空を見つけた。

 桜公園は、今年の4月初め頃に実家に外泊した際に花見に連れて行ってもらった、見事な桜の大木が1本と外灯が1本、遊具はブランコがあるだけの小さな公園で、実家からは車で1分ほど、健常者ならば余裕で歩ける距離にある。

 その思い出の公園向かいのコンビニの駐車場で、星空は、星空含めて女の子ばかり9名で、たむろしていた。

 星空は楽しそうにしていたが、小陽の目には、それが表面的なものに、無理して強がっているようにさえ見えた。星空以外の8名全員が、おそらく星空より年上で、化粧などしている人もあり、どうにも派手でガラが悪く思え心配になったため、そう感じてしまっただけかも知れないが……。

 星空も他8名も、空が白み始める頃までそこにいて、誰からともなく「そろそろ帰ろうか」と自然に解散。解散後に帰宅した星空は、シャワーを浴び、自分の部屋で眠って昼頃起床。母の用意した昼食を食べるだけ食べて、夕食までの時間、また部屋にこもり、夕食を済ませた19時、前日と同じ桜公園向かいのコンビニ駐車場で8名の少女と集まり、夜明け近くまでを過ごし……。小陽が実家に滞在していた13日から15日までの期間、星空は毎日、それを繰り返し、最終日である昨日・16日も、小陽は、星空がコンビニ駐車場で8名と合流するのを見届けてから帰って来た。

 母は、星空のそんな生活態度について一切触れず、自分と星空の昼食・夕食の仕度に後片付け、食品や洗剤類などのネットスーパーでの買物とその受け取り、着用した服と下着・使用済みタオルの洗濯、といった最低限の家事をする以外は、ずっと寝室に閉じこもって、フォトフレームの小陽を抱きしめて過ごしていた。

 父のことは、一体どうしたのか、小陽は滞在中、一度も姿を見かけなかった。その理由等の情報を、先のような状態の母や星空の言動から知ることなど、出来るはずもない。




(…本当は、帰って来たくなかったんだけど……)

 小陽は口の中のアンパンを牛乳でいっきに流し込んでから溜息をついた。

(星空……。お父さん、お母さん……)

 心配で仕方なかった。星空のことが、父と母のことが……。

 傍にいたからといって何が出来るわけでもないのだが、家族がこんなふうになってしまったのは自分が死んでしまったせいなのだと責任を感じていた。

 しかし規則で、お盆休み期間……つまり、8月13・14・15日の夜以外に物界に泊まるには特別な許可が必要なため、また、今日からバイトが始まることもあり、帰らないわけにはいかず、仕方なく、バイトが終わったらまた見に行けばいいと、無理に自分を言いくるめて、最終の便で帰って来たのだった。


 考えていたって何がどうなるわけでもないと分かっていても、心配で心配で心配で……。考えずにいられなかった。

(死んじゃって、ごめんね……)

 帰省するまで、家族があんなことになっているなど全然知らず、49日間、自分の新しい生活のことしか考えていなかったのが恥ずかしかった。

 自分が死んだせいで家族が悲しみ苦しんでいる間に、自分は、軽く動けるようになった体に浮かれ気味ですらあったことが腹立たしかった。



                  *



「はい、着きましたよ」

 日向三郎から声が掛かり、小陽はハッとする。

 いつの間にか窓の外の景色は流れを止め、正面に、以前1度だけ来たことのあるメルヘンチックな洋風平屋。看板には「hinagiku」。雛菊本店だ。研修期間の終わり頃に面接に来、そして、今日からは、ほぼ毎日来ることになるであろう、小陽のバイト先のファミレス・お食事処雛菊本店。

 小陽は、空になったアンパンの袋と牛乳パックを、出来るだけ小さく手早くまとめ、

「ゴミは、そのままでいいです。僕が処分しておきますから」

との日向三郎の急ぎ気味の言葉に甘えてダッシュボードの上に置き、

「ありがとうございました」

急いで車を降りてドアを閉め、その和風な名称に反してファミレスらしく可愛い洋風の建物を、面接時に言われていたのに従い、従業員用の通用口のある裏手へ回る。

 すると、すぐ後ろから、

「僕も行きます。先方に、きちんとお詫びと引き継ぎをしたいので」

日向三郎もついて来た。

(…お詫びと引き継ぎ、ね……)

