3-2話 「日常:その2」
教室のドアを開けると、皆が一斉にこちらを振り向いた。
何の事はない。まだ椅子の半分近くが埋まっていない時間帯、登校してくる友達を待つ生徒がこちらを確認しただけだ。教室に入った者がお目当ての人物で無いと知ると、皆興味を失ったようにそれぞれの作業に戻る。珍しくない光景だった。
しかし、桜はどうしてもこの瞬間が好きになれなかった。クラス中の視線を感じた瞬間、咎められているような、刺すような物を感じてしまい、いつも胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚える。その後何もなかったように元に戻るのも、「お前はお呼びじゃない」と言われているような気がしてしまうのだ。桜としては、出来ればもっと遅い時間帯に登校したいが、太一と登校時間を合わせようとすると、遅くても今くらいの時間になってしまう。毎日のようにこの視線を浴びても、未だにこれには慣れなかった。
桜はとぼとぼと教室の奥へ進み、自分の席に付いた。最後列の桜の席からは、楓とその取り巻きの姿が見えた。楓達はお喋りに夢中で、桜が教室に入ってきた時、その内の誰も、楓も振り返らなかった。桜には、それが嬉しいことなのか悲しいことなのか分からなかった。
「ていうかさー、今日の一時間目なんだっけ?」
「理科でしょ、確か。宿題もあるわよ。やってきた?」
「えー!知らないよそんなの!」
楓の指摘にクラスメイトは嘆きの声を上げた。
「だって前の時間何も言ってなかったじゃん!!」
「言ってたのは三週間前よ。今日が締め切りだって」
「そんなの覚えてるわけないじゃん!大体一回言っただけで済ますかふつー」
「まあアイツのやりそうなことだけどね」
横から別の生徒が口を挟む。アイツというのは理科の授業を担当している小西のことだ。痩せぎすの顔の眼鏡をつり上げて生徒に嫌みを言うのが得意で、一部の男子を除いて評判は頗る良くなかった。
「あー確かに。絶対アイツわざとやってるよーマジ最悪…忘れたらネチネチ言う気だよ」
だからさ、と楓に手を合わせる。
「楓さん、宿題見せて!お願い!!」
「だーめ。あなたの為にならないじゃない」
「そこをなんとか!」
「あなたの為だから」
楓がニコニコと満面の笑みで言い放った。
「仏の顔した鬼や…」
楓の取り巻きや男子を含めた他のクラスメイトは、彼女を「楓さん」と呼ぶ。クラスで浮いているわけでも、遠慮されているわけでもない。知らぬ間に誰ともなく呼ぶようになっていた。子供たちの中に、彼女に対する不思議な畏敬の念があった。
理科の宿題かぁ。忘れてたな。
楓と比較されることは辛かったが、楓の方が多くの面でより優秀なのは事実だった。桜は、こうした楓のしっかりした一面を見ると、比較されるのも当然かもしれないと考えてしまう。その思いは桜をより萎縮させ、自信を失くしていく。悪循環だった。
楓一行の笑い声が教室に響く中、勢いよくドアが開かれた。クラスメイトが一斉にドアを見る。桜も半ば反射的にドアを振り返った。またも期待外れの生徒達の顔は方々に四散していく。桜を除いて。
「おはよー桜ちゃん!!」
「あ、良ちゃん。おはよう」
良ちゃんと呼ばれた女子が、桜の右隣の席に腰を下ろす。彼女の名前は良子といった。
良子は息をつく暇もなく桜に次々と話しかけた。
「ねえねえねえねえ、昨日のアレ見た?あれの主人公の子めちゃくちゃカッコよくない?マジでヤバかった!」
「それじゃ全然分かんないよ…ドラマ?」
「えーなんでよ!あれじゃんあれ!昨日から始まった奴!なんだっけなー…忘れちゃった。ま、いっか。ていうか昨日さ、家でゴロゴロしてたらお母さん急に部屋入ってきたんだよ。ノックとかしろよって感じじゃない?」
「いいんじゃない?うちはそれくらい普通だよ?」
「そりゃ桜ちゃんは姉妹で部屋使ってるからじゃん。アタシみたいに一人部屋だとプライバシーが大事なわけよ。親しき仲にも礼儀ありって言うじゃん?」
うーんそうかなあ、と桜が首を傾げる。
二人はいつでもこの調子だった。良子がひたすら喋り、時折桜が相槌を打つ。良子は人の話を聞くより自分が話している方が好きだったし、桜も自分から話すより、人の話を聞く方が楽しかった。お互いにとって、この関係は心地よかった。
次第に空いた座席も減り、教室の中が賑わってくる。桜はこの瞬間だけ、自分が他と一体になれる気がした。二人はチャイムが鳴り、担任が姿を現すまで話し続けた。
「ちょ、桜ちゃん。起きなよ」
良子が小声で囁くと、
「ふぇあ!?」と奇声を上げて桜が飛び上がった。教室にくすくすと幾人かの笑い声が上がった。
「おはようございます、桜さん」
いつものように小西が、嫌らしく眼鏡を光らせて言った。
「よっぽどお疲れのようですね。それとも私の授業は聞く価値も無いということですか?」
