10. いいねの呪縛
神薙 輝石は、二つに割れた組織の中央で、静かに両陣営を見渡した。
まず、天使派――カノンのチームに目を向ける。
空気が、ギスギスとささくれ立っている。利害の一致だけで集まった、個人の集合体。誰もが隣の同僚を出し抜くことだけを考え、足を引っ張れば即座に切り捨てられるという、危うい均衡と緊張感に満ちている。
だが、その瞳に宿る野心と、高い目標がエンジンとなり、圧倒的な成果を創出しているのも、また事実だ。
次に、女神派――美琴のチームに目を向ける。
誰もがお互いを尊重し、助け合い、ゆるやかに働く。優しい言葉と笑顔に満ちた、穏やかな空間。
しかし、そこには突出するパワーも、何かを変えようとする変革のエネルギーもない。停滞という名の、緩やかな破滅が静かに横たわっているだけだ。
地獄か、天国か――。
どちらを選んでも、その先にあるのは「滅亡」という同じ結末。
輝石は、ゆっくりと歩き出した。美琴の元へではない。彼が向かったのは、カノンの前だった。
そして、深く、深く頭を下げた。
「すまなかった。俺のせいだ」
予想外の行動に、カノンも、周囲の職員たちも息を呑む。
「俺が教えたかったのは、こんなことじゃない。お前のやり方でいくら成果を出しても…これは、まっとうな組織じゃない。明らかに、異常だ」
「……結局」カノンは、侮蔑の色を隠さずに呟いた。
「あなたは、あの女神の味方をするんですね」
「そうじゃない」輝石は顔を上げ、今度は美琴の方を真っ直ぐに見据えた。
「美琴さん。あなたのやり方でも、いいねは稼げない。誰もが平等で、安定した世界では、人々は幸せを当然のものとして享受するだけだ。そこに、心を揺さぶるほどの感動なんかない。日本滅亡まで、一直線だ」
彼は、再びカノンに向き直る。
「停滞からは何も生まれない。この組織を、日本を、本気で変えるには、お前の実行力…そのパワーは、必要不可欠だ」
「…いったい、何が言いたいんですか」
カノンの声に、苛立ちが滲む。
「そもそも」
輝石の声が、静まり返ったオフィスに響き渡る。
「俺たちは、根本的な問題を見誤っていた。…『いいね』とは何だ? なんのために、俺たちはそれを測定する?」
彼は、天界に召喚されたその日、美琴から受けた説明を思い返す。
天界は、人々の「感動のエネルギー」で支えられている。そして、各事業部の貢献度を明確にするために、「いいね」が指標として使われている、と。それを鵜呑みにした過去の自分を嘲笑する。
「人のプラスのエネルギー、それが本当に『いいね』か?」
輝石は、カノンのチームが生み出した、人間社会の歪みを指し示した。
「お前の施策が証明しただろう。『いいね』には様々な感情が混ざっている。『義理』『見返り狙い』『同調圧力』…そこには、プラスとは言い難い、負のエネルギーが、多分に含まれている!」
彼の言葉は、もはやこの事業部ではなく、天界というシステムそのものに向けられていた。
「現代社会の複雑なエネルギーを、『いいね』なんていう単一のKGI(重要目標達成指標)だけで評価する、この天界のシステム自体に、致命的な欠陥があったんだ!」
「つまり、KGIの定義自体が、間違っている。本当の意味で、世界を豊かにするプラスのエネルギーを測る指標は、別にある!」
「別の、KGI…? それは、いったい…?」美琴が、かすれた声で問う。
輝石は、彼女の瞳を見つめ返した。そして、彼女がずっと掲げてきた、彼自身が非効率だと切り捨ててきたはずの理念を、今、肯定するために口を開いた。
「あなたの理念はなんだ? 『誰一人とりこぼさない、豊かな世界の構築』。それを、いったいどうやって測る? 答えは、既にある。それは――」
輝石は、確信を持って宣言した。
「持続可能な開発目標……、『SDGs』だ!」
「えすでぃーじーず…?」「なんだそれは、下界の呪文か?」「意味がわからんぞ!」 ざわっと天界人たちの間に困惑が広がる。輝石は、そんな彼らの反応など1mmも意に介さず、続けた。
「『いいね』を追い求めた結果、なぜ、カルトじみた組織が生まれたか!?簡単だ。指標が一つしかなければ、組織も人間も、その達成のために手段を選ばなくなるからだ。当然の帰結だ!」
「俺が提案するのは、評価制度の革命…!『いいね』は数ある指標の一つに過ぎない。これからは、『社会福祉』も、『文化や芸術の発展』も、すべてが会社の成長に繋がる『成果』として評価される。そういうシステムに、この会社を…天界そのものを、作り変えるんだ!!」
輝石の宣言に、オフィスは水を打ったように静まり返った。成果主義のカノン派も、理想主義の美琴派も、誰もが言葉を失い、ただ目の前の男を見つめている。
地獄か、天国か。二者択一だと思われた対立。だが、彼が提示したのは、そのどちらでもない、誰も想像すらしなかった第三の道だった。
凍り付いた空気の中、輝石だけが、次のフェーズを見据えていた。
「この壮大な目標を実現するには、経営層からのトップダウン戦略と、現場からのボトムアップ戦略、その双方が必要不可欠だ」
彼は、まず、美琴を指し示した。
「経営層への働きかけは、もちろん、事業部長であるあなただ。美琴さん」
そして、次に。
その指先は、呆然と立ち尽くす、カノンに向けられた。
「労働者の声を束ね、現場から改革を突き上げる代表は――カノン!お前がやるんだ!!」
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