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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ゾンビアパートへようこそ

作者: モギイ

 その日の最高気温は37度。夏美の部屋はむせ返るような腐敗臭に満ちていた。


「なあ、夏美」


 窓の外に広がるトウモロコシ畑を眺めながら僕は夏美に話しかけた。彼女は眼窩から抜け落ちかけた目玉を僕のほうに向ける。


「暑いな」


 夏美は答えない。話したくても声が出ないのだと思う。彼女の口の中は茶色く腫れ上がった舌でいっぱいだったから。


 いつものように彼女は、目的もなく安アパートの小さな部屋の中を歩き回る。まっ平らだった腹はゴム風船のようにぼっこりと膨らみ、アプリコット色のワンピースに締め付けられている。一歩歩くごとに薄い布を通してじくじくと体液が染み出てきた。


生きている時でさえ、夏美には目的を見つけることが出来なかった。最近では「死にたい」が口癖のようになっていて、僕を心配させていた。


         ******************************


 一週間ほど前から、その口癖がひどくなった。夏美はカッターナイフで何度も手首を切った。でもうまく死ねない。深く切る度胸なんて最初からないのだ。僕は 何度もやめるように頼んだ。夏美のきれいな手首が傷だらけになっていくのに耐えられなかったんだ。結局、夏美はロープで首をくくって死んだ。


 まだ温かい夏美の身体を抱きかかえ、僕は泣いた。泣きつかれ、死後硬直の始まった亡骸をかかえていられなくなり、僕は夏美をベッドの上に横たえた。


――どうして死んでしまったんだよ、夏美。


 小さな丸いちゃぶ台につっぷして泣いていると、後ろから音がする。振り返ると夏美がベッドの上で身体を起こすところだった。


「夏美?」


 僕は声をかけた。


 夏美は僕を見たが何も言わずにふらふらと立ち上がった。息を吹き返したのだ。僕は夏美に駆け寄り、身体に触れた。……冷たい。


 彼女の細い首に手を当て脈を探す。何も感じられない。


――夏美は死んでいるのか?


 恐ろしくなって僕は彼女から離れた。死体が動くはずはない。でも彼女に命は感じられなかった。夏美は部屋の中をゆっくりと歩く。裸足の足でぺったぺったぺったぺった。壁際まで来ると方向を変えて歩き続ける。ぺったぺったぺったぺった。


 歩き回る夏美を見ているうちに、僕の心も落ち着いてきた。夏美は本当は死にたくなかったんだろう。きっと死んでからそれに気付いたんだ。死んだって夏美は夏美。僕の大好きな夏美だ。彼女がそのつもりなら、僕もそれに合わせてやらなくちゃ。


 僕は夏美の首に巻きついたロープをほどいてやった。華奢で滑らかな首にくっきりと縄目が残っている。


でもこれからどうしよう。警察に連絡すれば奴らは彼女を連れて行ってしまう。彼女の憎む家族の元へと送り返してしまう。


 僕はこのままここで夏美と暮らすことにした。


         ******************************


 最初の晩はいつもみたいに夏美を抱いてみた。熱帯夜だったから冷たい身体は気にならない。でも夏美は僕に触れられても何も感じないようだ。夏美が喜ばない事はしたくない。ご飯も作ってみたけれど、何の興味も示さなかった。