 遅刻の原因は寝坊。寝坊の原因は、なかなか寝つけなかった揚句に結局中途半端な時間に寝てしまったことで、

(全然、サブローさんのせいじゃないんだけど……)




 日向三郎と連れ立って、小陽は大きく重たい通用口の鉄扉を入り、やはり面接時に言われていたのに従って、通用口を入ってすぐの打ち放しコンクリートの空間の、通用口から見て正面と左右に1つずつあるドアのうち、右手のドアをノックする。

 右手のドアの向こう側は、従業員用休憩室。3畳ほどしかない、そこに、足がパイプのシンプルなテーブルと、それを囲むように4脚の折り畳み式パイプ椅子が置かれ、その時その時の出勤者が仕事の間だけ私物を入れておく目的で設置されている共用のロッカーが壁に寄せて在る。ドアから見て右手奥側に、またドアがあり、そのドアの向こうは半畳ほどしかない店長室。右手手前側に、同じく半畳分ほどしかない、厚手のカーテンで仕切られただけの更衣スペースがある。

 その手狭さ加減に、広々としたレストランの客席で面接を受け、その場で採用された後、初めて連れて来られた時には正直驚いた。

 ノックに応え、休憩室内から、「はーい」と低いが軽めの男性の声。

「野原小陽です。遅れてすみませんでした」

「どうぞ。入ってー」

 失礼します、と言いながらドアを入る小陽。しかし無人。

(? )

 見回すと言ってしまうと大袈裟になってしまうくらい、ほんの少し右へと視線を移動させると、ドアを開け放った店長室の中に、大きな体を押し込めるようにデスクに向かい、何やら書き物をしている、面接時に着用していた雛菊の制服とは違う、白の半袖のワイシャツに黒のズボンという服装の、社長兼店長・日向正太郎ひなたしょうたろうの姿。

 休憩室入口のドアと店長室の位置、それからデスクの向きの関係上、日向正太郎はほぼ後ろ姿なのだが、すぐに彼であると判別できたのは、そこが店長室なため当然そこにいるのは日向正太郎であろうという予測だけではなく、その特徴的な色素の薄い短髪のせいだ。

 面接後にした、ちょっとした雑談の中で言っていたことに拠れば、大正生まれで実年齢は97歳ということだが20代半ばくらいの外見を持つ彼は、手にしていたボールペンを置き、大きく伸びをひとつ。それから立ち上がって体の向きを店長室入口方向に変え、小陽と目が合うが、その視線は、すぐに小陽を通過し、

「あれっ? 」

小陽の肩の向こうあたりで止まる。

「サブロー君っ? 」

「正太郎っ? 」

 互いにとても驚いた様子の日向三郎と日向正太郎。

「君が、ここの店長だったんだね! さっき電話で、『店長の日向といいます』って名乗ったのを聞いて……。ほら、日向って、そんなよくある名字じゃないだろ? 『あ、同じ名字だ』なんて、ちょっと照れながら、『どうも、野原小陽さんを担当しました、日向ですー』とか名乗り返しちゃったよ!

 それにしても久し振りだね。どれくらい振りかな? 」

「んー……。サブロー君は、お盆休みも、ほとんど帰省って……あれ? したことあったっけ? 俺は必ずしてるんだけど……」

「そもそも僕、正太郎がこっちの世界に来てることも知らなかったよ。いつ来たの? 」

「サブロー君の半年後くらいだよ」

「74年前か……。じゃあ、やっぱり君も、大東亜戦争で? 」

(…知り合い……? )

 小陽は懐かしそうに会話する2人を邪魔しないよう大人しく見守った。

 しかし、そこまでで、

「あ、失礼! 」

日向三郎の視線が小陽に向く。

「あんまり懐かしかったもので……。彼は、僕の長兄の長男で、歳が1コしか違わないから、本当は甥っ子だけど兄弟みたいに育ったんです」

 取り繕うように笑んで小陽向けに説明してから、日向三郎は、次に日向正太郎に、

「ごめん、正太郎。彼女……野原小陽さんのことなんだけど、僕の指導が足りなかったかも知れないんだ。だけど、僕はもう、他の新しい転入者の担当についちゃってるから、お詫びと引き継ぎを、ちゃんとしたくて……。普通なら、就職先にまで、こんなふうに案内員がついて行くなんてことしないんだけど」

