09. 二人の女神
天界日本事業部は、地獄と化していた。
「いいね」の総獲得数は、依然として高い水準を維持している。だが、その中身は、あまりに歪だった。
意図的に作られた感動的な物語――いわゆる「感動ポルノ」がSNSのタイムラインを埋め尽くし、それに「いいね」をしない者は非人間だと言わんばかりの同調圧力が蔓延している。
富裕層の慈善活動と、貧困層の慎ましい暮らしを対比させ、人々の歪んだ自己満足を刺激するコンテンツ。僅かな失敗を犯した者を、社会全体で糾弾する炎上案件。
その全てが、社会の格差を広げ、人々の心をささくれ立たせ、疲弊させていた。
「――素晴らしいでしょう、師匠」
カノンは、誇らしげに胸を張った。
「これが、私が最適化した『いいね』獲得の黄金比率です。ムチ、ムチ、ムチ、ムチ、ムチ、そして、アメ! 人間という生き物は、不安と恐怖を与え続けた後に、ほんの僅かな救いを与えることで、最も強い感謝、つまり『いいね』をアウトプットするのです!」
その瞳は、狂信者のそれだった。
「本当に感動したか、共感したかなんて、関係ありません! 『いいね』をしなきゃ人間じゃない、仲間外れにされる。その空気を作り出すことこそが、最も効率的なエンゲージメント獲得施策なんです!」
自分が教えたロジックが、こんな怪物じみた思想を生み出してしまった。その事実に、輝石はただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「――そこまでです」
凛とした、しかし震える声が響いた。天乃 美琴だった。彼女は、カノンの前に進み出ると、職員に…そして、輝石に向かって深く頭を下げた。
「皆さん、申し訳ありません。この事態を招いたのは、すべて、事業部長である私の責任です」
そして、彼女はカノンに向き直る。その瞳には、深い悲しみと、しかし揺るぎない決意が宿っていた。
「…カノンさん。もう、やめましょう。これ以上は見過ごすことはできません。あなたの行動は、天界の倫理規定に著しく違反しています」
その言葉に、カノンは、聖母のように無垢な笑顔を浮かべた。
「倫理?」彼女は、小首を傾げる。
「倫理って、なんですか? その判断基準は? KPIのように、具体的な数値で定義されているのでしょうか? もしそうなら、その定義書をご提示ください。私が間違っているのなら、ロジカルに説明してください」
それは、かつて輝石が、この天界の曖昧さを切り刻んだ刃。その刃が今、美琴に突きつけられていた。
「そ、それは…人の心や、尊厳を不当に傷つけないという、私たち神が守るべき…」
「答えられないんですね」
カノンは、美琴の言葉を冷たく遮った。
「結局、それは数値化できない、あなたの、そして天界上層部の、曖昧な感情論に過ぎない。つまり、女神さまの一存で決まるルールということでしょう?」
彼女は、ふふっ、と愛らしく笑う。その笑みは、次の瞬間に、氷のような冷徹さに変わった。
「…だったら」
カノンの声が、オフィス全体に響き渡る。
「だったら、あなたにトップは務まらない!私が……、私が女神になる!!」
その宣言が、合図だった。
それまでカノンの後ろに控えていた、成果主義で高い評価を得ていた職員たち――狐面の紺野をはじめとする者たちが、一斉に彼女の側に集う。
一方、隅で震えていた小糸や、コミュニティ菜園にいた風間たちが、美琴を守るように、彼女の背後に集結した。
オフィスは、真っ二つに割れた。
片や、成果を出すが、その道は非人道的な地獄に通じる、カノン派。片や、誰も見捨てないが、その先にあるのは停滞という名の緩やかな破滅しかない、美琴派。
その中央に、神薙 輝石は、ただ一人で立ち尽くしていた。両陣営の視線が、突き刺さる。自分が作り出した地獄か。自分が否定した天国か。
どちらにつくのか。この世界の運命を左右する選択を、この状況を生み出した元凶である彼自身が、迫られていた。
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