「死んでるんだから仕方ないね」


 僕はわざと明るい口調で夏美に話しかけた。夏美は僕が話しかけると、ぎこちなく顔をこちらに向ける。僕の声を聞いているのはわかった。


         ******************************


 二日後の昼下がり、部屋のドアを誰が叩いた。


「夏美ちゃん、いるの?」


 僕がドアを開けると、隣のおばさんが立っていた。夏美が放ちだした強い死臭に顔をゆがめる。


「なに、これ? ナマモノ、腐らせちゃったの?」


「ええ、すみません」


 おばさんはドアから身体を乗り出して部屋の奥を覗こうとする。僕は早くドアを閉めたかった。


「お魚を貰ったんですけど、冷蔵庫に入れるのを忘れて留守にしちゃって。夏美と海に行って来たんです」


「だから静かだったのね でもすごい臭いよ。大家さんに怒られちゃうわ」


「今から掃除しますね。ご迷惑かけてすみません」


「夏美ちゃんは?」


 どうもすっきりしないという表情でおばさんはねばる。


「今、買い物です。掃除に使う洗剤を買ってくるって」


「そう」


 ようやくおばさんが僕に背を向けたその時、


 ゴトン


 何かが床に落ちる音がした。おばさんが振り返る。


 夏美の動きは死人だとは思えないほど早かった。悲鳴を上げるおばさんの両肩を、夏美の白い手ががっちりとつかむ。僕はその場に突っ立って、黙ったまま眺めていた。


 おばさんは喉を食い破られると急に静かになった。夏美はおばさんの後頭部に顔を押し付け、機械的な動きで口を動かし続ける。


ごりごりごり


 僕は去年夏美と一緒に見たゾンビの映画を思い出した。そうだ。彼らの食事は生きた人間の脳だったんだ。僕は道具箱からカナヅチを持ってきて夏美の作業を手伝ってやった。


――お腹が空いてたのに気付かなくてごめんよ。たくさんお食べ。


 夏美に脳を食われてから数時間後、おばさんが起き上がった。おばさんの前には、おばさんと同居中のおばあちゃんの身体が横たわっている。嫁が戻らないので探しにきたのだ。


「おばさん達、ここ狭いから家に戻ってくれないかなあ?」


 おばあちゃんが起き上がるのを待って僕が頼むと、おばさんは素直に隣の部屋へ戻っていった。おばあちゃんがひょこひょこと後を追う。二人が自分達の部屋に戻ったのを確認すると、僕はばたんとドアを閉めた。


 翌日はその隣の部屋の爺さんが加わった。爺さんのガールフレンドだったらしい、下の階の婆さんもだ。そんな具合にアパートの住人が全てゾンビになるまでには、たいして時間はかからなかった。


         ******************************


 ゾンビ達は僕の言う事をよく聞いた。夏美と同じで彼らは僕を襲おうとはしなかった。僕には何か特別な力があるのかもしれない。


 もっとも誰だって、最後には僕の言う事を聞くようになる。夏美はしぶといほうだった。僕と付き合いだしてしばらくの間は、何度も母親に電話をかけた。大嫌いな母親と話す必要はない、そう言って言い聞かせたのになかなか聞こうとしなかった。母親思いのいい子なんだ。


 仕方がないので、僕は母親を殺してあげると言った。そうすれば夏美は強欲な母親の言いなりにならなくってすむ。僕が彼女のことを本気で心配していると、救おうとしていると感じたのだろう。それから夏美は僕の助言に素直に従うようになったんだ。


 それなのに夏美はある日突然、この寂れたアパートに引っ越してしまった。周りは畑と田んぼばかり、住人は老人がほとんど。夏美のようなかわいい子には全く似合わない。きっと、隠れないと親が連れ戻しにくると思ったんだ。


 よほど怯えていたのか、僕にまで引越し先を教えなかったものだから、探すのに苦労した。でも最後には見つけたよ。かわいそうに、安心した夏美は僕の姿を見て床にへたりこんでしまった。


 そうだ、その夏美の母親も二日前に現れた。夏美の変わり果てた姿を見て泣き叫んだよ。もちろん、夏美が黙らせてしまったけどね。


「恨みを晴らせたかい?」


 そう聞いたけど、もう彼女には目玉がなかったから、それが母親だったとはわからなかったかもしれないな。


         ******************************


 このアパートは老人だらけだ。身寄りのない人がほとんどだけど、たまに親戚や役所の人が訪ねてくる。だからアパートの住人は増え続けていた。


 大家さんは気にもしない。僕たちの真下の一号室に住んでる大家さんは、夏美の臭いがひどくなってすぐに部屋を調べに来た。今では自分が悪臭を振りまいている。僕の鼻はもう麻痺してしまっていたから気にはならなかったけど。