(…だから、全然サブローさんのせいじゃないんだけど……)

小陽はイラッとした。

(何か、同じ話を繰り返されて、責めれられてる感じ……。わたし、寝坊も遅刻も、ちゃんと反省してるんだけど……。

 まあ、今のはわたしじゃなくて店長に話してたんだけど、それでも何か、遠回しに、わたしにも向けられてるような……。

 もう他の転入者の担当についてるのに、わたしのせいで余計な仕事が増えて面倒で、サブローさんが怒っても当然だと思うから、素直に、怒ってるって、迷惑してるって、言えばいいのに、何で、自分の指導が足りなかったとか、自分の責任みたいな言い方するの? 遠回しにチクチク感じ悪い、って思っちゃう……)

 もちろん、自分が悪いのだということは分かっているが、それでも、

「わたし、寝坊も遅刻も反省しているし、サブローさんにも御迷惑をかけて申し訳なかったって、ちゃんと思ってます。だから、そんな嫌味っぽく言わなくてもいいじゃないですか」

言わずにいられなかった。

「そんな言い方されるよりは、まだ、『ガツン』と普通に怒ってくれたほうがいいです」

 日向三郎は、一瞬、凍りついたようになってから、明らかに狼狽えて、

「お、怒ってないって、さっき言いましたよね? 迷惑だなんてことも思ってないです」

「怒ってるじゃないですか。迷惑だとも思ってますよ? サブローさんは。それをハッキリ言ってしまうと、何か都合が悪いんですか? 」

 と、そこへ、

「ガツンッ! 」

大声。

 小陽はビクッ。反射的に声のほうを見る。

 すると日向正太郎が、

「お望み通り、ガツンと普通に怒ってみたけど、どお? 」

イタズラっぽくニヤッと笑った。

 結構強くビクッとしてしまったため、その拍子に息を止めてしまっていた小陽は、思わず大きな溜息。……半分くらいは違う意味の溜息だったかも知れないが……。「ふざけてるの? 」と。自分の言ったことの揚げ足を取られたに近い感じに少しイラッとして……。

 しかし、それまで日向三郎に対して抱いていた腹立たしさとは180度違う苛立ち方をさせられたことに面白さも感じ、それに相応しい気の利いた返答をと、溜息まじりに、

「心にビクッと深く響きました」

「よし」

 日向正太郎は満足げに頷くことで返してから、小陽と同じく彼のガツンにビクッとしたらしい、こちらは固まってしまっている日向三郎を見、

「だーい丈夫だよ、サブロー君。小陽チャンのことは、俺がビシッビシやっとくからさ」

「あ、う、うん」

 日向三郎が頷いたことを確認したようにうなずき、

「新しく担当してる転入者が待ってんだろ? 行ってやんなよ。な? 」

日向正太郎はウインク。

 日向三郎は、もう1度頷き、

「じゃあ、お願い」

すっかり元気を失くして、それだけ言い、小陽の視線はあからさまに避けて背中を向け、休憩室を出て行った。

 日向正太郎が体半分だけ休憩室から出、日向三郎の背中に、

「今度呑もうよ! 連絡するから! 」

 日向三郎は足を止め、顔だけでちょっと振り返り、無言で頷いて、またすぐ前を向いて歩き出す。

 その沈みきった様子に、小陽、

(…言いすぎたかも……)

反省した。嫌な言い方でも、サブローさんは自分のために来てくれたのに、と。

 小陽は休憩室を飛び出し、

「サブローさんっ! あのっ! 」

もう通用口のドアノブに手を掛けていた日向三郎の背中を呼び止めた。が、そこまで。謝罪の言葉が続かない。

(…だって、本当のことだし……)

「…送ってくれて、ありがとうございました……」

やっと、それだけ言う。

 日向三郎は、きちんと全身で小陽を振り返り、作った感じの笑みで、

「バイト、頑張って下さい」

言って、通用口を出て行った。

(サブローさん……)