「いえ、あの…ごめんなさい」
「いいんですよ、寝てても。成績はガンガン落としますけどね」
「………」
何も言えず肩を落とす桜を見て満足げな表情を浮かべて、
「しかし、楓さんは優秀なのに、どうして妹の桜さんはこんな調子なんですかねえ」
桜の鳩尾にチクリと痛みが走った。
「もしかして、栄養が全部楓さんにいっちゃったんですかねえ」
小西は静まり返る教室で一人、卑屈な笑い声を上げた。
「あ、もう座っていいですよ。ただし、もう寝ないように」
桜は俯いたまま、黙って椅子に座る。
「あ、あの、ごめんね桜ちゃん、あたしがもっと早く起こせば」
「…いいよ。寝てたのは事実だし」
「アイツの言うこと気にしなくていいからね」
「うん、ありがとう」
最後まで、桜は机を見つめたままだった。
太一が帰宅したのは19時も半ばを過ぎた頃だった。
16時頃に授業を終え、18時まで教室に残って勉強し、片道1時間半ほどかけて帰宅の途を来た。教室に残って勉強したのは、勿論桜に時間を取られて勉強する暇が無くなるのを恐れたためだ。そろそろ12月も下旬に差しかかる今では、太一も、太一の同級生達もピリピリしていた。
「ただいまー…」
太一は小さく肩をすくめてドアをくぐった。いつもなら桜が階段を駆け降りる音が聞こえてくるはずだが、今日は何の物音もなかった。ほっと胸を撫で下ろす。
太一はリビングへ行き、冷えかけた焼鮭を頬張り、ぬるい味噌汁を啜る。茶碗に新しくよそった唯一温かいご飯を頬張ると、太一の脳裏に桜の顔が浮かんだ。太一にとってもやはり、桜は家族の中で一番気を許せる存在だった。
慣れない手つきで食器を洗って乾燥機へ突っ込むと、自分の部屋へ戻る。ベッドを見ると、布団が不自然に盛り上がっていた。山が小さく上下に揺れている。太一はため息をついた。
太一はベッドに近付く。桜は静かに可愛らしい寝息を立てて、枕を抱きしめて眠っていた。枕には幾つも何かに濡れた染みがあった。
太一は布団を剥がそうとした手を止め、胸までずり落ちた布団をかけ直すと、
「先に風呂入ってくるか」と一人小さく呟き、部屋を後にした。
熱めに沸かした湯船に一気に浸かると、思わず息が漏れた。疲れて凝り固まった体がゆっくり、次第にほぐれていくのを感じながら、太一はしばらく目を閉じていた。
と、脱衣場から何か物音が聞こえた。太一は湯船の中であたふたと体勢を立て直す。
「え、嘘だろ…桜は寝てるはずだし…」
もしかしたら家族が本当に間違えているのかもしれないと思い、
「あのー……今入ってますよー」
と恐る恐る声をかけると、
「え?何?わかんない」と嬉しそうな桜の声。太一は湯船から飛び上がった。
「だから入ってるって言ってんだろー!」
「え?誰か入ってるの?よく分かんないな」
太一は開きかけたドアを慌てて閉める。
「あ、閉めないでよ」
「いや入ってくるな!というか中に誰かいるって分かってんじゃないか!」
「もういいじゃーん。一緒にお風呂入ろうよ」
「遂に建前も捨てやがった!!ダメです!もう出るから自分の部屋に戻って下さい!」
「え、裸で部屋に戻れって?兄ちゃん変態だねえ」
「服脱いでんのかよ…早く服着ろ」
「嫌だと言ったら?」
「本気で怒るぞ」
「ちぇ、ケチ」
桜は渋々といった様子で服を着ると、太一に「覗くなよ」と釘を刺されて脱衣場を出て行った。
太一はドアの間から脱衣場の様子を伺い、桜の姿がないことを確認すると、外へ出た。ドアでの攻防に多くの時間を費やしたにも関わらず、太一の顔は紅潮し、体中と下腹部に熱い血が流れ続けていた。太一の理性と裏腹に、徐々に桜を妹から女として意識するようになっていた。
違う、違うんだ。違うんだよ。
太一は暫くそこに立ち止まり、頭の中で何度も、何度もその言葉を繰り返した。
日付が変わり、太一が布団に入って寝静まった後、桜は太一の部屋の前にいた。
「兄ちゃん、起きてる?」
ドアの前から独り言のように呼びかける。返事は無かった。桜はドアの前に立ったままぽつり、ぽつりと話し始める。
「あのね、今日学校で嫌な事があったから、帰ったら兄ちゃんに聞いてもらおうと思ったんだけどね、なかなか帰ってこなかったから、部屋で待ってようと思ったんだけど、眠くなっちゃって。迷惑だよね、やっぱり。ごめんなさい。でもね、大好きなんだ、兄ちゃん」
桜は額をドアに押し付けた。暗闇の中で、仄かに頬に赤みが差す。
「布団、ありがとう。嬉しかった。寝たふりしててごめんなさい」
言い終えると、桜は自分の部屋に戻った。太一は夢の中で、その言葉の断片を微かに聞いた。
3話はこれで終了です。
しかし2日毎に更新とか慣れないことはするもんじゃなかった…
時間かけるとやはりクオリティは段違いですね。
これからは1週間に一度くらいの間隔で更新していきたいです。