05. 地獄の幕開け
「神薙様のおかげです!」
「これで、日本は救われます…!」
カノンをアイコンとした奇跡的な短期目標達成に、天界日本事業部は祝祭ムードに包まれていた。職員たちは口々に神薙 輝石の手腕を賞賛し、その周りを興奮気味に取り囲んでいる。
「神薙さん」
輪の中心で、天乃 美琴が輝石に向き直り、深く、そして優雅に頭を下げた。隣には、まだ少し戸惑いながらも、頬を紅潮させたカノンが立っている。
「つきましては、正式に私達の『特別戦略顧問』として、これからもお力をお貸しいただけないでしょうか」
熱烈なオファー。職員たちの期待に満ちた眼差し。だが、輝石の心は、凍てつくほどに冷静だった。
「……少し、考える時間をください」
彼はそう言うと、喧騒から逃れるように一人でオフィスを歩き始めた。
(これで少なくとも半年は持つだろう。滅亡が確定する前に、俺個人の日本国内資産をすべて海外のタックスヘイブンに移し、高飛びすればいい。シンガポールか、スイスあたりが妥当か…)
そんなことを考えながら、彼は改めてこの「職場」を観察する。
最初に抱いた印象と、寸分違わない。
ここには、一切の無理はないが、代わりに、視界に入るのは無駄ばかり。
午前10時には、風神の風間と狐面の紺野が、早くもお茶を飲みながら昔の武勇伝に花を咲かせている。
ランチタイムはきっちり90分。午後の15時には、木霊の小糸たちが和菓子を広げ、おやつ休憩と称した雑談に興じている。
『時間外労働』という概念など、この世界の理には存在しないかのようだった。
そして、更に驚くべきは、その給与体系だ。
事業部長である美琴も、新人アイドルとして莫大な「いいね」を稼いだカノンも、窓際で茶をすすっているだけの古参職員も、全員が「同一労働同一賃金」ならぬ「同一存在同一賃金」とでも言うべき横並びの給与。
成果を上げずとも「頑張ったね」で評価され、叱責もない。競争力の低下?当然の結果だ。
輝石は、中庭で職員一人ひとりに声をかけ、穏やかに微笑んでいる美琴の姿を、冷めた目で見つめた。彼は、彼女の元へ歩み寄る。
「美琴さん。あんたは、自分のその『優しさ』が、この組織を殺していることに気づいているか?」
唐突な、氷のような言葉だった。美琴の笑顔が、翳る。
「いいねの低迷は、あんたのその曖昧なビジョンと、馴れ合いのマネジメントが原因じゃないのか?」
「そう……なので…しょうか…?」
美琴の大きな瞳が、みるみるうちに涙で潤んでいく。思ってもいなかった反撃に、輝石はあからさまに怯んだ。
「……私は…ただ、皆に笑っていてほしくて…それが、こんなことに…?」
俯く彼女の肩が、小さく震えている。その健気さに、冷徹なはずの胸が、チクチクと痛みを訴えはじめる。
「そんな…。この事業部がなくなれば、日本が滅亡すれば……私が守ってきた、あの子たちの笑顔も、地上の人々の穏やかな暮らしも、すべて…すべて消えてしまいます…」
美琴は、顔をあげ、必死に訴えかけた。その瞳からは大粒の涙がいくつもこぼれ落ちていたが、しかし、その背筋を凛と伸ばしたまま、真っすぐに輝石の目を見つめている。
「私の力不足は幾重にもお詫びします。ですが……お願いします。日本を…そして、この天界を救えるのは貴方だけなんです。どうか……どうか、助けてください…!」
その瞳には、打算も計算もない。神としての気高さと、ただ純粋な祈りだけが宿っていた。
(……ちっ。面倒なことになった)
輝石は、悪態をつきながらも、その瞳から目を逸らすことができなかった。
◇
翌日から、輝石は一番広い会議室に立てこもった。
ドアには「関係者以外立入禁止。邪魔する者は手水供給の無期限停止に処す」と、彼の手書きの張り紙がされている。
二日目、痺れを切らした職員たちが、ドアの前でそわそわし始めた。日本の神話に登場する、天岩戸の逸話になぞらえたのだろうか。木霊の小糸たちが、お盆を叩きながら奇妙な踊りを始める。
「輝石さーん、出てきてくださーい!」
「うるさい!!集中できん!!御神木のしめ縄を中国産ビニールテープに差し替えられたいか!?!?」
ドアの内側から、地を這うような怒鳴り声が響き、職員たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
そして、三日後の朝。会議室の扉が、ギィ…と重い音を立てて、ゆっくりと開いた。
ふらつく足取りで姿を現した神薙 輝石は、ボロボロだった。髪は乱れ、目の下には地獄のような隈が刻まれ、うっすらと伸びた無精髭が、その疲弊を物語っている。
だが、その両の目は、獲物を見つけた肉食獣のように、爛々と輝いていた。彼の右手には、びっしりと何かが書き込まれた、分厚い資料が握られている。
彼は、心配そうに集まっていた美琴たちを見渡し、ニヤリと、悪魔のように笑った。
「お前らのオファー…受けてやる」
美琴の顔が、ぱっと華やぐ。だが、輝石の言葉は、そこで終わらなかった。
「ただし! この事業部の運営に関する全権限を俺に委譲することが条件だ! 人事、評価、予算…そのすべてにおいて、俺の決定に従ってもらう!!」
有無を言わさぬ絶対君主の爆誕。
それは、この停滞した楽園に訪れた、地獄の幕開けだった。