 小陽の胸がチクリと痛んだ。

 隙間風と共に、これまでの日向三郎とのことが心を吹き抜ける。

 ……出会いは物界。小陽の肉体が死を迎えた時のこと。軽く力強く動けるようになった自分が嬉しくてはしゃいでいるところを、体を張って止めてくれた。……その後の、転入者研修センターで共に過ごした49日間。先生のように、兄のように、そして時には口うるさい母親(小陽の実の母は小陽に非常に甘く、全く口うるさくなどないが)のように。朝の起床は決まって日向三郎に起こされた。心界で生活する上で必要なルールやマナー、一般常識について学ぶ座学では、常に脱線気味になってしまった日向三郎。ハッと気づいては笑ってごまかしていた。日向三郎の車で、社会科見学的に色々なところへ連れて行ってもらった。就職活動やアパート探し、特にアパート探しでは、実際に住むことになる小陽以上にこだわり、不動産屋相手に注文をつけたりしていた。

 本当に、朝、起きてから、夜、寝るまで、ずっと、いつも一緒だった。

 家族のように感じ始めていた。その関係が、これで終わってしまうように思えた。

 日向三郎がとっくに行ってしまった後のドアを、小陽は見つめる。

 と、背後で、

「さて、と」

呼気の混ざった日向正太郎の声。

 振り返って見れば、いつの間にかすぐ後ろに移動して来て、小陽を見下ろしていた。

 小陽は、そう言えばさっき、入室の際に挨拶程度のノリで言っただけで、遅刻のことをキチンと謝っていなかったと思い出し、急いで、

「あっあのっ! すみませんでした! 遅刻してしまって……! 」

 日向正太郎は軽く頷き、流すように、

「ああ、いいよいいよ。1回目は許すことにしてるから。ただし、こんな大幅な遅刻、理由によっては、次は往復ビンタの刑だけどねー」



                 *



(…何か……。スカート短い……? )

 日向正太郎から着替えるよう言われて渡された制服に着替え終えた小陽は、更衣スペースの中で固まった。

 雛菊の女子の制服は、白い襟のある濃緑色のワンピースに、白のレースのエプロン。今、小陽が着ている物も、言葉でそう言ってしまえば、それに間違いないのだが、面接時にレストラン店内で見掛けた女性従業員のスカート丈に比べ、明らかに短いのだ。

「着替えれた? 」

 更衣スペースの外から日向正太郎の声が掛かり、

「あ、は、はいっ! 」

小陽は出来る限りワンピースの裾を下へと引っ張りながら返事をする。

 日向正太郎の手で、更衣スペースと休憩室を仕切るカーテンが開けられた。

 日向正太郎は小陽の頭のてっぺんから爪先までを、ゆっくりと一通り眺め、手を伸ばしてエプロンの紐のねじれを直してから満足げに頷く。

 裾を下へと引っ張る手に、恥ずかしさから更に力が入る小陽。

「あ、あのっ、店長! ワンピースのサイズ、違くないですかっ? 」

「いや? 違くないよ? 」

「でも、面接の時に店内で見掛けた方々のスカートの長さと、だいぶ違うような……」

「ああ、外見年齢によって違うんだよ。25歳以下にはミニスカートを支給してる。それ以上は膝丈」

(……そうなんだ)

 ごく当然に決まり事を説明するような口調で返され、納得したと言うより諦めた小陽は、裾から手を放す。

 日向正太郎は、もう一度、満足げに頷いて、

「そうしたら、ここ座って」

テーブル周りの4脚の椅子のうち、最も入口のドアに近い椅子の背もたれ上部に手を掛けた。

 言われたとおり腰掛けた小陽に、日向正太郎は店長室から小さな冊子を2冊、同じ物を出して来、

「はい、これ。マニュアル」

うち1冊を手渡し、

「今日から3日間、1日3時間、これを見ながらオリエンテーションをするから。まず最初の1時間は、ここで、この先3日間のオリエンテーションの内容の確認と、お客様と接することになる場所へ出て行くために最低限必要な接客7大用語や分離礼なんかを教えるから」

