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3-1話 「日常:その1」

 悪夢を見た。

 暗闇の中、寝ている俺の顔を何かが覗き込む。体が動かず、目を開くことも出来ない。瞼の裏の暗闇をただ見つめて、時折闇の中を黒い影がよぎったような気がしておののく。顔のすぐ上に確かな圧迫感を感じる。

 じっと身を固くしていると、「何か」が動く気配がする。それが、自分の顔にどんどん近付いているのだと気付いた瞬間、背中にヒヤリと嫌な電撃が走る。出来れば、目を開けてベッドを飛び出して逃げてしまいたい。そうでなければ、このまま意識を失ってしまいたい。しかしどんなに強く願っても、体は動かないし意識は消えてくれない。

 「……ちゃ……き…」

 「何か」が、囁く。小さく、何度も。さらに体を強張らせて耳を澄ます。しかし、耳を澄ませば澄ます程、意識が遠のいていく。耳を澄ます。声が遠のく。……遠のいて…。


「兄ちゃん、まだー?」

 太一は桜の声で目を覚ました。寝ぼけながら体を起こすと、ドアの間から桜が顔をのぞかせたところだった。肩まで伸ばした髪に型がついて、毛先が方々に散っている。

「学校遅れちゃうよ?」顔を横向きにしたまま桜が言う。

 太一はうーんと曖昧な返事をしながら布団に視線を落とし、朝のまどろみに身を任せる。最近は桜の対応に追われた分の勉強を深夜に繰り下げていたので寝不足気味だった。

 その様子を見た桜は、ニヤリと笑みを浮かべる。こっそりと部屋の中に入り、うとうととまばたきをする太一の横へ忍び寄ると、

「起きろー!」と一言叫んでベッドへ、正確には太一の胸元へ飛び込んだ。太一の肩を持って激しく揺する。

「起きろ起きろ起きろ!」

「うわー!起きてる!起きてるから止めろ!」

「起きてないー起きてないよー起きてないから…んー」

 どさくさに紛れてキスをしようとする桜の顔を慌てて手で制し、

「これがおかしいと思うくらいには目が覚めてるから。ほら、着替えるから早く外でなさい、遅刻するだろ」

「遅刻するのはあたしのせいじゃないもん…」と愚痴る桜を部屋から追い出す。

 朝からぐったり疲れた心を奮い立たせ、寝間着を脱ぐ。と、音もなく微かにドアが開くのが見えた。

「おい」

 太一が声を掛けると、「バレたー」という声の後、階段を駆け降りる音。太一はため息をついた。いつしか太一は、ため息が癖になっていた。


 制服に着替えてリビングへ降りると、いつもの剣幕でまくし立てる母と、桜の姿があった。

「あなたももうすぐ高校生になるんだから、ちょっとは落ち着いてもらわないと…ただでさえ楓ちゃんより成績も良くないんだから、少しは楓ちゃんを見習って勉強して大人になりなさい」

 桜を見下ろしてぺらぺらと口が回る。見ているのか、桜のことを。見えないのか、俯く桜の震える体が、白くなるほど固く噛み締められた唇が。

 太一が桜を見つめていると、玄関から声が飛ぶ。

「おかあさーん、行ってきます」

「あらあ、楓ちゃんもう行くの?気をつけてね、いってらっしゃい」

 母は先と打って変わって、赤子をあやすような猫撫で声で楓を見送った。

 楓は桜を一瞥すると、眉一つ動かすことなく振り返り、玄関のドアを開けて長く豊かな髪をなびかせて歩いていった。

「楓ちゃんったらわざわざ挨拶してくれるなんてねぇ、偉いわね」

 母はさも満足そうに肯いてから、

「あら、どこまで話してあげたんだっけ。ああ、そうそうそれにあなた、太一の所ばっかり行ってるらしいじゃない。遊んでばかりいると…あら、太一。いいところに来たわね」

 太一を見咎めた母は、太一へ矛先を変える。

「楓ちゃんから聞いたわよ。あんた桜を甘やかしてるんですって?ダメよこの子は甘やかしたりなんかしちゃ。結局調子に乗るだけなんだから…」

「母さん。俺今日朝ご飯いらないから」

 太一は食い気味に言葉を被せた。太一と母は特別仲が悪いわけではないが、少なくとも桜を擁護するような態度を取ることに関しては、快く思っていないらしい。

「あ、ちょっと…」

「遅刻しそうだから帰ってきてからにして!!」

 呼びとめる母の声を遮って、太一は桜の手を取り、玄関を飛び出した。

 夜の冷たさが色濃く残るアスファルトを、二人黙って歩く。桜の手は、冷たかった。それなのに、手の平には汗がじっとりと滲み、太一の手を滑らせる。

「…その、大丈夫か」

 暫くの後、太一がぽつりと言った。

「うん、兄ちゃんが手、握っててくれるから」

「そうか」

 また暫くの間、無言で歩く。そろそろ桜の学校と、太一の学校との別れ道へ差しかかろうという所で、

「寝癖、直せなかった」

「あ、そっか…ごめんな」

「ふふ、いいよ。…ねえ、兄ちゃん」

「ん、どうした?」

「ありがとう」

 太一は桜の方を振り向いた。桜は微笑んでいた。太陽の光が桜を照らす。真冬の朝の日差しは弱いはずなのに、桜の笑顔はどうしようもなく眩しかった。

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