プロローグ2
住人が寝静まった夜。師匠は自室の椅子に腰かけちびちびとお酒を飲んでいた。
『ウィン、元気ないわね』
「コズミック、理由は分かってるんでしょ」
『大和でしょ? あの子も分かりやすいものね』
ウィン。それは師匠と呼ばれる女性の本名だ。ウィンという名前は大和も健翔も知らない。本名を知っているのは、自分自身とサポートAIのコズミックだけだった。
「あの子も本当は出て行きたいんだろうね」
『今日の様子じゃそうでしょうね。まあ、健翔と同じように育てたんだし、そうなるのも無理はないんじゃない?』
ウィンは、目を閉じて今日健翔の試合を見ていた大和の姿を思い出す。
どこまでも真っ直ぐな視線は、健翔や他の参加者の動きを一瞬たりとも逃すまいと画面を睨みつけ、時折小刻みに動く手足は、もし自分だったらどのように動くかを頭の中でシミュレートしている証拠だ。
だからこそウィンは確信していた。大和もバベルクライムに興味を引かれている。それもかなり強く。
兄弟同然の奴がその頂点付近で戦っているのだから、当然と言えば当然だろう。
『どうするの?』
「そりゃ、大和の好きにさせるさ。けどあの子優しい所があるからね」
一人で残ることになる自分のことを思って、出ていくとは言い出さないだろう――それはウィンとコズミックの共通の認識だ。
「まあ、こういう時は背中を押すのが親ってもんでしょ」
『大丈夫よ。私は死ぬまでウィンの傍にいるから』
「そりゃありがたいね。精々よろしく頼むよ」
ウィンはコップに残っていたお酒をグッと一気に飲み干すと、引き出しの中から紙とペンを取り出した。
翌日、大和はいつも通り朝日が昇るとともに起床し、庭で自分の身長とほぼ同じ長さの棒を振っていた。
ヒュッヒュッと棒を振り下ろすたびに風を斬る音が鋭く鳴り、大和の額から散った汗が朝日に輝く。
『197、198、199、はい次ラストー200』
「終わったー!」
日課である筋トレと素振りを終え、棒をその場に投げ出してグッと伸びをする。そこに真っ白なタオルが投げつけられた。
「おっと」
とっさにキャッチし、タオルが飛んできた方を見れば、師匠が寝間着のままコーヒーカップ片手に立っている。
「師匠おはよう」
「おはよう。ずいぶん気合い入ってるね」
「なんか昨日の試合見たらうずうずしちまってな。思いっきり体動かしたい気分だったんだ」
『昨日はあんまり眠れなかったみたいだしね。スポーツ見て興奮して眠れなくなるとか大和はまだまだ子供だな~』
「うっせ、あんないい試合見たら、興奮するに決まってるよな」
「まあそうだね」
大和は汗をぬぐったタオルを首に掛けると、地面に倒れている棒を持ち上げ、庭の隅にある倉庫へと片づけに行く。その背中を見ながら、師匠は自分の考えが間違っていなかったと確信した。
大和はバベルクライムに参加したいと思っている。
ただ、自分の存在が大和の足かせになっているのは間違いない。ならば、親の務めとして子供には才能を存分に生かせる場所に行かせてやるべきだろう。
二人を引き取った当初こそ、自分の趣味で教え始めた戦技や魔法だったが、二人はみるみる内にその才能を開花させていた。
それを証明するように、健翔は今バベルクライムの最上階で戦っている。
大和は隠している様子だが、バベルクライムで自分の力を試してみたいと思っているのは、親からすればバレバレだった。
「これは背中押してやらんとね」
『頑張れ、お母さん』
コズミックの応援を受けて、自分の部屋から昨日の夜書いた手紙を持ってくる。リビングに戻れば、ちょうど片づけを終えた大和が戻って来ていた。
「大和、ほれ」
「んお?」
手紙の入った封筒を軽く大和に投げつける。大和は驚きながらも素早く反応し、その封筒を受け取った。
