5話 「裏側:その2」
いつかの休日だった。
わたしは昼間から机に向かっていた。宿題じゃなくて、受験勉強。黙々と英語の単語帳から、単語をひたすらノートに書き写す。一度覚えた単語を、どうしても覚えられない単語を、何度も何度も書き写す。
頭の良い人は読んで声に出すだけで覚えられるらしいけど、わたしは書くしかない。それでもむしろ、書く方が気を紛らわせることが出来て良いように思えた。
あの日から、兄ちゃんとはほとんど喋っていない。兄ちゃんはわたしをさけて、わたしは兄ちゃんをさける。いや、兄ちゃんはいつも通りで、わたしがただ話しかけられないだけなのかもしれない。思えば、兄ちゃんと話す時はいつもわたしから話しかけていた気がする。兄ちゃんはわたしのことなんか本当はどうでもよくて、話しかけられる度にウザいと思いながら、わたしの話に付き合ってくれていただけだったのかも。
そんなことを考えていると、悲しくなって、辛くて、兄ちゃんの所へ行きたくなる。だから、書くことに集中する。勉強をしているのは、いい高校に受かりたいから、という優等生な理由じゃない。
前までのわたしなら、学校の宿題ですら提出の前日に慌てて片付ける、という具合だったのに、今では家にいる時間の半分くらいを勉強に使っている。
学校では、先生に当てられても、答えをすらすらと言えるようになった。でも、それで褒められたりはしない。みんな答えられるのが当たり前で、わたしはやっと「変」から「当たり前」に進歩しただけ。嫌味を言われたり、比べられなくはなったけど、だからこそあいつに届かないのが悔しい。怠けてるから、という言い訳が通用しなくなって、余計に辛くなった。
あの時、兄ちゃんは「勉強しなさい」とわたしに言った。だからきっと、今度の期末テストでいい成績を取って、いい高校に受かったら一杯褒めてくれて、わたしを好きになってくれる。そう思ってる。そう思うしかないじゃん。
窓の外から子供たちの笑い声が聞こえる。わたしは何となく窓の方を眺めた。外の道路に日が当たってとても暖かそうだ。
窓を眺めたまま、真冬の風の中で遊ぶ子供たちの姿を思い浮かべる。一緒に遊んでいる子供たちの中には、勉強ができない子もいるだろう。気が弱くて傷つきやすい子も、体育が苦手な子もいるに違いない。でも、みんなで遊ぶ。そんな事は関係ない、と大人たちを馬鹿にするように、遊んでたくさん笑う。子供たちはいつから世間を気にして、他人と比べるようになるんだろう。
「……なんなの?」
声が、わたしの耳に突き刺さった。わたしは現実に引き戻される。あいつが、こちらを睨んでいた。
「何ずっとこっち見てんの? 気持ち悪いからやめてよ」
誰があんたなんかを。あんたなんかを。
思いっきり言ってやりたいけど、どうしてだろう、言葉が喉の奥でつかえて出てこない。
「何なの、その目。何か言いたいならはっきり言えば? ほら言ってみてよ」
うるさい、うるさい。うるさい。
言えないのを分かっていて言っているんだ、こいつは。
「あんたってカワイソウな子だよねー、色々と。自分が馬鹿なせいで比較されてるくせに、頑張ろうともしないで『兄ちゃん』に泣きついてんでしょ? 迷惑だろうねーあんたの大好きな『兄ちゃん』」
呼ぶな。兄ちゃんって呼ぶな、お前が。
嫌らしく歪んだあいつの顔が、さらに歪んで、滲んでいく。溢れ出そうになる悔しさを堪えて、思い切り親指を爪で潰した。言われてその通りだと思ってしまった自分が悲しかった。
「でもまあ、あんたの兄ちゃんも満更でもないかもね。つまりロリコンでシスコンの変態。本当最悪だから二人まとめて出てってくれないかしら」
最後の方は聞こえなかった。聞いていられなかった。気づくとわたしはあいつに掴みかかっていた。
あいつが一瞬驚いた顔をして、すぐにわたしを押し返してきた。
二人でしばらく揉みあった。わたしが押されて、机に当たる。あいつが押されて、壁に叩きつけられる。
途中から、怒りと共に涙がぽろぽろと零れていった。悲しくて、肩を押した。悔しくて、壁に押し付けた。情けなくて、腕を振り払われてまた掴みかかった。
伸ばした腕が宙を掴んだ。わたしはもう、目を瞑っていた。
「そんなに悔しいなら……兄ちゃんに助けてもらえば? ……シスコンお兄ちゃん助けてって」
倒れ込んだわたしの上から、息を切らせて、声が降りかかってきた。
わたしはやり切れない思いを呼吸に乗せて、ただ激しく息継ぎをしていた。
隣の部屋のドアが開く音がして、わたしは顔を上げた。あいつは、強張った顔をしてドアを見つめている。
ドアの辺りから、強い歩調で廊下を歩いて、こちらへ近づいてくる足音が聞こえた。わたしは、はいはいをしてドアににじり寄って……そこで止まった。
足音はそのまま廊下の途中にある階段を降りて、遠のいていった。耳を澄ましても、澄ましても、足音は小さくなっていった。
足音が玄関のドアを開けて、家を出たあたりから、記憶がはっきりしない。
あの後あいつに何か言われたのかもしれないし、わたしは何か言ったかもしれない。
少なくとも、気付いた時にはあいつは元通り机に向かっていて、わたしも、また英単語を書き写していた。
単語帳は、十ページほど進んでいた。