言いながら、小陽の向かいの椅子を引いて座る。そうして、ひとつ息を吐き、落ち着いてから、

「じゃあ、まず、表紙を見て」

 表紙は緑一色の地に白抜きの文字で、「Hinagiku Busic Manial」と書かれただけの、ごくごくシンプルな物。

(新人教育のために、わざわざこんな物を作るってことは、結構大きな会社なのかな……? あ、そう言えば店名に「本店」ってついてるから、もしかして、他にもいくつかお店がある? )

「このマニュアルは社外秘だから、社外の人に見せないように。あと、退職時に返却してもらうから。はい、じゃあ表紙開いて」

 表紙を開いて現れたページは、「目次」。大項目として「オリエンテーション」「フロアオペレーション」「フロアサブ作業」「共通オペレーション」「キッチンオペレーション」「機械操作手順」の6つに分かれ、その1つ1つが、またいくつかの小さな項目に分かれている。それを見ながら、先程、日向正太郎が言っていた、最初の1時間にやることの1つ目、この先3日間のオリエンテーションの内容の確認。

 新人は皆、まず「フロア」の仕事から学ぶそうで、レストランでの仕事と聞いて小陽が真っ先に思い浮かべる調理、つまり「キッチン」の仕事を教わるのは、まだだいぶ先の話。次に思い浮かべる、入口でお客様を迎え席へ案内する「ウエルカム」、注文をとる「オーダー」、レジで会計をする「キャッシャー」等も後回し。1日目の今日は、マニュアル大項目の1つ「オリエンテーション」をザッと読み、「フロアオペレーション」の中の小項目「イントロダクション」を参考に、接客7大用語と分離礼を練習してから、出勤の際に毎回行うこととなる「出勤手続き」の説明を受け、皿の持ち方を練習した後、それを活かして、既にお客様の帰られた席から皿を片付ける小項目「ファイナルクリーンアップ」と、ついでに、その席を拭くなどして次のお客様のために整える「セットアップ」と、ここまで。続く2日目は、食事中のお客様の席に伺って食事済みの皿をさげる小項目「ミドルクリーンアップ」と、いよいよレストランの仕事らしくなってくる、お客様の席へ料理を運ぶ小項目「サーバー」を日向正太郎を客に見立ててロールプレイング。出来れば本物のお客様のところへも運んでみる。3日目は、2日目の出来次第だが、「サーバー」を集中的にやってみた後、他の従業員の中に混ざり、それまで学んだことを全て組み込んで動いてみる。……といった感じで進めていくらしい。後回しにした「ウエルカム」「オーダー」「キャッシャー」は、作業への慣れの状況に応じて順次教えられるとのことだった。

 何もかもわからない状態のため、時々心の中でのみ、その時その時に思ったことや特に質問する必要までは無いと思われる小さな疑問を呟きつつ、ひたすら日向正太郎の話に耳を傾ける小陽。

「はい、オリエンテーションの内容の確認は、ここまで。何か質問ある? 」

 小陽が首を横に振ると、日向正太郎は軽く頷き、

「じゃ、1ページめくって」

 1ページめくって現れるのは、大項目「オリエンテーション」。

「ここはザッと読み上げるだけにするから、マニュアルを目で追ってって」

 その中身は、雛菊の経営理念に始まって、遵守事項、防犯・防災対策や緊急事態対応、貸与品について、福利厚生。

「以上。質問は? 」

 首を横に振る小陽。

 頷く日向正太郎。

 続いてもう1ページめくると、大項目「フロアオペレーション」の小項目「イントロダクション」の、挨拶の基本と接客7大用語。

「挨拶の基本は、『笑顔で明るく、お客様の顔を見て』だから、それを踏まえて、接客7大用語をやるよ。はい、立って」

 小陽は言われるまま立ち上がる。

「俺が言うから、繰り返して。『いらっしゃいませ』! 」

 今までに1度も口にしたことの無い台詞。小陽は少し照れながら、

「いらっしゃいませ」

「声が小さあいっ! 」

 日向正太郎にいきなり叫ばれ、小陽はビクッとする。

「背筋を伸ばせ! もう1度っ! 『いらっしゃいませ』! 」

「い、いらっしゃいませっ! 」

 勢いに圧されるように言ってから、

(怖……)