「なんだこれ?」
大和は封筒の表面や裏を確かめるが、そこには宛先も宛名も書かれていない。
「あんたにお使いを頼みたくてね」
「お使い? これを届けるのか? 郵便で良いじゃん」
「直接渡してもらいたいんだよ」
「ふーん、誰に?」
「健翔だ。時間はどれだけ掛かっても構わないよ」
「…………」
宛先を告げたとたん、大和の目が鋭くなる。
「言ってる意味は分かるね?」
「ああ、けど俺は」
「登ってみたいんだろ? 健翔の登ったあの塔を」
「だけど、俺が家を出たら師匠が一人になっちまう」
『私を忘れないでよね。私は死ぬまで一緒にいるんだから』
大和の言葉を、コズミックが否定する。しかしそれでも、大和は乗り気にはなれなかった。
確かにサポートAIは死ぬまで主人と一緒にいる。だが、そこに人のぬくもりは存在しない。健翔がいなくなってしまった時、子供心に師匠が寂しそうだと感じていたことを、大和は忘れていなかった。
だからこそ、自分はなるべく師匠の傍にいようと考えていたのだ。
「それに、家を出たって帰ってこない訳じゃないんだ。連休には帰って来れるし、電話だってつながる。それとも健翔みたいに音信不通になるつもりなのかい?」
健翔は家を飛び出してからバベルクライムに参加するまでの間、大和や師匠と一切の連絡を取らなかった。
勝手に飛び出しただけに、それなりのけじめだったのだろうが、大和としては生存報告ぐらいしてくれてもよかったのにと思っている。
まさか自分はそんなことをするつもりはない。そもそもバベルクライムに参加しようとしても、企業に所属できなければ参加すらできないのだ。そうなれば、嫌でも家に戻ってくることになる。
「だから問題ないんだよ」
「じゃあ学校はどうするんだよ。まだあと二年あるんだぜ?」
バベルクライムに参加するには、どこかの企業に所属し、そのチームに登録してもらうことで初めて参加が可能となる。企業に所属すると言うことは、就職するのと同義だ。その為、必然的に学校を辞めなければならない。
応用課程の学校は五年間あり、大和は留年なども無かったため残り二年間通うことになっている。それを今放り出すのは、学費を出してもらっている師匠にあまりにも悪い気がした。
つまり、金銭的な問題だ。
しかし師匠は気にした様子も無くあっけらかんと言う。
「別にやめちまえば良いだろ。そもそも、何かしたくて学校行ってるわけじゃないんだろ?」
「それは……」
健翔と違い、将来に明確な目標の無かった大和は、とりあえずという形で応用課程に進学していた。
「やりたいことが出来たんなら、それに全力を尽くしな。なに、飽きたらまた別のことに手を付ければいいんだよ。大和はまだ若いんだから、時間はいくらでもある」
師匠の言葉を受けながら、大和は白い封筒をじっと見つめる。
そして一度俯いて目を瞑ると、袖で顔を拭う。
「師匠……ありがとう。俺ちょっとあいつに手紙を届けて、ついでに塔の最上階まで登ってくるわ」
「おう、学校には私から言っとくから、今日から準備していいよ」
「分かった! 準備してくる!」
自分の部屋に駆けていく大和の背中を見送って、師匠はホッとため息を吐く。
「中退用に作った書類、無駄にならずに済んだね」
『ほんとね。今晩は少し豪華にしましょうか』
「それもそうだね。ちょっといいお肉探しておくれよ。それと学校に連絡するから、電話繋いでおくれ」
『はいはい~』
師匠はヘッドセットを頭にかぶりながら、残っていたカップのコーヒーを飲み干した。
翌朝、朝食を終えた大和は自室で出発の最終準備をしていた。
「着替えは昨日のうちに準備しただろ。後は杖も持ったし、履歴書も持った。他に必要なのはあったっけ?」
