練習室
真彩の自家用車に乗り込んだ一向は、バベルへと向かう。その車の中の空気は驚くほど軋んでいた。
悪い空気の発生源は一つだが、その原因は二つある。
一つは発生源でもある奏。後部座席の左側に乗った奏は、大和と絶対に顔を合わせないように、徹頭徹尾窓の外を眺めている。しかし、時々窓に映り込む大和の姿に、自然と怒りが溢れてしまうようで、右足は貧乏ゆすりが止まらず、左手は顎を手の平に乗せてコツコツと自分の顎をしなやかな指で叩いている。
ただ、一緒の車に乗っただけならば、こんなにもギスギスはしなかっただろう。
だが、残念なことに原因は二つあった。その二つ目が保月大和。彼は別に、イライラもしていなければ、車内に不機嫌な空気を振りまくことも無い。
だが、挑発はしていた。
自分の姿が窓に映り込む瞬間、その瞬間だけは必ず奏の方向を向いて笑っているのだ。時には満面の笑みで、時にはニヤニヤと、時にはクスッと、わざわざ乗り込む際に奏の隣を陣取るという行動までして煽っていた。
響は大和の右側に座りながら、いつ自分の姉が爆発して車内で大和に襲い掛からないかとヒヤヒヤものである。
一方の志保はそんな空気にもめげず、助手席で部屋から持ってきたお菓子を食べる。
この空気に真っ先に根を上げた真彩は、後部座席に振り返りながら涙目で訴える。
「ねぇ、奏、大和君」
「なに?」
「なんだ?」
「その空気出すの止めてくれない。いい加減辛いんだけど」
奏の出す空気には、大和が煽るせいで怒りのほかにも闘志や若干ながら殺意なども含まれていた。
バベルクライムに参加している選手ならば、そんな意思を向けられることにもなれているが、真彩自身は純粋な中間管理職であって、そんな空気にはなれていない。
「こいつが悪いのよ! いちいち鬱陶しい顔をこっちに向けてきて」
「そりゃひでぇな。俺は今後のチームメイトと少しでも仲良くなろうと努力しているのによ」
「「「『『どこが!?』』」」」
それのどこが努力なんだと、響や真彩のみならず、イクリプスやフォルナからも突っ込まれる。
「笑顔は最大の交渉術だろ?」
「あんたのは明らかに挑発でしょうが! あー! 頭くる! 真彩、まだつかないの! こいつ早くぶちのめしたいんだけど!」
『奏様、バベルまで後およそ十分です』
奏の言葉に、車内のスピーカーから答えが返ってくる。その声はフォルナの物だ。
現在、車の運転はもっぱらAIの仕事であり、運転手は運転席に乗っているだけで、実際にハンドルを握ることはほとんどない。
AIが勝手にルートを選択し、安全運転で運んでくれるため事故もかなり減っている。
「分かってるわよ! いつも使ってる道なんだから!」
『聞いたのは奏様なのに……』
奏がフォルナに怒鳴り返すと、車の速度が目に見えて遅くなった。
「奏、フォルナに当たらないでよ。打たれ弱いんだから」
「あ、う……フォルナ、ごめん」
奏が謝ると、車の速度が戻っていく。それにホッとした奏は怒りを削がれたのか、再び外を向いてしまった。
「大和君も、あんまり奏をからかわないでよ」
「へーい」
大和は気の抜けた返事を返し、背もたれにぐったりと背中を預けて目を閉じた。
ゆさゆさと体を揺らされ、大和は目を開く。
「大和君、到着しましたよ」
横を向けば、響の笑顔があった。少しだけ目を閉じたつもりが、そのまま寝てしまっていたのだ。カプセルホテルでの睡眠では、やはりしっかりと疲れが取れていないらしい。
車の中から周囲を見渡せば、すぐ近くには昨日見たばかりのバベルがデンと鎮座している。今はバベルの客が使う駐車場に来ているようで、平日なのにもかかわらず、車が溢れていた。
バベルクライムの試合は、高ランクほど休日のゴールデンタイムに合わせて試合が組まれ、低ランクほど平日やテレビの視聴率が取れない時間に回されている。
今も、バベルのどこかでは試合が行われているのだろう。ここにある車は、その試合を見に来た客たちの物だ。
「ありがとう」
響に礼を述べ、車から降りると、真彩たちが待っていた。
固まった体をグッと伸ばし、空気を肺に目一杯取り込む。
「ずいぶん余裕ね。すやすや眠っちゃって」
「ま、ただの練習試合だからな。緊張なんてしようがないさ」
「その減らず口、すぐに叩けなくしてあげるわ」
一向は、真彩の後に続いてバベルの中へと入る。
そこはロビーになっていた。正面には数十は窓口のあるフロントとその頭上には巨大な半透明のディスプレイが浮かんでいる。ディスプレイには、今日の対戦予定や、試合会場など色々な情報が載っており、数秒感覚で新しい情報に更新されていた。
