生死の均衡
実に恐ろしきは、不条理なる人の心なり――。
いつもの夜、いつもの家路。
いつもの星、いつもの月光。
その下で、俺は「いつも通り」でないものに出会った。
「ああ、失礼」
それは、少年の姿をしていた。曲がり角から出てきて、俺とぶつかりかけた、ただの少年だった。
「おや」
その唇が、音を紡ぐまでは。
「ああ、すみません。ついまじまじと見てしまって――こんなにもはっきりと死相の出ている方を見たのは、久々だったものですから」
いつもの夜が闇を増す。
いつもの家路がわからなくなる。
いつもの星が姿を消し、いつもの月光が黝く翳る。
「な、ん……」
「気の毒ですが、もって一年ですね。残りの日々を、大事になさい」
そんな慰めにもならない言葉を俺の耳朶に残して、少年は去って行った。
我に返ってその姿を探したときには、既に影すら見えず。
唐突な余命宣告に、俺はまず呆然とし、それから乾いた笑い声をあげた。
「そんなわけないか。馬鹿らしい」
俺はまだ二十代だし、至って健康だ。事故か何かでもない限り、一年やそこらで死ぬわけがない。第一死相だなんて、そんな怪しいもの、信じる方がどうかしている。
「帰ろう。妙なことを言われたなんて、忘れればいい」
俺はそう呟くと、携帯のメールをチェックしながら家路を急ぎ始めた。
ひたり。
何かの足音がする。
おや、と思った瞬間に、また、ひたり。
濡れた裸足の人間が、ゆっくりゆっくり、一歩ずつ近づいてくるような、そんな足音だ。
俺は振り向いた。背後に蟠る闇の中には、何も見えない。
――気のせいか。
そう結論付けて、俺は前に向き直った。
その、瞬間。
「ぐ!?」
何かが、首に絡みつく。すさまじい力で、俺の首を絞め始めた。それを引きはがそうともがきながら、目を落とした俺はぞっとする。
処々が黄色く変色し、元の白かったであろう色を僅かに残している――それは骸骨の手だった。
「うわあ!!」
俺は叫び声をあげて飛び起きた。
いつもの朝、いつものベッド。当たり前の空間がそこには広がり、うごめく闇も、首を絞める骨だけの指も存在しはしない。そのくせ、額に流れる冷や汗と不自然に上がった心拍が、その夢の存在を俺の意識に刻み続けていた。
もう、何日目だろうか。こうして目が覚めるのは。
最初は、あの夜だった。謎の少年に、余命宣告された、あの夜。
死期を明言されたあの日から、まとわりつくような、絡みつくような、死の影が、俺を捕らえて放さない。
「何……なんだ、よっ」
俺は握りしめた拳を、己の膝に振り下ろした。
冗談じゃない。なぜ俺がこんなにもおびえなければならない。きっとただの世迷言に違いないんだ。気にする必要なんて、無いはずなんだ。
何度も自分に言い聞かせるのに、ちらつく黒い影を振り払えない。
「くそっ」
俺は前髪を掻きむしると、ベッドから下りて服を着替えた。
ごちゃごちゃ悩んでいても解決しないなら、動くしかない。当面の手掛かりは、あの少年だ。何のつもりであんな言葉を吐いたのか、問い詰めてやる。そして撤回させるんだ。あれがただの戯言だと証明されれば、きっと俺の気も晴れる。
手がかりと言っても、面識はあの時の邂逅のみ。雲をつかむような話だ。あてなんて、無いに等しい。そうわかっていながらも、俺はじっとしていられなかった。
日の高く上った、真昼の道を歩く。授業に出る気には、なれなかった。周囲の景色は明るいのに、どこか影がかかったように見える。
一日、あてもなくさまよい続けた。
夕刻になって、疲れた足を摩りながら公園のベンチに座る。ふと空を見上げて、日を数えた。
あの日から、一月が経過している。
――もって一年、とあの少年は言った。
ひたり、と足音が聞こえた気がして、俺は勢いよく振り向いた。しかしそこにはウインドウに罅の入った自販機が寂しく唸っているだけで、猫の子一匹居ない。
何かが、頬を撫でた。
視界の端を影が走った。
――気が、狂いそうだ。
痛み始めた頭を抱えるようにして、俺は足早に家へと帰った。
見かけたのは、偶然だった。
数か月、探し続けて、疲弊した俺の視界に。その少年は、あまりにも唐突に現れた。
駅前の、大通りの向こう。高校の制服を着て、何でもないような顔で、彼はそこにいたのだ。
「見つけた――」
