08. 数字なき価値
柔らかな光が、瞼の裏を優しく照らす。
神薙 輝石は、ゆっくりと目を開けた。見慣れてきた天界のプライベートルームの天井ではない。清潔なシーツの匂いと、静寂。どうやら、医務室のような場所で眠っていたらしい。
「…お気づきになりましたか?」
穏やかな声に視線を向けると、天乃 美琴が、心配そうな顔で彼の顔を覗き込んでいた。その手には、濡れた手ぬぐいが握られている。
「倒れてから、三日も目を覚まさなかったのですよ」
「三日…だと?」
輝石は、忌々しげに舌打ちしながら、ゆっくりと身体を起こした。頭の芯がまだ少し痺れている。
「仕事はどうなってる」
「彼女が…カノンさんが、すべて進めてくれています。あなたの計画通りに」
「そうか。なら安心だ」
輝石は、フッと息を吐いた。
「あいつは、俺の一番弟子みたいなものだからな」
そう言うと、彼は再びベッドに横になろうとする。だが、その肩を美琴の小さな手がそっと制した。
「あなたは、人間です。休息は、必ず必要です」
その声には、咎めるような響きがあった。
「ここの職員だって…いくら神や精霊で、睡眠も食事も不要だからといって、心まで鋼ではありません。今のやり方では、いつか必ず破綻してしまいます」
美琴は、彼の目を真っ直ぐに見つめる。
「カノンさんのことも、心配です。あの子、少し…いえ、かなり変わってしまいました」
輝石は、その言葉を鼻で笑った。
「やりたくてやってるんだよ。アイツも、俺もな。成果を出せなかったあんたに、俺たちのやり方を指図される筋合いはない」
冷たく突き放す輝石にも、美琴は動じなかった。変わらず、心配と配慮を滲ませた瞳で、毎日、彼の元へ様子を見にやってくる。
そして、彼が倒れて五日目の昼。彼女は、数人の職員と共に、湯気の立つスープと、焼きたてのパンを彼の元へ運んできた。
「…なんだ、これは」
「職場のコミュニティ菜園で採れた野菜で作った、ポトフです。さぁ、召し上がってください」
促されるままに一口すすると、野菜の優しい甘みが、荒れた胃にじんわりと染み渡った。不思議と、身体の芯から力が湧いてくるような心地がする。
(これは、女神の力なのか…?あるいは、野菜の…?)
体調がいくらか回復した輝石は、軽く興味を引かれ、その「コミュニティ菜園」とやらに足を運んでみた。
そこにあったのは、輝石の信条とは真逆の光景だった。
オフィスの片隅にある、陽当たりの良い一角。かつて彼が「戦力外」と通告した、風間や小糸たちが、楽しそうに笑いながら土に触れ、作物の世話をしている。
隣接された小さなカフェスペースでは、美琴が淹れたハーブティーを飲みながら、職員たちが穏やかな顔で会話を交わしていた。
会社の成果やKPIには、一切貢献しない活動。ただ、協力して何かを育て、分かち合うという行為そのものが、彼らの心のケアになっているのは明らかだった。
その光景を見た瞬間、輝石の脳裏に、忘れていた記憶が蘇る。
―― 先輩。
俺のロジックで会社を立て直した後、結局すべてを畳んで、田舎で農業を始めた、あの先輩。最後に送られてきた写真に写っていた、疲れ切った経営者の顔とは別人のような、幸せそうな笑顔。
「……『非効率』だ」
輝石は、感情を振り払うように吐き捨てた。
「カフェスペースが欲しいなら、アウトソーシングすればいい。そんな『仲良しごっこ』は、何の数字にもならない」
「数字ではありません」美琴は、静かに答えた。
「ここにいる皆さんが、楽しく、働きがいをもって仕事ができれば…それだけで、十分ではありませんか」
「お前は、組織の長だ。もっと全体を見るべきじゃないのか? 今の最優先事項はなんだ。KPIの達成…『いいね』の獲得だろう」
「ですが、私は…誰もとりこぼしたくないのです」
美琴は、きっぱりと言った。だが、その表情はすぐに憂いを帯びる。
「それに…。『いいね』の獲得は、あなたとカノンさんのおかげで、目標を達成できているでしょう?……もう、十分すぎるほどに」
その言葉に、輝石は微かな違和感を覚えた。彼が何かを口にする前に、美琴がそれを遮る。
「体調が良くなられたのなら、現場の様子を見に行きますか? あなたが育てた『一番弟子』の活躍を」
◇
美琴に導かれ、輝石は事業部のメインフロアに戻った。ドアを開けた瞬間、空気が違うことに気づく。かつての穏やかさも、初期の祝祭ムードもない。そこにあるのは、張り詰め、乾ききった、氷のような緊張感だけだった。
泣きながらキーボードを打つ職員。怒声で部下を詰める中間管理職。恐怖に支配された、静寂。
そこは、完全にブラック企業そのものだった。
そして、その中心に、カノンはいた。天使のように愛らしい姿のまま、悪魔のような冷たい瞳で、一人の職員を問い詰めている。
「言い訳は結構です。あなたのそのミス一つで、プロジェクト全体の進捗が何パーセント遅延したか、理解していますか?」
その時、彼女は、部屋の入り口に立つ輝石と美琴の存在に気づいた。輝石は、彼女を止めようと一歩踏み出す。だが、カノンが放った言葉は、彼の予想を遥かに超えていた。
「――神薙さん」
彼女は、輝石を睨みつけ、苛立ちを隠しもせずに言い放った。
「五日も無断で持ち場を離れて、一体何をしていたのですか? あなたのその非計画的な行動のせいで、全体のKPI進捗率がどれだけ悪影響を受けたか。きちんとレポートで提出してください」
輝石は呆気にとられた。自分が育てたはずの愛弟子は、もう、そこにはいなかった。
そこいるのは、自分自身のロジックを狂信し、師匠すらも「非効率」と断じる、冷酷な悪魔そのものだった。
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