『えっと、企業斡旋用の書類は全部そろってるわね。しばらくは宿生活になるけどお金は大丈夫?』
「師匠が一か月分だけはくれるってさ。健翔も同じ条件だからって」
『なるほど、次の月からはバイトでもしなさいってことね』
「それまでに所属企業が決まれば、バイトも必要ないけどな」
企業に所属さえしてしまえば、その月からは低賃金ではあるが給料が出る。一人暮らしを維持するぐらいならそれで十分だ。住む場所も社員寮を使えばいい。
問題は、所属企業が決まらなかった場合だ。今日すぐにバベルクライムの運営事務局に向かい、バベルクライムのファイターを探している企業にあっせんしてもらうための登録は済ませるつもりだが、それで所属が確定するわけではない。
企業の理念や方針によっては、あっせんされたファイターでも蹴られる可能性は十分ある。それは普通の就職活動と同じだった。
その場合、アルバイトをしながら自分で住む場所も探さなければならない。最初の一週間程度ならば、激安のカプセルホテルにでも泊まればいいが、住所が安定しなければ、バイトとして雇ってもらうこともままならないだろう。
そう考えると、バベルクライムへの参加は最初の一週間が勝負だった。
「一応戦技能力なら問題ないはずだし、後はいい会社に出会えるかだな。んじゃそろそろ行くか」
『大和、コンタクト忘れてるわよ』
「おっと、いけね」
イクリプスの指摘によって、大和は持ち上げた鞄をいったん降ろすと、机の上に置いてあるコンタクトレンズのケースを手に取り、蓋を開く。そこには一つだけコンタクトが入っていた。
大和はそれを慣れた手つきで左目へと入れる。
するとコンタクトがうっすらと発光した。大和の魔力を取り込んでシステムが起動したのだ。
『ARコンタクトの起動を確認。アプリ、ARコネクトを起動、コンタクトとリンク開始…………リンク完了。大和どう?』
「オッケーだ。違和感はない。情報もしっかり見えてる」
大和の左目から見える視界には、先ほどまでは無かった文字が中に浮いていた。
ARは、拡張現実といって、物などに埋め込まれた情報チップから情報を引き出し、ARコンタクトを通して投影するものだ。
これは大和が生まれるよりも以前から政府が進めていたプロジェクトの影響である。
魔法科学の発展により、一気に技術の進歩した現代において、古い町並みや譲著を残そうというプロジェクトで、実際の景色を壊すことなく、現代の生活に必要な情報を得るための手段として推進されていた。
おかげで、ただの情緒あふれる商店街にしか見えないような街並みが、コンタクトを通して見るだけでピンク色の看板が溢れ、ネオンがいたるところから放たれる大人のための繁華街へと変貌することもある。
もちろん、ただの光や看板を出すだけのシステムでは無く、ウィンドウショッピングをしながら、服の画像を取り込み、あらかじめ用意しておいた自分の写真と合わせるなどして疑似的な試着をすることもできるし、スーパーへ行けば、生産者の写真や実際に生産している工場などの動画を見ることもできる。
ARの登場以前に比べて、街並みは綺麗なものになり、手に入る情報量も圧倒的に増えたとあって、その情報を準備しなければならない企業からは不評だったが、国民からはかなりの高評価を受けていた。
「んじゃ今度こそ行くか」
服ばかり入っていてあまり重くないエナメルの鞄を肩にかけ、扉を開ける。
リビングでは師匠が待っていた。
「じゃあ行ってくる」
「行っておいで。テレビで大和が見られるのを期待しているよ」
「最高のデビュー戦で飾ってやるから、見逃すなよ。行ってきます」
『行ってきます』
「行ってらっしゃい」
『行ってらっしゃい、大和、イクリプス』
師匠とコズミックの期待を受け、大和は第一歩を踏み出した。