あらかじめ予約していた大和達の練習場も、ディスプレイにしっかりと表記されている。
右手にはスタンドタイプの喫茶店のような物があり、大量に並べられたディスプレイには、今まさに行われている試合が映し出されている。
左手は、利用者用の昇降機が大量に並べられ、ひっきりなしにドアが開閉していた。
大和が初めて入るバベルの中に感動していると、フロントに行っていた真彩が、使用料を支払って練習場の鍵を貰い、大和達のもとへ戻ってくる。
「第七練習場よ、地下二階ね」
真彩と奏、志保の三人はなれた足取りで昇降機へと向かって行く。周囲を見回していた大和は少し遅れてその後を追う。響は大和を気にしてか、大和の隣に並んで歩いていた。
「大和君は、バベルに入るのは初めてなんですか?」
「ああ、テレビで見たことはあっても、実際に来たのは今日が初めてだな。斡旋企業登録は事務局だったし」
「じゃあバベルクライムをやったことも無いんですよね?」
「もちろん」
「それなのに大丈夫なんですか? いきなりお姉ちゃんと試合なんて……」
響としては、スカウトした真彩の能力を疑うわけではないが、新人の、しかもバベルクライムを一度も経験したことが無いような人物が、自分の姉に勝てるとは思えなかった。
身内贔屓を抜きにしても、響は奏のことを強いと思っている。これまでの試合で勝ってこられたのは、奏のおかげだということが、チームメイトとして参加しているからこそよく分かっているのだ。
しかも、今の奏は大和の挑発のせいで、加減など一切なしに最初から全力で倒しに行くだろう。それを考えると、今からでも辞めさせるべきなのではないかと思っている。
だが、大和はどこまでも楽観的だ。
「大丈夫だって。俺って結構強いし」
そんなことを言って笑う大和に、余計に不安が駆りたてられる。
「じゃあどれぐらい強いんですか?」
「師匠が言うには、バベルのトップクラスとはいかないまでも、上のランクでも戦えるレベルらしいぜ」
「師匠?」
「そう、俺に戦い方とか魔法とか教えてくれた人。親代わりでもあるかな」
親代わり。その単語に少し気になるものはあったが、今は実力を知ることが大事だと、話しを進める。
「じゃあその師匠の実力は?」
「どうだろ、かなり強いと思うけど、誰かと戦ってるとことか見たことないしな」
それ以前に、師匠が全力を出している所を、大和は見たことが無かった。
健翔がいた時には、二人がかりで師匠に勝負を挑んだこともあったが、簡単に伸されてしまった。その状態ですら、師匠は息一つ乱していた様子は無い。
健翔がいなくなってしまってからも、稽古ついでに試合をしてもらったこともあるが、大和自身強くなっているのにもかかわらず、師匠の底を見ることができたと思ったことは一度も無かった。
「う~ん、それじゃちょっと分からないですね」
「まあ、奏さんと試合すれば分かるって。響さんもちょっと心配し過ぎじゃない? 魔法なしの試合なんだし、怪我っつっても痛みだけだろ」
「そうなんですけどね……あ、あと私は呼び捨てでいいですよ。さん付けとかされると、なんだかこそばゆいですから」
「そうなの? じゃあ響で。俺も呼び捨てで良いぜ」
「それはイヤです」
こっちも呼び捨てにするなら、そっちも。そんな簡単な気持ちで大和は言ったのだが、響は同じ笑顔のままきっぱりと断った。
その即答に、大和は呆気にとられた。
「えっと、なんで?」
「私が男性で呼び捨てにするのは、恋人だけって決めてるんです。その方が、恋人に一途って感じがしません?」
「あ、ああ、そうなんだ。ちなみにその敬語も?」
「これは素ですよ。周りが年上ばっかりの環境で育ったので、癖になっちゃいました。あ、エレベーターもう来てるみたいですよ」
響が指差した方を見れば、真彩たちがすでにエレベーターに乗り込み、大和達を待っている状態だった。
大和達が駆け足でエレベーターに乗り込と、扉が閉じ、滑らかな動きで地下へと下り始めた。
地下二階へとたどり着き、再び真彩を先頭に歩いていく。地下フロアは練習室専用のフロアとなっており、全部で七つの部屋がある。
真彩たちが指定された第七練習場は、エレベーターから最も近い場所にあった。
「ここね」
フロントで渡された鍵を使って扉を開けば、中は何の変哲もないただの四角い部屋だ。バベルのフロアを七等分していることもあって、実際にバベルクライムが行われるフィールドよりも遥かに狭いが、チームメンバーが練習するぐらいならば、問題はない大きさがある。
