01. コンサルタント、神を叱る
無数のデータが、滝のように流れていく。
都心の超高層ビルの一室。神薙 輝石は、ガラス張りの壁の向こうに広がる夜景には目もくれず、目の前のモニターに映し出された幾多のグラフと数値を、冷徹な瞳で見つめていた。
『――ダメです、神薙さん! もう何をしても反応が…!』
ビデオ会議の向こう側で、クライアントであるアパレルメーカーの広報部長が悲鳴のような声を上げている。新商品のプロモーションが完全に停滞し、SNS上のエンゲージメント率は見るも無惨な数字を叩き出していた。
輝石は、静かにマウスを操作する。指先が数回クリックされ、いくつかの分析ツールが起動する。数秒の沈黙。
「部長。今から三点、指示を出します。まず、インフルエンサーAの投稿時間を21時から22時15分に変更。次に、キャンペーンのハッシュタグをB案から、C案の派生形であるC-2案に差し替え。最後に、現在公開中のモデル画像Dを、非公開のEに差し替えてください。説明は後ほど。今すぐ、実行を」
『え、あ、しかし、それでは現場が混乱して…!』
「実行してください」
有無を言わさぬ、静かだが絶対的な響き。広報部長は息を呑み、慌ただしく画面の向こうに消えた。輝石は再びモニターに視線を戻す。時計の秒針が、無機質に時を刻んでいく。
数分後。停滞していたグラフの一つが、まるで垂直の壁を駆け上がるように、爆発的な上昇を見せた。SNSの通知音が、クライアントの端末から狂ったように鳴り響いているのが、マイク越しに聞こえてくる。
『か、神薙さんッ! すごい、すごいですよ! 「いいね」が、エンゲージメントが、と、止まりません!』
興奮しきったクライアントの声に、輝石は薄く笑った。
「これが、伝説のコンサルタント・神薙輝石さんの力…! まさに、奇跡だ!!」
「はは。おっしゃる通りです。これはすべて『軌跡』――データに基づく分析ですよ」
その言葉を言い終えた瞬間だった。
――― カッ!!目の前のモニターが、あり得ないほどの純白の光を放った。網膜を焼くような閃光に、輝石の意識は強制的にシャットダウンされた。
◇
最初に感じたのは、上質な玉露の香りだった。次いで、穏やかな談笑と、規則正しいキーボードの打鍵音。
神薙 輝石がゆっくりと目を開けると、そこは見知らぬオフィスだった。明るい自然光が差し込み、観葉植物の代わりに瑞々しい榊が飾られている。一角には畳敷きの小上がりまであり、数人がリラックスした様子で談笑していた。壁の時計は、16時50分を指している。
「あっ、そろそろ定時ですね。みなさん、退勤の準備をしましょう」
誰かの一言に、オフィス中の人々が「はーい」と気の抜けた返事をし、一斉にデスクの片付けを始める。定時10分前にもかかわらず、だ。
「な、なんだここは……ホワイト企業?」
思わずこぼれた呟きに、すぐそばから、鈴が鳴るような声が応えた。
「ここは、天界です」
振り返ると、そこに一人の女性が立っていた。艶やかな黒髪を白い和紙の髪飾りで束ね、巫女装束を現代風にアレンジしたような、緋色の長袴を身に着けている。その微笑みは、慈愛という言葉をそのまま形にしたかのようだった。
「あ、あなたは…?」
「私は、こういうものです」
女性は、ふわりと頭を下げ、一枚の名刺を差し出した。そこに書かれた文字を読み、輝石はさらに眉をひそめる。
【天界 日本事業部 事業部長 天乃 美琴】
「詳細をご説明させてください。どうぞ、こちらへ」
美琴と名乗った女神に促され、輝石は無駄に広い会議室に通された。出された高級そうな緑茶を一口すする。美琴は、どこか申し訳なさそうにしながら、プロジェクターに資料を投影し始めた。
「ここは、天界。この世界を管理運営する組織体、その日本事業部です」
彼女の説明は、丁寧だが要領を得なかった。要約すると、こうだ。天界の力は、人間たちのポジティブな感情の総量――通称「いいね」によって支えられている。各国の事業部は、この「いいね」の獲得量を競い合っており、それが天界内での力関係を決める。そして、この日本事業部は、現在、深刻な「いいね」不足により、存亡の危機にあるのだという。
「そこで、協力者として、外部のコンサルタント…『いいね』集めの天才である、神薙輝石様を、召喚するに至りました。『いいね』集めに、ご協力いただきたいのです」
美琴は、紙ベースで印刷された分厚い資料を輝石に手渡した。パラパラと数ページめくるだけで、輝石はため息をつきたくなるのをこらえた。データは古く、分析は甘い。何より、目的と手段がごちゃ混ぜになっている。
「はぁ……なるほど」
ひとまず、輝石はプロのコンサルタントとして、冷静に自身の契約条件を確認することにした。
「私のメリットは? 報酬は?そして、断った場合のペナルティは?」
「報酬は、ご希望のものを可能な限り。ペナルティはございません。ただ、元の生活に戻るだけです。ここでの記憶は、然るべき処置により、忘れていただくことにはなりますが」
記憶操作。穏やかな口調でとんでもないことを言う。だが、輝石は内心で素早く損得勘定を弾き出した。報酬がいくら良くても、こんな非効率で曖昧な組織に関わるのは時間の無駄だ。記憶を消されるのは癪だが、実害はない。答えは決まった。
「せっかくのオファーですが…」
輝石が断りの言葉を口にしようとした、その時だった。
「ただ…」
美琴が、それまでの穏やかな表情を曇らせ、言葉を続けた。
「48時間以内に、100万『いいね』が集まらなかった場合……。日本は、『滅亡』します…」
「……は、はぁああああ!?!?」
輝石は思わず立ち上がり、冷静さをかなぐり捨てた般若の形相で叫んだ。
「な、なんだと!?お前…!俺を、バカにしているのか!?」
だが、美琴は悲痛な面持ちで首を横に振った。「バカになどしていません。それが、定められたルールなのです。事実です」
「いいや、バカにしてる!!」
輝石の怒りは、頂点に達した。彼は手にしていた資料を、会議テーブルに叩きつける。バンッ! と空気を裂くような鋭い音が、静かな会議室に響き渡った。
「こんなことが信じられるか!? この資料にも、今のプレゼンにも! そんな最重要事項が、ひと言も書かれていない!!」
輝石は、ワナワナと震える指で会議室の壁掛け時計を指し示す。彼の怒りの矛先は、「日本滅亡」という曖昧なワードではない。「前提条件の欠落」という、その致命的なまでの段取りの悪さにこそ向けられていた。
「この打ち合わせは、一体何だ!? 何分無駄にしたと思っている!タイム イズ マネー!!非効率にもほどがある!!!!」