小陽は日向正太郎の顔色を窺う。

 日向正太郎は満足げに笑んで頷き、

「じゃ、次。『ありがとうございました』! 」

「ありがとうございました! 」

「『はい、かしこまりました』! 」

「はい、かしこまりました! 」

「『申し訳ございません』! 」

「申し訳ございません! 」

「『恐れ入ります』! 」

「恐れ入ります! 」

「『お待たせいたしました』! 」

「お待たせいたしました! 」

「『少々お待ちくださいませ』! 」

「少々お待ちくださいませ! 」

 よしよし、と頷く日向正太郎。

「で、挨拶の言葉を言うタイミングとはズラして頭を下げるのが分離礼。うちの店の場合は、言葉の後に30度の角度で下げることになってる。あと、手ぶらの時には手は叉手な」

「さしゅ? 」

「体の前で手を組む。こうして、右手で左手の親指を握って、左手の他の指で右手の指を隠す感じ。位置は、目安としてヘソの少し下くらい」

実際にやって見せながら説明。それから、

「分離礼と叉手で、もう1回、接客7大用語をやってみよう」




 分離礼のタイミングや角度、叉手の位置などを直されながら、もうひと通り接客7大用語を繰り返し練習してから、小陽は日向正太郎に連れられ休憩室を出た。

 休憩室を出る際、日向正太郎は店長室内のデスクに手を伸ばし、その上に無造作に置かれていた黒い布を取った。それは、カーマ―ベストと丈の短いエプロン。店長室のドアを閉めて施錠し、歩き出しながら、手早くそれらを身につけると、あっと言う間に制服姿に変わった。

(…制服姿じゃないって思ってたけど、ベストとエプロンを外してただけだったんだ……)

「接客7大用語は明日までに暗記しておくこと。宿題な」

「はい」

 休憩室を出てほんの数歩右手側、通用口の正面に位置するキッチンへ通ずるドアを日向正太郎に続いて入る小陽。

 日向正太郎はドアを入ってすぐ左の洗面台へ。

「出勤して制服に着替えたら、ここで手を洗う。石鹸を使って、肘まで」

言いながら実演。

「備え付けの爪ブラシで爪の隙間までキレイにしたら、流水で丁寧に洗い流して、ペーパータオルで拭く。洗う前の手で触った蛇口を直接触らないように、手を拭くのに使ったペーパーで蛇口を掴んで水を止めて、ペーパーはゴミ箱に捨てる。はい、やってみて」

「はい」

 たかが手洗いだが、教えられた傍から違うことをやっては怒られると思い、小陽は日向正太郎の動作を細かいところまで思い出しながら、緊張しながら、丁寧に真似する。

 接客7大用語の初めに叫ばれたことで、日向正太郎を怖いと感じる気持ちが心の片隅に刻まれている感覚があった。

 よし、と頷いた日向正太郎に、小陽は、ホッ。

「そうしたら、『アピアランスチェックをお願いします』って誰かに声を掛けてチェックしてもらって。このシフト表の」

洗面台の斜め上の壁に掛けられた、10名ほどの人の名前の書かれた表を指さし、

「俺も含めて太線より上に名前の書かれてる人なら誰でもいいから。とりあえず、今日は俺に」

 小陽は、はいと返事し、

「アピアランスチェックをお願いします」

 日向正太郎は頷き、小陽の正面を上から下へと見、後ろを向かせて見、また正面を向かせて両手を胸の前に出させて爪を見、「OK」。

「OKをもらったら、シフト表の隣のタブレットの画面の中の自分の名前をタッチして、それで出勤手続きは完了。明日からは、出勤時間までに、ここまで済ませといて」

シフト表横のタブレットPCに視線を向けて言う。

 今日の分は、後で、実際に出勤した時間に修正しておくから、今とりあえずやってみるよう言われ、小陽は、画面に縦に並ぶ横書きの名前から自分の名を探し、タッチ。

「そうしたら、こっち来て」

 言われるまま、日向正太郎の後について移動する小陽。

 途中で、コンテナから荷物を下ろしていたキッチン担当の30代前半の外見を持つ女性・赤木絵里あかぎえりと、両手に持ったバケツにいっぱいの氷を小走りで運んでいたフロア担当の20代後半の外見を持つ女性・伊東希美いとうのぞみを紹介されて挨拶を済ませた。

