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5話 「裏側: その1」

 わたしはボールに溶いた卵を前に、塩の入った容器を持ったままうーんと唸った。プラスチックのスプーンで塩の塊を潰すと、サクサクと音がした。

 わたしには悩みがある。兄ちゃんが最近わたしに構ってくれないのだ。

 この前だって勉強を見てもらおうとしたら、センサー試験だかセントラル試験だかが近いとかって断られたし、いきなり兄ちゃんに抱きついても、この頃は顔色一つ変えずに「はいはい、もういいから離れなさい」なんて言いながらわたしを押しのけて、さっさと自分の部屋に戻っていってしまう。

 流石のわたしも兄ちゃんの勉強を邪魔する気はない。勿論兄ちゃんの受験は応援しているから、その辺は分かっているつもりだ。まあ「きちんと兄を気遣えるかわいい妹」を演出する気持ちもないではないんだけど……。

 ともかく、兄ちゃんは分かってない。分かってないのだ。

 わたしがあいつと比べられてる時どれだけ辛いかも、その度に兄ちゃんに助けてもらったのがどれだけ嬉しかったかも、どれだけ兄ちゃんが心の支えになっているかも、わたしがどれだけ兄ちゃんの事を好きかも……全然分かってない。

 今日はセンサー? いや、センター試験? そうだ、確かセンター試験。それがあるから兄ちゃんの帰りが遅くなるらしい。

 センターというのは「真ん中」という意味なのである。これくらいの英単語は、受験勉強に精を出す中学生のわたしはちゃんと知っているのだ。でも、真ん中の試験ってなんだろう?よく分からない。

 ようやく丁度良い量の塩をとき卵に入れて、軽くかき混ぜた。続けざまに、卵焼き用の四角いフライパンを火にかける。我ながらなかなか手際がいい。

 まるでお嫁さんみたいだな。わたしは新妻さんで、兄ちゃんが旦那さんで。疲れて帰ってきた旦那さんにお疲れ様って声をかけてあげるの。

 兄ちゃんが「いつもありがとうな。愛してるよ」って笑いながらハグしてくるのを想像したら、にへらと顔がだらしなくふやけた。その顔がフライパンに引いた油に映ったのが見えて、慌てて顔を元に戻した。ほっぺがピクピクしてる。目が相変わらずニヤケてるけど、これは光が変に反射しているせいだと思っておく。

 現在午後七時四十八分。兄ちゃんはまだ帰って来ない。これは元々予定通りなんだけど、なんとお母さんは兄ちゃんの晩御飯を用意していなかったのだ。

 お母さんは「晩ご飯はどこかで買ってくるでしょ」って分かったような顔して言ってたけど、きっと兄ちゃんは晩ご飯の事もすっかり忘れて帰ってくるに違いない。お母さんより絶対わたしの方が兄ちゃんを分かってる。兄ちゃんの方がお母さんよりわたしを分かってくれてるのと同じくらいは。

 フライパンの中に半分だけ卵を流し入れる。ジューっと音を立てて湯気で浮き上がった卵を潰していく。シロートはここで空気を抜かないから失敗するんだ、と、お母さんが言っていた。

 少し待ってから卵を少しずつ巻いていく。ついでに中に愛情を込めて。巻く。愛情を込める。巻く。愛情。巻く。愛情……あっ、破れた。

 卵の裂け目からどろっと半生の中身が飛び出してくる。愛情、込めすぎたかな?

 でも流れ出すのはフライパンの上。どれだけ愛情を込めても、そのせいで壊れてしまっても、きちんと受け止めてくれる。兄ちゃんと同じだ。

 それに。

 わたしは軽くフライパンに油を引き直すと、とき卵の残りを全部入れた。もう一度空気を抜いて固まるのを待ち、裂け目を隠すようにまた巻いていく。

 今度は慎重に、慎重に。全身全霊を込める。

 ほら、綺麗に巻けた。

 例え失敗したってやり直すことは出来るのだ。

 卵焼きをお皿に移して、包丁で一口サイズに切った。裂け目なんてどこにもない。

 疲れて帰ってくる兄ちゃんのことだから、あんまりお腹いっぱいには食べられないはず。後はウインナーを焼くだけでいいだろう。全くもってよく出来た妹だ。兄ちゃんはもっと誇りに思って欲しい。

 冷蔵庫からウインナーを取り出して、フライパンに落とす……つもりだったけど、やっぱりやめた。鍋を取り出して水を入れる。茹でた方がいいだろう。

 このフライパンは、卵焼きしか焼いちゃいけない、うん。





 兄ちゃんを待っている間に勉強していると、玄関から扉の開く音が聞こえてきた。勿論すぐに椅子を立って部屋を飛び出す。ドアを抜ける瞬間、

「きもっ」

と声がしたけど、無視。あいつに構うより兄ちゃんを労う方が先だ。

 階段を駆け下りてリビングへ出ると、兄ちゃんがソファーでぐったりしていた。二人分のスペースの真ん中にどっかりと座って、鞄を右側の空いたスペースに放り出していた。

 コンビニやスーパーの袋は見当たらない。ふふん、やっぱりね。思わず笑ってしまう。わたしは兄ちゃんのすぐ近くに駆け寄った。

 兄ちゃんの顔が近い。ドキドキする。でもすごく辛そうな顔。試験難しかったのかな。

 そう思った瞬間、本題を思い出した。そう、労うんだ、見とれてる場合じゃない。見とれても仕方ないけど。

「兄ちゃんお疲れ様!どうだった?」

 わたしがそう言うと、

「……ああ、まあ、それなりだよ」

 兄ちゃんはわたしから顔を背けたままだった。

 やっぱり疲れてるんだな、と思った。疲れてるんだと思いたかった。ずり下がりそうになる頬を無理矢理に吊り上げて、もう「労い」じゃない必死の労いを口からこぼした。

「ふーん、そっかあ。どう?志望校受かりそう?」

「分かんないよそんなの。二次試験もあるんだから」

 胸の中が、水をいきなり被ったように冷たくなっていくのが分かった。

 困っているわけでも、照れているわけでもない、明らかに嫌がっている反応。兄ちゃんがわたしにそんな顔をするのは初めてだった。「よく分かってる妹」が、「何にも知らない妹」に変わっていく。わたしを抱きしめる「旦那さん」の顔がぐにゃりと、「怒」の形に歪んだ。

「……兄ちゃん、疲れてる?」

 声が震えないようにするだけで精一杯だった。

「ああ、疲れてる。だから、悪いけどちょっと休ませてくれ」

 兄ちゃんが立ち上がった。兄ちゃんの大きな背が、今は圧迫感になってわたしを脅かしている。わたしはよろよろと道を開けて、

「兄ちゃん、ご飯くらいは食べた方が……」

 少し声が震えた。

「今日はいらない。お前もこんな所で油売ってないで勉強しなさい」

 兄ちゃんが階段を上っていく。わたしは、呼び止めようとして、でも何も言葉が浮かばなくて、兄ちゃんが階段の角に消える頃、

「……分かってるよ」

何とかそう絞り出しただけだった。

 兄ちゃんがドアを開けて、部屋に入る音が聞こえる。

「これ、どうしよ……」

 すっかり冷えた卵焼きは、しぼんでしわくちゃになっていた。

今回は桜の一人称視点となっております

そろそろ桜の様子が……

5話はまだ続きます

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