そもそも、練習するのに問題になるほどのメンバーがいるチームは、大抵の場合が自分達専用のフィールドを作ってしまっているため、ここが使われることも無いのだ。
部屋の隅には申し訳程度に長テーブルと長椅子が置かれているが、それ以外は本当に何もない。
「なんか思ってたのより質素だな」
「ただの練習室なんだもの、当然よ。必要な物は自分達で持ってくる。まあ、ここを使う一番の目的である変換フィールドはしっかり働いてるから大丈夫よ」
「まあそれもそっかね」
「大和君は試合の準備始めちゃってね。奏はもう始めているみたいだから」
真彩に言われ奏を見れば、すでに荷物を置いてストレッチを始めている。
それを見て大和も慌てて準備運動を始める。
その間に、真彩たち残りのメンバーは試合のための準備を進めていく。変換フィールドはフロントで受付を済ませた時点で発動させられているため、すぐにでも試合を始めることはできるが、それ以外のタイマーや観察用のカメラ、何か起こった時のための応急キットなどは自分達で用意しなければならない。
「志保はタイマー設置、響は回復の準備ね」
「わかった」「了解です」
志保は頷いて長椅子が置いてある横の壁に向かう。一見何もないただの壁だが、そこにはARが埋め込まれており、コンタクトを通して見ると、各種機材の設定ができるのだ。
志保は慣れた手つきでARで表示されたボタンを指差していくと、中央の頭上にモニターが浮かび上がった。
「何分?」
「とりあえず十分でいいわ」
真彩が答え、モニターに10:00の文字が表示される。
志保がタイマーを設定している間に、響は自らのAIチップを腕輪から取り出し、それを杖に挿入する。
「起動してください、シルバリオン」
声に球体状の杖が反応し、光に包まれてその姿を変える。それは一張の弓だ。機械的なシルバーに、エメラルドグリーンの線が巻き付いている。
ヒーラー担当の響の杖は、後方から援護の出来る弓だった。
『起動完了しました。異常もありません』
「真彩さん、こっちも準備完了です」
「分かったわ。じゃあ十分後から試合を始めるわね。二人ともそのつもりでアップしておいて」
真彩の言葉に合わせて、頭上のモニターでタイマーが動き出す。それを見ながら、大和は自分の体を温めて行った。
十分後、タイマーがゼロになると同時に、ブザーが鳴る。再びタイマーは10:00を示して動かなくなった。
「じゃあ試合を始めるわよ。お互い位置について」
この試合の審判は真彩が務めるらしく、奏と大和二人の間に立って仕切っていく。
「ルールは魔法の使用を禁止した武術のみでの戦闘。武器はお互いの杖を使用してもらうわ。その方が全力で戦えるでしょ」
「そうね」
「おう」
「試合時間は基本の十五分。勝利条件は、バベルクライムと同じで相手に負けを認めさせるか戦闘不能ないし気絶させること」
真彩は順番に奏と大和の顔を見て、両者が頷くのを確認すると、その場から下がる。
「じゃあ杖を起動して」
「行くわよ! ティアラ!」
待機状態の杖を両手で握り締め、腕を突き出した状態で奏は起動させた。
杖はその姿を両手剣と変化させていく。奏の握っていた部分はそのままこげ茶色の柄へと変化し、光がその上へと延びる。手元から光が宙に舞うように拡散し、光の中から銀の光沢を放つ刃が現れた。
幅の広い剣の腹には、燃え上がる炎のような赤い紋様が浮かんでいる。
奏が完成した剣を握り締め一振りすれば、残っていた光の粒子が飛び散り、火の粉のように奏の顔を照らす。
『奏、燃え尽きるまで戦いましょう!』
「ええ! 今日の得物は目の前の小僧よ!」
『私の剣の錆にしてあげるわ!』
名前からは想像もつかないほど好戦的なAIティアラは、奏と同じように大和を挑発してきた。
「今日の試合じゃ、血は流れないけどな。行くぜ、イクリプス!」
『ほいほい』
大和も杖を突きだし、イクリプスを起動させる。
起動したイクリプスは、大和の身長よりやや短い槍となった。
ひし形の槍頭は鋭利に輝き、漆黒の柄には、流れ星のように幾重にも光の線が縦に入っている。石突きは月のように黄色くなっており、その黄色は真っ黒な柄によって強調されていた。
『起動完了。各種ステータス異常なし、いつも通り、全力で振るっちゃって!』
「当然!」
完成した槍を、大和は右手一本で後ろ手に構える。
奏は顔の右側から剣先を大和に突きつけるように構えた。
お互いの杖が完成し、準備が整ったのを確認した真彩は、右手を高く掲げる。
「始め!」
その手が振り下ろされるのと同時に、頭上のタイマーが十五分のカウントを開始した。