2章【第二部】
────1日あげる。
女はそう言った。
「────1日。
1日あげるから。
手放せないものをできるだけ最小限にして持ってきて。
ないなら、ないでもいいわ。
それと、────お別れを。
どちらにしろ、すぐにここに戻ることは出来ないから。
記憶は操作するけど、君の気持ちに整理がつく方が大事よ。」
さ、行きなさい、と背中を押された。2、3歩進んだ後、女を探して振り返ったが、そこに女の姿はなかった。
女は、"トキコ"と名乗った。
─────────。
クラスメイトの健太が、恐怖におののき逃げ出した、その日の帰り道のことだった。
───どうして怖がっていたのだろう。
ただ、彼の目を見つめただけなのに。
苛立っていたのは確かだが、彼がからかってくるのはいつもの事だし、それが好意を含んでいるのもわかっていた。
彼に対しての苛立ちではなかった。
僕はそんなに恐ろしい顔をしていたのだろうか。
ああ、悪いことをした。
もし、そんな顔をしていて、彼を怯えさせてしまったのなら、それはただの八つ当たりだ。
彼は僕を嫌うだろうか。
だが、それも仕方ないのかもしれない。
僕は、人が恐い。
誰と関わるのも恐い。
一度抜け出した孤独に戻ることは、今ある孤独よりもずっと苦しいに違いないのだ。
彼が僕を嫌いになることは、長い目で見れば、良いことと言えるのかもしれなかった。
少年は思考を巡らせ、とぼとぼと帰り道を歩いていた。
歩くときには足元を見てしまう。
前を向き、胸を張って歩けるほど自分に自信もなかったから。
だから気付かなかった。
──生き物が止まり、色が落ちたことに。
アスファルトは無機質な灰色をしていたために、これといった変化は見られなかった。
騒音も、この場所ではないに等しい。
少年はただ歩き続けるだけだった。
気がついたのは、足。
自分の足先に、誰か別の人の足があった。明らかに自分の行く手を阻んでいた。
数秒止まり、足を避けて歩く。
すると、声が降ってくる。
「──ねぇ、君。」
視線を向けた。先には女が立っていた。
──外人かなぁ。
髪は首までの長さで、銀のかかる、橙に近い朱色をしていた。
目は橙。細い体に、サーフィンをするときに着るような服の、もっと滑らかな生地をした服を着ていた。
見て、宇宙人が思い出された。
───変な服。何かの撮影?
思考を読み取ったように女は、着たくて着ているわけじゃないわ、と照れたように、怒ったように言った。
───女は話してくれた。
もう一つ世界があること。
少年がもう一つの世界の人間であること。
行かなければならないこと。
去らねばならないこと。
トキコと名乗る女を疑う事は出来なかった。
何せ、目の前で健太の姿に変化してみせたからだ。こんなに不可思議な事をできるのなら、おとぎ話の様な女の話も有り得てしまうのだろう。
──彼は素直な子だった。
そして、1日あげる、と。
持って行きたい物を。
そして、別れを。
──お別れ。
別れとは、なに。
別れを告げるほど、親しいなにかがあるだろうか。
別れより前に、出会っただろうか。
父さん、母さん。
両親はあまり家に帰ってこないから、家では大半ひとりだし。
両親に別れを言うなんて、なんだか違う気がした。
両親と離れても痛みがないことが、彼の中で明確になっていた。
────あ。
彼は走り出した。