俊彦の葛藤
和成の父、俊彦に手紙が届いた。
送り先は、小児精神科医の中條清彦。
彼は和成のことを心配する教員から、祖父母に連絡が行き、その後に自分に相談があったと書かれていた。
『結果として、和成君が心配した知的障害ではありませんでした。ですが学習障害の一つ、ディスレクシアと診断される状態です。あまり多くない障害なので、お聞きになったことはないでしょう。
この病は知能には問題がなく、外国では有名な哲学者や数学者もこの障害にかかっていたそうです。
残念ながら日本での認知度は、海外よりもさらに低い状態です。
和成君は読字障害の状態です。
文字がうまく認識できず、歪んで見えるようです。
その為に認識に時間がかかったり、わからなくなる状態です。
ですが口頭で何かを伝えたり、指示をすれば容易に理解は可能です。
和成君は早期に見つけたせいか、症状は軽度のようで、1行ずつに見える部分を限定すれば、理解しやすくなるようです。
算数障害と言う数式が認識できない症状は、今のところなく、問題を解いて貰えば高確率で正解しています。
ただ今後も、今の状態を改善する取り組みが必要です。
こちらの学校の先生や祖父母の方は、その取り組みに積極的で和成君も改善が見られ前向きになっています。
僕は埼玉に住んでいますが、和成君は祖父母の方と毎週通ってくれています。
小児精神科医は日本に少なく、通院するなら長野県はとても良い場所だと思います。
失礼ながらこの障害は、周囲の協力が得られないと改善は難しいです。
今回のように発見されたのも、周囲の関心があったからだと思うほどです。
見過ごされていれば、優秀であるのに勉強が出来ないとみなされ、将来の職業などに支障を生じるでしょう。和成君は発見されましたが、他にも発見されないで、辛い思いをしている子供はたくさんいると思います。
きっと親御様も、不安で辛い思いをしたことでしょう。
私の考えとしては、協力者がいらっしゃる今の環境を大事にして、アドバイスを続けたいと思っています。
和成君は最初の診察をする時、
「もし僕が知的障害だったら、お母様が離婚するかも知れないんです。だからもし知的障害でも、内緒にしてくれませんか?」と言っていました。
再度失礼ながら、和成君はお母様の話をする時、極度に緊張しています。その為出来るならば、状態が安定するまでは離れていた方が治療は進むと感じました。
今後も経過をお伝えしていきたいと思います。
不適切な書き方で申し訳ありませんが、今後ともよろしくお願いします。
中條清彦』
読み終わった後、俊彦は苦渋の表情を浮かべた。
「ああ、そんな障害にかかっていたなんて。きっと辛かったな。字が歪むなんて、想像もつかなかった。でも和成は向こうでわかって貰えたんだな。
もっと話を聞けば良かったのか?
でも和成だって、説明なんか出来なかっただろうし。
まあ、一先ずは良かったのか?」
妻の懸念していた知的障害ではないが、学習障害と診断された。知能には問題はないと言うが、今帰って来ても妻では対応は難しいだろう。
きっと、つきっきりになるだろうし、そのことに妻は堪えられないだろう。
そして和成も、知的障害なんて言葉を医師に伝えていた。恐らく妻が、普段から聞こえるように話していたんだろう。
すでに和成は、妻のことが怖いはずだ。
そしてうまくいかなければ、今の妻は冷静ではいられないだろう。
だから俊彦は決断した。
この手紙を妻に見せて、和成の環境の為にも今のままで様子をみようと。
あくまでも、通院に良い環境だと強調して。
俊彦はこれが最良だと思った。
多忙な自分では何も力になれないから、妻に任せるとまた不安定になるかもしれない。
面倒ごとの回避を図ったのだ。
だけどこれで、一条院家と和成の溝は一層深まった。和成が自宅に戻る機会をなくした瞬間だった。
けれどそれは和成にとっては、とても幸福なことだった。
◇◇◇
弟の雅之と妹の青葉は、会えないことで和成のことを心配していた。
だがリツコは、あれから一言も和成のことを話すことはなかった。
まるで最初から居ない者だったかのように。
「俺が冷たくしたから、兄さんは戻ってこないのか?」
和成が居なくなったことで、雅之がからかわれることはなくなった。だが主のいない和成の部屋は、当たり前だが閑散としていた。そして雅之に後悔が駆け巡る。
青葉も優しかった兄がいなくなり、寂しさを抱えていた。和成がいなくなり、雅之も明るさが消えてしまったから。
「和ちゃん、早く帰ってこないかな?」
和成のクラスメート達も、和成のことを気にしていた。自分達のせいではないかと。
それぞれに喪失感を抱える日々だ。
◇◇◇
その頃サクラは、懸命に勉強していた。
今よりもっと幼い時から、両親に言われて来た。
「モモカお姉ちゃんは病気なの。だから健康なサクラが、お姉ちゃんを守ってあげてね」と。
だからサクラは、いつも必死にモモカを守っていた。
モモカがからかわれたら、言い返すくらいに。
出来ないことは、手助けをして。
「でもお姉ちゃんは、どこが悪いのだろう?」
成長する度に疑問が湧く。
そして気づいたのだ。
「ああ、お姉ちゃんは、ずっと大人になれないんだ」と。
正確には違うのだが、モモカの成長が遅いことでサクラにはそう思えた。
私がたくさん働いて、お姉ちゃんを守らないといけない。だってお姉ちゃんは働けないのだから。
子供心に、強い庇護本能が目覚めた瞬間だった。