夢中だった。信号が何色をしていたかなんて、覚えていない。クラクションの鳴る中を、俺は少年へと一散に駆け寄っていた。
「ちょっと待って。待ってくれ」
俺が声をかけると、少年は驚いたように振り向いた。無理もない。こんな風に突然必死に呼び止められるなんて、そうあることじゃないだろう。
「君、以前俺に、死相が出てるとか言ったろう!?」
俺は少年を問い詰めた。周囲の目も、少年の困惑も、知ったことじゃない。今この時も、死の影が付きまとってくるような、うそ寒い心地が拭えないのだ。
少年は暫く困ったように微笑んでいたが、俺の取り乱しように憐れみを覚えたのか、ひとまずこちらへ、と言って俺を近くの公園に案内した。
「すみませんでした。先日のは、失言でしたね」
少年は自販機で買った缶コーヒーを俺に差し出しながら、やはりどこか困ったように笑った。
「忘れていただくのが一番です」
「忘れられるか!」
俺は叫んだ。
「あれからずっと、生きた心地がしないんだ。まるで死に付きまとわれてるみたいな……変な気配を感じたり、気色悪い夢に魘されたり、もうたくさんなんだよ!」
俺の訴えを聞いた少年は、少し考えるように首を傾げた。
「確かに、だいぶやつれておられますね」
「どうにかしてくれ」
俺はついに、少年に縋りついた。
「何なんだよこれは。俺はなんで死ぬんだよ、なあ」
「落ち着いてください」
少年は俺を宥めながら、何か諦めたように息を吐いた。それから、くるりと辺りを見渡す。
「あなたに死相が出ているというのは、別にあなたに何かが取りついていたり、病気が潜んでいたりするわけではないのですよ。ただ、そういう命数だというだけで」
「命数?」
俺は眉を寄せた。そんな言葉は、胡散臭い占いの類でしか聞いたことが無い。
「わかりやすく言うと、予め定められた運命ということです」
運命。つまり、それは、避けられないのか。
「冗談じゃない!」
思わず、怒鳴りつけてしまう。
「そんなのあってたまるか!」
「信じる信じないは自由です。俺が言いたいのは、幻影に怯える必要はないということですよ。あなたには何も憑いたりしていないのだから」
少年は微笑む。しかしその言葉は、何の慰めにもならなかった。
「でも俺は一年で死ぬんだろう!?」
「命数など信じないとおっしゃったのでは?」
そう問い返してきた少年は、心底不思議そうだった。
皮肉や揚げ足取りで言っているわけではない。本気で、俺の発言の矛盾が理解できないといった顔だ。
かっとした。
俺は少年の胸ぐらを掴んで、言った。
「わかりやすく一言で言ってやる。俺は死にたくないんだよ」
少年は怯えるそぶりも見せなかった。ただ、少し困ったように溜息を吐いただけだった。
「わかりました。まあ、俺の失言が招いたことですし」
少年が軽く俺の手を叩く。力なんて入っているようには思えなかったのに、俺の手はいとも簡単に少年の襟から離れた。
「一つだけ、方法があります」
少年は涼しい顔で襟元を正し、すっと南の山を指差した。
「まず、酒と肴を用意しなさい。三日後にここから真っ直ぐ行ってあの山を登ると、桑の木の下で碁を打っている者がいるはずです。その二人に酒と肴を差し出して、対局が終わるまで黙って待ちなさい。何も言わずに黙って頭を下げるのです。少なくとも、絶対に対局の邪魔をしないように」
最初の感想は、何だそれ、だった。昔話じゃあるまいし、そんな馬鹿なことが。この少年は、俺を担いで遊んでいるのではなかろうか。
しかし、そう言った少年の顔は真剣そのもの。俺はとにかく試してみる気になった。
「わかった。それで寿命が延びるんだな」
「うまくいけば」
少年が頷く。俺は半信半疑ながら、少年の言葉に従うことにしてその場を後にした。
その夜、夢は見なかった。夜道で後をつけてくる足音も、聞こえなくなった気がする。
そして、三日後。
俺は言われた通り、山へ向かっていた。草木は深いが険しい山ではなかったので、酒瓶と肴を担いでいても何とか登れる。
やがて、木が見えた。その根元に、座している人影が、二つ。
本当に居た。
俺は木の陰に隠れたまま、少し様子を窺うことにした。
「近頃はどうだ」
問いかけたのは、真っ白な衣を纏った男。対面に座る赤衣の男が溜息を吐く。
「相変わらずだ。人は殖える一方だな」
ぱちり、と石が盤を打つ音がした。この二人は碁を打ちながら喋っているのだ。