――でも、きっと誰かが通報したんだろうね。


         ******************************


 トウモロコシ畑を眺めるのにも飽きて、僕は立ち上がると冷蔵庫のドアを開けた。ああ、麦茶を作っておくのを忘れてしまった。イライラしたけど、これは僕の責任だから仕方ない。夏美にはもう家事なんて出来ないんだからね。


 一階の部屋のドアを誰かが叩いている。


「河野さん? いらっしゃいませんか?」


――宅急便業者かな?


 表を見るとパトカーが止まっている。さすがに僕もぎょっとした。警察はまずい。夏美と僕が引き裂かれてしまう。


 僕は下の階にも聞こえるように、部屋の床を、どん、どん、と力強く踏みつけた。ノックの音が止み、階段へと足音が向う。


 警官が階段を上がってくる。


 廊下の一番手前にあるのは僕と夏美の部屋だから、当然警官は僕たちのドアを最初に叩いた。


「こんにちは。どうされましたか?」


 笑顔でドアを開けた僕を見て、警官は驚いた顔をした。この悪臭の中で平気な顔をしているなんて信じられなかったのだろう。


「この辺りから凄い臭いが漂ってくるとご近所から苦情が出ているんです。あの、このアパートには高齢者が多いですので……」


 突然、警官の目が大きく見開かれた。僕の背後から夏美が現れたのだ。


「そ、それは……」


「死んじゃったんです。最近毎日暑いでしょう? 腐ってしまってひどい臭いがするんですよ」


 僕には彼の考えている事が手に取るようにわかった。これは作り物か? たちの悪いイタズラに引っかかったのか?


 夏美が警官に向かって一歩踏み出す。玄関のたたきに下りるときに身体が前かがみになり、眼窩に溜まっていたウジがぽとぽととこぼれ落ちた。警官は金切り声をあげて飛びずさると、腰のホルスターから銃を抜き、夏美に向かって発砲した。


 弾は腹に命中したけれど、夏美は気にしない。膨張した腹からはぶしゅぶしゅと体液とガスの混じったものが噴き出した。


「うわあああああ!」


 夏美が手を伸ばすスピードよりも警官の動きの方が早かった。転がるように彼は階段を駆け下りた。僕は慌てない。どうせここのアパートからは逃げられないのだから。


階下から聞こえた彼の悲鳴は、さっきのよりもずっと大きかった。


 残念でした。お腹を空かせたおじいちゃん達が待ち構えていたからね。さっき僕が床を蹴ったのは、部屋から出て来いというゾンビ達への合図だったんだ。彼らは僕の指示を本当によく聞いてくれる。脳みそがないなんて信じられないぐらいだ。


 応援に駆け込んだ二人目の警官もまもなく捕まった。


 僕は引き出しからカナヅチを出すと階段を下りた。頭蓋骨を割ってやらないと彼らはうまく食べられないのだ。


         ******************************


 数時間後、手錠をかけられた僕は、パトカーの後ろの席に座って刑事さんと話をしていた。


 彼は僕がみんなを殺したような事を言う。僕はそんなことしてないのに。みんなゾンビになっちゃったんです。おそらくウイルスのせいですよ。ほら、裏山の林道の手前に、何かの研究所があったでしょう。あそこから漏れたんじゃないですか?


 刑事さんは馬鹿な事を言うなと怖い顔をする。そして、殺したのはお前だと繰り返す。


 僕は胸を張って答える。誰も信じてくれなくっても構わない。でも嘘はつきたくないんだ。


 いいえ、僕はあの人たちを殺してなんていません。みんないいご近所さんでしたよ。殺す理由なんてないでしょう? 


 刑事さん、僕が殺したのは、夏美だけなんですよ。



 -おわり-

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