04. 虚構と偶像
新宿での路上ライブは、伝説の始まりとなった。
カノンは、その日のうちに複数の芸能事務所から声がかかり、翌日には情報番組で「謎の天使すぎる歌姫」として大々的に特集された。
デビューシングルは配信と同時にチャートを席巻し、彼女は瞬く間にスターダムを駆け上がっていく。
天界日本事業部は、目標達成に沸き返っている。だが、その熱狂の中心にいるはずのカノンは、一人、オフィスの隅で青い顔をして震えていた。
「えっ、ええ!? また私が行くんですか!? つ、次は、テレビの、生放送…?」
次の仕事内容を告げられ、彼女はほとんど悲鳴に近い声を上げた。
「む、無理です! あんなにたくさんの人たちに注目されるなんて…! どうか、別の方に…!」
「つべこべ言わずにいけ! 『いいね』を稼いでこい!」
輝石は、彼女の懇願を冷たく一蹴した。カノンの碧い瞳が、みるみるうちに涙で潤んでいく。
「でっ、でも! こわいです…人間の方たちが、あんなに興奮して…わたし、どうしたら…」
「……このプロジェクトの必須要件は『ビジュアル』だ。この仕事は、お前にしかできない。代わりはいない」
輝石は、少しだけ声のトーンを落とした。
「お前のポテンシャルなら、『100万いいね』なんて目じゃない。その十倍…いや、百倍は稼げる。俺がサポートして、必ず成功させる」
彼は、震えるカノンの肩に手を置こうとして、寸前で止めた。
「お前は、何も考える必要はない。ただ、そこに“出る”だけでいい。だから、頼む…!」
その言葉に、カノンはびくりと顔を上げた。
自分を必要としてくれる言葉。
成功を約束してくれる言葉。
そして何より、「何も考えなくていい」という言葉。
それは彼女にとって、極上の甘露のように、何よりも得難く抗えない響きを持っていた。
彼女は、小さく、しかしはっきりと頷いた。
◇
「――これは…虚構です」
次のステージへと向かうカノンを見送った輝石の背後から、凛とした声が響いた。
天乃 美琴だ。その表情には、深い憂いが浮かんでいる。
「彼女は何もしていません。歌っているのも、人々を魅了する言葉を紡いでいるのも、他の職員たちです。こんなやり方で得た『いいね』に……。本当に、価値があるのでしょうか」
「それがなんだ?」
輝石は、振り返りもせずに言い放った。
「アイドルなんか、使い捨ての虚構以外の何ものでもない。価値? あるさ。数字という、絶対的な価値がな」
「ですが、地上で必死に努力している人間たちを差し置いて、彼女がトップスターになるのは…倫理的に…」
「余計な心配だ」
輝石は、ついに美琴の方を向いた。その瞳は、凍てつくように冷たい。
「これは、しょせん、短期的な『いいね』を稼ぐための時間稼ぎに過ぎない。半年後の査定までに必要な数字を稼ぎ切ったところで『感動的な引退』を演出し、伝説として幕を引かせる。それでジ・エンドだ。誰も傷つかない、完璧なプランだよ」
言葉を失う美琴を尻目に、輝石は再びモニターに向き直った。
彼の隣では、梓が目を閉じて精神を集中させ、別室では風神・風間が汗だくで声を張り上げ、狐面の男・紺野がカメラに向かって完璧なウィンクを飛ばしている。誰もが、次のステージを成功させるために必死だった。
モニターの中では、大喝采の中、カノンがスポットライトを浴びていた。
その瞳は、もはや恐怖には揺れていない。スタジオの巨大スクリーンに表示される、リアルタイムの「いいね」獲得数を、恍惚とした表情で見つめている。
(この、『いいね』の数…!! 何十万…何百万…もっと、もっと…!神薙さんの言った通り…! すごく、キレイ…!!)
それは、空っぽだった彼女の心に、初めて注がれた、圧倒的な肯定の光だった。
その光に魅せられるように、彼女はマイクを握りしめた。
そして、輝石が用意した台本にはない言葉を紡ぎだす。
「ありがとう!みんなの『いいね』、届いてる!でも……。足りないの!!まだまだ足りない!! もっと、もっと…!みんなのいいねを、私にわけてぇええええ!!!」
ーー彼女は、自分自身の言葉を、自身の声で、自身の意志で、力の限り叫び続けた。