「そろそろ俺に勝たせてみろ。貴様の仕事を減らしてやろう」
白衣の男が言う。赤衣の男は肩を竦めた。
「生憎だな。私は己の務めを放棄する気は無い」
わけのわからない会話を聞きながら、俺はそうっと二人に近づいてみた。碁盤を挟んで座っている二人の膝元に杯を置き、酒を注ぐ。二人は碁に熱中しているせいか、俺には気づかないようだった。
「待て、そうくるか」
「長考か?珍しいな」
「む。いや、少しだけ待て」
白い衣の男が腕を組み、盤面を睨み付けたまま動きを止める。赤衣の男は愉快げにそれを眺めながら、何気ない様子で杯を取り、酒を飲んだ。
「よし、こちらだ」
「む」
暫しあって、白衣の男が石を打つ。今度は赤衣の男が唸った。
「言っておくが以前のような長考は勘弁しろ。二十年も待たされてはさしもの俺も退屈だ」
二十年。
俺は目をむいた。
彼らが何者なのかはわからないが、只者でないことはわかる。碁の長考一回に二十年。そんなことをされたら、俺は対局が終わる前に死んでしまう。
「あの……!」
気づけば、俺は声をかけていた。二人が一瞬動きを止め、それからゆっくりとこちらを向く。
「人の子か」
赤い衣の男が、俺をまじまじと眺めてから言った。
「どうしてここへ来た」
白い衣の男は、じっと俺を睨みつけている。冷や汗をかきながら、俺は用件を述べた。
「あの、俺、寿命を……命数を延ばしてもらいたくて」
「諦めろ」
にべもなく、赤衣の男は言った。興味を無くしたかのように盤面に目を戻し、石を打つ。
「諦めろって……!」
「五月蠅いぞ、人間」
食い下がろうとする俺に、白衣の男が冷たく言い放つ。目は盤上に据えたまま。石を持ち上げ、乾いた音を立てて盤に叩きつけた。
「命数は定まっている。人の身で我らの勝負を妨げるな」
ひた、と冷たい手で背筋を撫でられた心地がした。
一度は去った死の影が、歓喜の声を上げて俺を取り囲む。
「ふざけるな!」
俺は怒鳴って、立ち上がっていた。
「なんでだよ!俺はちゃんと、言われた通りに……」
――言われた通りに、したか?
ぞっと、全身の毛が逆立つような緊張を、俺は感じた。
少年は言った。「対局が終わるまで黙って待て」「絶対に対局の邪魔をしないように」と。
「興が失せたな」
赤衣の男が、摘まんでいた碁石を放り投げた。緩く弧を描いて盤上に落ちた碁石は、盤面に並んでいた石の列にぶつかり、その並びを乱して止まる。
「まったくだ」
白衣の男が頷いて、手にした扇子を振るった。盤上の石が薙ぎ払われ、耳障りな音を立てながら飛び散る。ぶつかり合いながら中空に浮いた碁石は、地に落ちる前に霞のごとく消えた。
「優位だったのはお前だ。この度はお前に勝ちを譲ろう」
赤衣の男はそう言って、懐から取り出した何かを白衣の男の方へ放った。それを受け取った白衣の男は、するりとそれを紐解く。それは、一幅の巻物だった。
「貴様の余命はあと一年も無いな」
白衣の男が呟く。俺はどきりとした。
「そ、そうだ、だから……」
あの巻物に、命数が書いてあるのかもしれない。だとしたら、あれを書きかえれば、俺の寿命は……。
希望を見出した俺は、続く赤衣の男の言葉に耳を疑った。
「この場で冥府送りにするか」
「なっ……」
抗議しようとした俺を、冷たい視線が射抜く。
「我らの勝負を邪魔立てしたのだ。罰としては軽すぎるくらいだろう」
そんな。
俺はがくりと膝を落とした。なんで、こんなことに。
「いや」
白衣の男が否定を口にしたことで、ほんの少しの希望が見える。俺は縋るような目を彼に向けた。白衣の男はそんな俺を一瞥してから、巻物を懐にしまう。
「命数は変えん。己が何をしでかしたか、じっくり見せてやるのがいいだろう」
そう言って、俺を見下ろす。
「貴様は我らの勝負を邪魔した。結果、俺が勝利した」
白衣の男の視線を受けた瞬間、俺にまとわりついていた影が霧散した。
代わりに何か、もっと暗くて更に冷たく恐ろしいものが、ひたひたと迫ってくる。
「知らぬようだから教えてやろう。俺は北斗、死を司る神」
どん、と大地の底が鳴動するような衝撃を感じた。どこか遠くで黒煙が上がるのが、山の木々越しに見える。
「俺の勝利は即ち、死が生を凌駕する時間の始まりを意味する」
ばさり、と彼が衣の袖を払う。俺は呆然とその様を見ていた。
