2話 「確執」
太一はまたため息をつく。狭い個室の中で、トイレットペーパーの回る音がカラカラと虚しく響いた。トイレの中でも、太一が考えるのは頭を悩ませる妹の事だ。
最近の妹の様子は異常だ。どこへ行っても後を着いてきて、何をしていても突撃と干渉を受ける。
そのせいで、今ではトイレや風呂の中でしか、太一の心休まる一時がない。今回も、問題を一問解くごとに要求されるご褒美のハグやキスの数々に肝を潰して、この城へ逃げ込んだところであった。もっとも、最近は風呂に入っていると、「週に3回」ほど、「間違えて」桜が入ってこようとするので、その牙城も徐々に綻びを見せ始めているが……。
「妹としてなら可愛いんだけどな……。どうしてこんなことに……」
太一の嘆きも、やはり開いた窓の外へと流れて消えていった。
太一がトイレを出るのと、姉妹部屋のドアが開くのは同時だった。
部屋から姿を現した少女は、素早い神経質な動きでドアを閉めなおすと、太一に脇目も振らずきびきびとした足取りで廊下を歩きだした。そろそろ夜も更けてきた頃合いだが、ぴっちりとしたデニムに真っ赤なセーターで身を包んでいる。
「おお、楓か。びっくりした」
「………」
太一は軽く手を挙げて言った。楓は全く無反応で太一の向こう側の階段へ歩いていく。
「お前も、解らん教科あったらたまには見るぞ」
太一の言葉を聞いて、楓は突然立ち止った。太一と、向かいの壁を挟んだ隙間に立ち、切れ長の目をさらに細めて太一を睨みつけた。
「何様のつもり? あんたに教えて貰わなくても勉強出来るし。……あいつと違って」
「…あいつじゃなくて桜、な」
正反対な双子の唯一似ている点が、お互いを嫌いなところ。双子は悲しい一致を見せる。
「どっちでも一緒じゃん!キモいのは一緒!!根暗で勉強も出来ないくせにあたしの妹とか最悪!!!鬱陶しいんだよ馬鹿のくせして兄妹で気持ち悪い!近親相姦でもすんの?想像しただけで吐きそうになるんだけど!!!!」
「おい、言いすぎだぞ」
一息に言い終えた楓は、諌める太一の声を無視し、ドタドタと音を立てて階段を降りていった。
……上手くいきすぎちゃったんだな。きっと。
太一がそっと呟く。楓は悪い子ではなかった。当時まだ物心ついたばかりの太一にも、姉妹が二人仲良く遊んでいた記憶が残っている。姉は妹を気遣い、妹も姉を頼っていた。そんな美しい関係を、周囲の歪んだ評価や愛が徐々に蝕んでいった。いつからか、楓は自分が特別である事が当たり前だと思うようになった。いつからか、妹を蔑むことを、自分が特別だと再確認する行為として扱うようになった。
「楓は、悪い子じゃないよ」
太一は、今度ははっきりと声に出して言った。落とした視線を上げて大きく呼吸する。太一は自分の部屋へと向かった。
太一が部屋の中へ入り、ドアを閉めると、腹に衝撃が走った。見下ろすと栗色の頭が腰に抱きついている。
「桜。もうハグはいいだろ──」
途中まで言いかけて、様子がおかしいと気付く。腰に回された桜の腕が、震えていた。
「……聞こえてたのか」
太一はドアに寄りかかって腰を少し落とすと、優しく、ゆっくり桜の頭を撫でる。抱き付く腕の力が強まる。ふぅ、うぅ、と桜の口から呻き声がこぼれた。
桜は、ずっと比べられる事に耐えて生きてきた。それでも、どうしても耐えられなくなった時は、太一の元へ行き、こうして抱き付いて頭を撫でてもらう。体中に纏わりついた悲しみを訴えるように、顔を擦りつけて声を漏らす。家族や姉に心ない言葉をかけられ傷ついた時は、いつもこうして傷を癒していた。
こうする事が、桜の依存を強くする事は太一には分かっていた。それでも、と太一は桜の背中に腕を軽く回し、抱きしめる。苦しんでいる家族を見放す事はどうしても、出来そうになかった。
部屋には桜の声が響いては消えていく。太一は鳩尾に当たる桜の熱い吐息と、震える腕の感触を感じながら、桜の頭を撫で続けた。