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4話 「変化:その1」

「財布、落としましたよ」

 太一は振り返った。立ち止まった二人を、受験生達が顔をしかめて避けていく。髪の長い女だった。

「あ、どうもありがとう。助かったよ」

 いえ、とペコリと頭を下げる彼女から財布を受け取り、今度はポケットでなく鞄にねじ込む。敬語を使わないのは、彼女がベージュ色のハーフコートにジーンズという私服姿でやってきていたからだ。センター試験の会場にいる大学の教員は、一人残らずスーツで身を固めている。

「学部はどこを受けられるんですか?」

 女が微笑みながら太一に尋ねる。とても澄んだ、上品な声だった。

「経済学部。数学全然ダメなんだよね。そっちは?」

「私も経済です。行きたい専攻があるんです」

「ちゃんとやりたい事決まってるんだなあ。なんか大人だな」

 それはお世辞ではなかった。彼女の全身や立ち振る舞いは、穏やかで、何処か浮世離れした雰囲気を漂わせていた。驚けば真ん丸になりそうな大きな目を細め、白い肌と艶やかな黒髪に良く映える赤色の唇から流れ出す白い声を聞くと、誰もが「絵に描いたようなお嬢様だ」と見とれてしまう。太一も例外ではなかった。

「そんな事ないですよ。就きたい仕事がある訳ではなくて、ただ漠然としてみたい、ってだけですから」

「したい事があるって時点で大人だよ。数学嫌だからって理由で文系行った俺とは大違いだ」

「正直なのも素敵だと思いますよ」

 女は嫌みのない自然な調子で言った。太一は曖昧な笑いをして、頭を掻いた。

 女は、「では、頑張ってくださいね」と言い残して、踵を返した。腰まで伸びた髪が螺旋状に女の動きを追った。

 太一は別れの手を挙げたまま女を見ていたが、身震いをすると本来の目的を思い出し、トイレに向かった。



 太一はいつもより重く感じるドアを開け、玄関へなだれ込んだ。リビングのソファに何とか辿り着き、息を整える。

 国公立大学へ進学する場合、センター試験でつまづくと全てが終わってしまう。慣れない遠出や失敗できないプレッシャー、二日連続の試験に、受験が一段落した安堵感…様々な思いや状況で、太一は疲れ果てていた。

 一日目に出会った彼女も、結局今日は見かけることはなかった。制服や私服でごった返す会場では、意識して探しても、お目当ての人物を見付けだすことは困難だろう。

 漫画だとこういう時、また会ったりするんだろうなあ。

 太一は目を閉じたままソファに身を沈めてそう思った後、改めてお礼を言うためだから、と頭を振った。

 先の気持ちを消し去るように、ソファに自らの体が沈みこむ肌触りをじっと感じていると、階段を駆け降りる音が聞こえてきた。太一は一瞬顔をしかめると、改めてソファに浅く座り直す。 やがてパジャマ姿の桜がリビングに姿を現し、にこにこ顔で太一に駆け寄ってきた。

「兄ちゃんお疲れ様!どうだった?」

 桜の薄く茶色がかった黒髪が太一の左頬に触れる。太一は顔が近いと振り払う気力も無く、

「ああ、まあ、それなりだよ」

「ふーん、そっかあ。どう?志望校受かりそう?」

「分かんないよそんなの。二次試験もあるんだから」

 太一はソファの前に置かれたテーブルをぼんやり眺めながら言った。テーブルの端にはエアコンとテレビのリモコンが並べて置かれていた。

「……兄ちゃん、疲れてる?」

「ああ、疲れてる。だから、悪いけどちょっと休ませてくれ」

 そう言うと、太一はのっそりとした動きで立ち上がり、鞄を手に取った。

「兄ちゃん、ご飯くらいは食べた方が…」

「今日はいらない。お前もこんな所で油売ってないで早く勉強しなさい」

「……うん、分かってるよ」

 小さく返事をした桜を振り返る事なく、太一は階段を上り、部屋に入って服を脱ぎ、ベッドに倒れ込んだ。翌日に高校で試験の答え合わせをして、無論勉強もしなければいけない。少しの間、太一の頭の中でぐるぐると思考が回っていたが、やがて意識はまどろみの中に消えていった。

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