「山を下りるがいい、人間」
話は終わったとばかりに、二人が立ち上がる。空が急速に掻き曇ったように見えた。
「己の引き起こした災厄を、その目で見届けよ」
二人の姿が消える。俺は呆然としたまま、山を下りた。
それから、数か月。
世の中には天災と人災とを問わず、様々な凶事が起こった。たくさんの人が命を落とした。
俺の身辺には、相変わらず冷たく暗いものがまとわりつき、嘲笑っている。
俺はふらふらと、とある山裾に建つ一件の家へと向かった。そこに住んでいるのだと、半ば強引に例の少年から聞き出していたのだ。
「いらっしゃい。うまくはいかなかったみたいですね」
少年はそう言って、俺を出迎えた。
「本当に恐ろしいのは、人の心なのかも知れませんね」
縁側に座して空を見上げながら、少年は呟くように言った。
「死を恐れるあまり幻影を作り出したのも、焦って彼らの対局を遮ってしまったのも、あなたの心中の影がさせたこと。それさえなければ、あなたは苦しむこともなかったのかもしれない」
その言い方に、俺は何だかかちんときた。まるで全部俺が悪いかのようにこの少年は言うが、もとはと言えば。
「もとはと言えば、お前が俺に変なことを言ったのが……!」
全部、言い切る前だった。
鈍く不快な音がして、俺の頬に血潮が散った。
「ぐ……っ」
少年がうめき声をあげ、咳き込む。
その胸から白刃が生えていることに気づいて、俺は悲鳴をあげそうになった。
「う……」
少年はそれでも振り返り、かすかに笑う。
「痛いよ、北斗神君……」
「だろうな」
いつの間にか少年の背後に立っていたあの日の白衣の男が、無情に言って少年の背に突き立てた剣を引き抜いた。夥しい量の血が流れ出る。
「やはり貴様か。愚かな人間に我らの居場所を教えたのは」
気が付けば、赤衣の男も姿を現していた。庭に立ち、呆れたようにこちらを見ている。
「ほどほどにしておけ、北斗」
「構わん。こいつも自分が罰に値することはわかっている筈だ」
北斗神君は血の滴る剣を提げたまま、少年を見下ろした。
「でなければ、いくら不意打ちとはいえ防げたはずだからな」
平静な会話を続ける彼らとは対照的に、俺はがくがくと震えていた。
信じられない。
目の前で、人が刺された。それも剣でだ。血が、あんなに流れて。致命傷だ。助からない。
なのに、少年は痛みを堪えながらも、どこか冷静だった。
「これはこれは、南斗神君、も……この陋屋に、ようこそ」
「減らず口は健在か」
北斗神君が舌打ちをして、少年の背中を足蹴にする。
「貴様何故愚か者に我らの居場所を教えた。また客の願いとやらか」
「いや……」
少年は身を起こし、壁に凭れ掛かりながら首を振った。
「今回は、客じゃない、よ。ただ……俺が、口を滑らせたから」
「捨て置けばよかったのだ」
南斗神君が不快げに口を挟む。
「人間を助ける義理など無いだろう。愚か者に教えて失敗を招くくらいなら放っておけばよい」
「まあ、そうかも、ね……」
少年は笑う。北斗神君が、また舌打ちをした。
「救う人間くらい選べ。貴様が割を食ってどうする、馬鹿が」
「おや、心配してくれるのかい?」
少年が言うと、北斗神君は露骨に嫌そうな顔をした。南斗神君が肩を竦める。
「行くぞ、北斗。用は済んだ」
「ああ」
二人が相次いで姿を消す。後には血まみれの少年と、俺だけが残った。少年がこちらを向く。
「驚かせて、すみませんでした。ええと……」
「うわあっ」
俺は混乱していた。
ここでこの少年が死んだら、俺はどうなる。まさか、殺人犯にされるのでは?
怖かった。
とにかく無我夢中で。気が付くと、俺は逃げ出していた。
その後少年がどうなったのか、あの日の体験が一体なんだったのか、俺は知らない。
ただわかっているのは、あの日から起こる災厄の全てが、俺の引き起こしたものだということだけ。
全て、俺のせい。
耐え切れなくなった。
俺は椅子の上に立ち、天井から吊り下げた紐に輪を作り、そして――。
「実に恐ろしきは人の心」
縁側に座した少年が、静かに呟く。
「それは時に人の命すら奪う……難しいものだね」
月夜を吹き抜ける清涼な風が、少年の頬を撫でて行った。
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