 日向正太郎は、「ここが『ドリンク』っていうデザートやアルコールを用意するポジション用のワークテーブル」「ここがキッチンの人がフロアの人に運んでもらう料理を出すカウンター」などと説明しながら歩き、

「ここは『ソート』と言って、使用済みの皿を、洗うまでの間、種類ごとに仕分けて置いておく場所で、そのすぐ横が『洗い場』」

そこで足を止め、体の向きを変えてソートと通路を挟んで向かい側のワークテーブルのほうを向き、

「じゃあ、皿の持ち方を教えるから」

言って、小陽のために予め用意してあったのか、もともとそこが置き場所なのか、ワークテーブルの隅に置かれていた、形も大きさも違う数種類の汚れていない皿を下から大きい順に重ねられているのを手元に引き寄せる。

「うちの店は、料理を運ぶのにも食事済みの皿を下げるのにもトレーは使わずに、直接手で皿を持つ。サーバー……料理を運ぶ時には、最大で4枚。小陽は右利き? 」

「あ、はい」

「だったら、左手に3枚。右手に1枚。こうやって」

言いながら、皿を1枚、右手で取り、左掌を上に向け、

「まず1枚目は、皿が左の手の甲のほうに出るように親指と人指し指で挟んで持つ」

実際にやって見せてから、もう1枚、右手で皿を取り、

「2枚目は、左掌の、親指のつけ根から繋がってるよく動く部分と他の指のつけ根とつながってる部分の境に縁を挟んで、裏を人指し指・中指・小指で支える」

やはり実際にやって見せてから、また1枚、右手に皿を取り、

「3枚目は……」



                 *



「お先に失礼します! 」

 皿の持ち方を教わって練習し、それを活かしてファイナルクリーンアップ。ついでにセットアップ……予定としては、そこまでだったのだが、わりと苦労する人の多いらしい、特に女性では7割方が躓くと聞く皿の持ち方が、小陽はスンナリ出来たために褒められ、余った時間で、明日やる予定になっていたミドルクリーンアップまで習って、気分良く今日のオリエンテーションを終え、退勤手続きとして再度タブレットの自分の名前をタッチし、着替えをして、雛菊をあとにした。

 早歩きで向かう先は、駅。昨日、物界から帰る際に自分自身を言いくるめた言葉に従うまでもなく、ごく自然に足が向いていた。




(…あ、雛菊の看板……)

 早歩きで20分ほど。物界の実家へ帰省したお盆休み初日ほどではもちろんないが多くの人で賑わう駅前に、到着した小陽は、駅の真向いのビル、コンビニの2階に、雛菊の看板を発見した。

(やっぱ、他にもあったんだ……。店名に「本店」がついてるくらいだもんね。…じゃあ、こっちは、本店に対して「駅前支店」とか……? )

 そんなことを何となく考えながら、切符を買うべく、小陽は窓口へ。

 すると、窓口の駅員は小陽の周囲をちょっと見回し、

「指導階級の方の付き添いはございませんね? では、許可証を拝見いたします」

(…そっか……)

 すっかり忘れていた。駅まで来れば普通に電車に乗れるような気になっていたが、

(そう言えば、転入者初期研修の時に説明されたっけ……)

 お盆時期以外に物界へ行くためには、指導階級の付き添いか、指導階級の人に書いてもらった許可証が必要なのだ。

 指導階級というのは、定められた研修を受けた後に試験に合格した者が得られる資格で、役場の案内員、肉体の死を迎えた時点での年齢が15歳以下の心体の里親、企業や各種学校・団体の代表等、指導階級の資格を必要とする職業もある。

(…えーっと……。店長は「社長兼」ってことだから、指導階級だよね? )

 また20分もかけて戻るのか、と、内心溜息を吐きつつ、小陽、

「すみません。許可証を忘れてしまったので、取りに行ってきます」

窓口の駅員に言い、踵を返した。

(…他に指導階級の人を知らないし……ううん、知ってるけど、サブローさんがそうだけど、ここからじゃ、研修センターは雛菊よりもっと遠いし、それに……)

 とにかく仕方ない、と、雛菊本店へ。


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